大動脈弁置換術。止まった心臓が再び動き出す?
B29の爆弾が日本の空に落とされた焼け野原の中でウチの父親は生まれた。まだ健在であるが、もうトシである。
高齢のため大動脈弁狭窄症という症状になり、とうとう手術することになった。血が逆流するのを防ぐための一方通行仕様の弁が固くなって、血流が阻害されるという病気だ。
詰まった水道をイメージすると分かりやすい。血が流れにくくなる。毎日働き続ける心臓ポンプが常時詰まった状態に曝されると、問題が生じる。ポンプに負担がかかるし、給水が行きわたりにくくなる。
放っておくと「ウッ」と心臓を抑えて、突然死してしまう可能性があるようだ。心不全など突然の症状が怖いため、わかっているならあらかじめ処置しましょうというわけである。
ここまでのことは難しいところは何もないため、理解が早い。なるほど、よくわかりました。
問題はその後だ。
大動脈弁置換術という手術をするのだという。心臓を一時的に止めて、弁の手術した後、心臓を蘇生させるというのだ。
えっ? そんなことできるの? なんか死んだ人が生き返る魔術のように聞こえますけど??
この世界の絶対ルールは「死んだ人間は蘇らない」だったはず
「なにい? 本当か?」
わたしの頭の中が混乱していた。心臓が止まったら死んじゃうじゃないか!
「看護婦さんがそう言っていたよ」
ずっと父に付き添っている母が言った。しかし母も父と同年代であるため、説明を鵜呑みにはできません。
おいおい。マジか? いったん止まった心臓は二度と復活しないというのがこの世界のルールじゃありませんでしたっけ?
一度、止まった心臓が再び脈打つというのなら、死者を蘇生することだって可能なはずじゃないか?
「どういう理屈で止まった再び心臓が動き出すのか聞いた?」
母に尋ねるが、わからないと言います。大丈夫か? 騙されているんじゃないか?
それが本当なら、テレビドラマで心電図がピーッと脈打たなくなって「ご臨終です」っていうシーンがあるが、大動脈弁置換術と同じことをやればもう一度心臓が脈打つようになるんじゃないの?
っていうか、心臓が止まった時、人は死ぬんじゃないの? 「死んだ人間は復活しない」というのがこの世界の絶対ルールじゃなかったのか?
それとも最近のテクノロジーは死者蘇生を可能にしたのでしょうか?
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』だって架空の物語だから「心臓が止まった(死んだ)ジュリエットが実は生きていた」という設定が許されたのです。フィクションだから許されたので、そんな都合のいい薬が実際にあったらたいへんである。その薬のせいでこれまでに何人の人が(実際には)生きながら火葬されてしまったでしょうか。
まるで錬金術です。いつのまに人類はそんなことができるようになったのでしょうか。
ここは患者の長男として、詳しく調べてみることにしました。これはそのレポートです。
生命の神秘。止まった心臓が再び動き出す
調べるといってもネット検索です。大動脈弁置換術ぐらいネットで簡単に調べることができます。専門医がいくらでも知識を披露してくれています。
「むうう。むむむ……」
わたしは唸りました。なるほど看護師の言うことは間違いではないみたいです。本当に心臓を止めて施術するようです。
心臓を止めている間は人工心肺という装置で血流を維持するようです。最新の錬金術テクノロジーを調べていたら、大昔に手塚治虫『ブラック・ジャック』で読んだ技術が出てきて驚きました。
手術中は体温を30度前後に下げて、心停止中の心臓には「心筋保護液」という薬剤を入れるそうです。手術後に「心筋保護液」を抜いて血流を復活させて、体温を戻すと、自然と心臓は脈打ち始めるのだそうです。
!!!! なんだ、こりゃあ。生命の神秘じゃないか。
止まった心臓が再び脈打つというのか。死者蘇生といったい何が違うのだろう。
専門家は現象に慣れすぎてしまって、不思議を感じられなくなっているのかもしれない
何よりも驚いたのは執筆者(執刀経験豊富な医師)の誰もが、一度止まった心臓が再び動き出すことに、なんの驚きも感じていないことでした。
どうして心臓が再び動き出すのか、そのことに一切触れていないサイトもたくさんありました。
いやいやいや。そこを解説してください。一般的にそこが一番不思議なところです。
心臓の弁の置き換えなんて想像できる範囲内で何の神秘もありません。でも止まっていた心臓が再び動き出すというのは生命の神秘ではありませんか?
懇切丁寧に大動脈弁置換術を解説しながら、再び心臓が動き出すという肝心のソコにどうして触れないのかわたしにはわかりませんでした。
「血流を取り戻して温めると自然と心臓が動き出します」ぐらいのライトな感覚で書いてある。
いやいやもっと驚くところだろ! 一度止まった心臓が再び動き出すなんてホラー映画クラスのビックリだろ!
とここはツッコミを入れたいところです。専門家は現象に慣れすぎてしまって、不思議を感じられなくなっているのかもしれません。
「一度止まった心臓は二度と動き出さない」
そう思い込んでいたわたしの常識は、実は常識ではなかったようです。
いやあ、驚いた。
もしかしたら医師にも「再び心臓が動き出す」という現象(結果)はわかっているけれど「どうして再び心臓が動き出すのか(理由)」は、わかっていないのかもしれない。
そもそもどうして人間が生きているのか、医者はわかっちゃいないのだ。
どうして人間が生きているのか、医者はわかっていない
父の容態が気にかかるために調べ始めたことですが、壮大なテーマにぶつかってしまいました。様々な発見もありました。
なんとうちの父は固くなった自分の心臓弁の代わりにウシの弁を入れるそうです。今後はウシの一部と一緒に生きていくことになるのか。ウシさんよ、ありがとう。父に心臓弁をくれたウシのその他の部位が、食肉用として食われていませんように。
でも他人の臓器は免疫系が攻撃すると聞きます。牛の心臓弁なんて免疫の拒絶反応でくっつかないんじゃないの?
……たぶん、牛の弁といってもナマのやつではなく、なめし皮のように工業製品化したやつなのでしょう。生きている牛の細胞じゃないから金属を身体に入れるのと同じような状態になるんでしょう。
医者のサイトにはそういうことが書いてありません。
心臓が再び動き出す驚きについても、医者のサイトは関節していません。「そこ」が最も知りたいところなのに。
おそらく「本当に死んだ人間」には脳から心臓に「ビートを刻めという命令」が出ていないが、薬物で一時的に心臓を動かなくしただけの状態の「本当は死んでいない人間」には脳から心臓に「ビートを刻めという命令」は出続けているため、筋肉の動きを阻害する薬物を取り除けば心臓はまた動き始める、という理屈だと思います。
でも仮にも「大動脈弁狭窄症の術式を説明するサイト」ならば、そのことを明記してほしいものです。医者が興味を持つ分野と患者サイドが興味を持つ分野が違いすぎます。
脳死でも心臓は動いていることがあります。心臓にはビートを刻む器官があるのでしょう。そのビート器官が生きている限り、心臓は再び動き出すのか。逆にビート器官が役目を終えて動かなくなった時には、どれだけ栄養をあたえても再び心臓は脈打たないのかもしれません。やはり死者は蘇生しないのです。
父は患者であって死者ではありません。だからいったん心臓が止まってもまた蘇生できるのです。
命の謎よりも、大切な人が生きているという現象の方が重要
リズムを刻むのが命です。波動を失ったときは、命はモノに還るのです。
手術のことを調べているうちに、読んでいて気持ちが悪くなってしまいました。内臓のことを想像するだけで、指先に力が入りません。
たぶんわたしのサイトは医者よりもわかりやすく大動脈弁狭窄症の謎について解説しているはずですが、医者にならなくて本当によかったと思いました。
父の命のことはもう医者にまかせるしかありません。
命の謎よりも、大切な人が生きているという現象そのものの方が重要です。