修験道とは何か? 「お伊勢参り」が旅行・物見遊山だったのならば、「修験道」は登山・トレラン趣味である
『自然の中を歩いて、自分を鍛える。自然の声に耳を傾け、おのれの内面を見つめ、大いなるものと一体化しようとする行為』
これなんのことを言っているか、わかりますか?
登山でしょ
正解でもある。でも本当は修験道のことを書いてあるんだ
先日、車中泊で、出羽三山・羽黒山に登ってきたところである。羽黒山は修験道の道場として栄えてきたところなのだが、私の装備は完全に登山者のそれであった。
本来ならば、修験道の行者のことを修験者という。修験者は修験の装束で登山をするのであるが、この装束を調べていて驚いた。登山道具・トレイルランニングの装備と酷似しすぎているのだ。
修験者は、頭襟という帽子をかぶり直射日光を避け、足がもつれずに動きやすいように脚絆というゲートルを脛に巻いている。錫杖というストックをついて、笈というザックを背負い、貝緒というザイルを身につけているのだ。
これはまるっきり登山者ではないか、と登山から山の世界に入った自分は思うのである。修験道の遊行はトレッキングであり、回峰行は縦走だ。
修験道と登山・トレランの相似点
昔、「伊勢詣で」という宗教行事があった。「お伊勢参り」「お蔭参り」などともいうが、日本の最高神アマテラスが祀られている三重県の伊勢まで参拝に行くということである。イスラム教のメッカ巡礼など同じようなことは今日世界中で行われている。しかし多くの庶民にとって「伊勢詣で」は聖地巡礼のていをした物見遊山、旅行だったと言われている。寺社が今でいう旅行代理店のような仕事をして人を集めていた。そして宿坊に泊まらせた。もちろん信心からではなく寺社をホテルとして利用したのである。
だとすれば山岳宗教・修験道というのは、宗教の名前を借りた登山趣味だったのではないか? お伊勢参りを旅行と言ってもいいのなら、修験道は登山と言ってもよさそうである。冒頭イロハが誤解したように修験道と登山は酷似している。
修験道の霊山として有名な山といえば、大和の葛城山であるが、金剛山→大和葛城山→二上山のコースはトレイルランニングの世界ではダイヤモンドトレイル通称ダイトレとして超有名な場所である。トレランのメッカと言って差し支えない。ちなみにダイトレというのは金剛がダイヤモンドのことだからである。
関東のトレランのメッカ、ミシュランの高尾山、奥多摩の御岳山も修験道の山である。高尾山の天狗は修験者の象徴だし、御岳山のびっくりするほどたくさんある宿坊もあの山が信仰の地であった証拠だ。今でもトレランのトップランナーのスピードのことは「天狗のように速い」と表現したりする。
他にも修験道の有名な山といえば、日本100名山でいえば、日本一の霊峰・富士山、剱岳を地獄の針の山に見立てた立山曼荼羅で有名な富山の立山、2014年に大噴火した木曽御嶽山、国引き神話の伯耆大山、長大な鎖場で有名な石鎚山、山頂のヤマトタケルが有名な伊吹山などがある。
他にも大山登山マラソンの神奈川県の大山、世界遺産・熊野古道の熊野、忍者の戸隠山、鬼一法眼が源義経に六韜三略を授けたという鞍馬山などたくさんある。忍者も天狗も修験者も鬼もだいたい同じ人のことを差している、と思って間違いはない。登山者が登ってみたい、トレイルランナーが走ってみたいところばかりである。
日本100名山目線から言えば、すこし低山、里山が多いのが特徴である。修験道は深田久弥ほどアルパイン(アルペン)スタイルではない、ということであろう。深田は走る人ではなかった。深田100名山は原則的に「山高きが故に貴し」のアルペンスタイルを貫いている。
気持ちよく走るためにはあまりにも高山は不向きである。一歩ごとの段差が大きすぎるとスピードが出せない。壁のような場所では完全に走れない。足が止まってしまうと体が冷えてしまう。どちらかといえば里山に近い葛城山や高尾山のような低山の方がトレイルランニングには向いているのである。
修験道はどうして「山高きが故に貴からず」を実践したのであろうか。
修験者は放浪の旅人。流離のバックパッカー
その秘密は里山にある。縄文文化的な狩猟採集民は里山を生活の舞台にしていた。キノコや山菜は里山で採れるのだ。ライチョウと高山植物の雲上の世界では生活していくことは難しい。
その里山暮らしの人々を、平地で農耕する弥生文化的な人々(ヤマト朝廷)が「まつろわぬ人々(自分の家来にならない種族)」として畏怖したことから修験道は生まれた。もし山の狩猟採取だけで食っていくことが出来るのならば、どうして里の者の言いなりになって納税義務を果たす必要があるだろうか。納税させるためには定住させて管理することが必要だ。
五人組(隣組)のような監視社会、子は親の仕事を継ぐものという管理社会では、非生産的な登山趣味に血道を上げることは難しかったであろう。唯一、修験道の修行のため、世のため人のための修行であるという大義名分(言い訳)だけが、登山という行為を正当化させてくれたに違いない。
また、日本人が山を拝むのは先祖の遺体を山に葬ったことがきっかけらしい。山を拝んでいたのではなく、先祖を拝んでいたようだ。縄文文化的な万物に神が宿るという汎神論と、弥生文化的な祖霊信仰は山において違和感なく結合したのである。
この調子で山岳宗教・修験道は神道や仏教とも結合していく。神仏習合という。修験道の寺院には鳥居があるし、修行の際には指で印を結んで真言を唱えたりする。
厳密には鳥居は神道、真言は仏教であるはずなのだが、深い森の中においては社(やしろ)も護摩も全く違和感なく受け入れてしまうのが山のおそろしいところだ。
たとえば修験道において深い森の中で焚火(護摩)の前で「空を飛ぶ鳥を見よ、撒かず、刈らず、倉に収めず。明日のことを思い煩うな」と教えられたとしても何の違和感もなく修験道の教えとして受け入れることができそうである。それが山の奥深いところである。
修験道において最も大切なのは印を結ぶことではなく山を逍遥することだったのだ。それは宗教色よりも登山色が強かった本質の証拠ではあるまいか。
「山越阿弥陀図」などを見ると「山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいう」という登山者の山のイメージとピタリと重なる。
そして山は暮らしの場であった。生活に必要なものを山から得ていたのである。学び舎であると同時に、師でもあるのだ。
漂泊し遍歴するのは修行のためではない。狩猟採集民族の血がそうさせるのである。そういう生き方がしたいから、そういう生き方しかできないから、そんな人たちの互助組織が日本中にある修験道の寺社だったのであろう。もちろん修験道は怨霊鎮撫の呪術としての側面があることも否定はできないが、それだけならば山でなくてもよかった筈である。でも修験道は山でなければならなかったのだ。
現在は完全な無生産的行為、無為に挑戦する登山、トレランが趣味として許されている時代である。だから登山者は宗教・修験道を意識しないが、実際のところ、この日本の山々を逍遥する限り、知らず知らずのうちにあなたの心の中を修験道の色に染めていく。
私は世界各国をバックパッカーとして放浪旅行してきたが、どんなに壮大な教会やモスクを訪れてもキリスト教にもイスラム教にも染まることはなかった。心の中心にこの山岳宗教がある限り、他の宗教に染まることなんてありえないとおれはいつも感じていた。