ここで書いているのは、今さら『あしながおじさん』でございます。
わたくし、もう中年男子ですが、はじめて読みました。
ヘロドトス『歴史』という字の小さいギリシアの古典を読んでいたので、同時並行読書には軽い読み物がよかったので手に取った次第です。
ストーリーの梗概はどことなく知っていて、その通りでした。しかし想像以上に面白いものでした。
『あしながおじさん』は少女の読み物のように思われている人が多いと思います。たしかに少年の読み物ではありません。少年が読んでも面白くないかもしれません。
しかし少年がおとなになって、おじさんと呼ばれる年齢になった時、突然、『あしながおじさん』はおもしろくなります。
まるで小さな少女から自分に書かれた手紙のように読めるからです。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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手紙文学の傑作
いわゆる手紙文学です。
もうこのデジタルSNS時代にはありえないような純情が手紙から溢れかえっております。今だったら奨学金とかクラウドファンディングとか自力で何とか出来ることも、この時代は「おじさまの援助」がないと無理でした。
両親を知らない孤児院育ちの主人公ジュディが、名前を明かさない謎の紳士からの思わぬ援助により女子大に進学できることになりました。ジュディは資金援助してくれた謎のおじさまに感謝の気持ちや大学生活のエピソードを手紙で報告しつづけます。その手紙をわたしたち読者は読むというわけです。
大学に入る年齢ですから、ジュディは十八歳です。
謎のおじさまのことをジュディはちらっと影だけ見たことがあります。その影がえらく足長に映ったので「あしながおじさん」と命名して、おじさまに手紙を書くのです。
このジュディの手紙というのが、おもしろいのです。おじさまの姿が見たい。顔を知らないと手紙が書きづらい……と感謝、純情だけでなく、愚痴や、反抗したりもするのです。
そして世界で二番目に好きな人、若い貴族のジャービーが実は世界で一番好きな人「あしながおじさん」でしたというオチですね。
世界で二番目に好きな人と一番好きな人は、実は同一人物でした。
少女の奔放な感情の流れがおもしろいのです。
何となく知っていた通りのストーリーが面白かったのではなく、少女の奔放な感情の流れがめちゃくちゃ面白かったので、書き残しておこうというわけです。
資金援助によって関係ができて、手紙の交際が続くというわけで、一種の援助交際です。エロい意味はまったくありません。そもそもラストシーンまでおじさまは正体を明かしません。
少女の感情の流れ。『あしながおじさん』あらすじ
ジュディはあしながおじさんに文才を認められ、作家になろうとします。とうぜん作者ジーン・ウェブスターも作家になろうとした少女だったのでしょうから、ジュディと作者のイメージが被りますね。
手紙は月に一度書けばいいのですが、感情(文才)が溢れかえってジュディの手紙は止まりません。
貧しく、しつけのきびしい孤児院の出身なので、ジュディは学べることや、新しい服や、自由や、おいしい食べ物や、旅行や、同年代の友達など、すべてのことが新鮮で、しあわせで、一瞬一瞬が楽しくて、そのすべてをあたえてくれたあしながおじさんに感謝せずにはいられません。
孤児院育ちゆえのギャップ(シャーロック・ホームズなど普通の女の子が知っていることを知らなかったりする)に傷つきつつ、ジュディはがんばります。「やさしい本をいっぱい読む」という手で知識を埋めようとします。
ジュディはレディーになっていきます。わたしをみておじさまが「この役に立つ人間を世に出したのはこの私だ」とおっしゃれるように頑張ります。
そしてじぶんにしあわせをくれた「おじさま」の幸福も心から願ってくれます。誰かを愛さずにはいられない。その相手は「おじさま」しかいない、と。
おじさまはハゲていますか? 手紙相手の顔を知らないジュディには、笑ってしまうようなことが最重要情報でした。
ともだちのおばあさんがうらやましくなると、ジュディは「おじさま」に「おばあちゃん」になってくださいとせがみます(笑)。あなたは私の家族のすべてです、と。
手紙の返事がこないとすねてしまいます。わたしに興味がないのですか? 手紙はゴミ箱に捨てているんでしょうね、と。その直後にひどい手紙を書いたことをすなおに謝ってきます。
小さなプレゼントを泣いて喜んでくれます。援助しがいのある女の子ですね。おじさまはジュディの休暇を自分が幼いころに育った農園に招待します。
必要以上の援助は受けたくないと、もらった小切手を返そうとしたりします。奨学金を受けようとするジュディに全額補助を申し出ますが、拒否されます。わたしの気持ちをお察しください、と。
「わたしが偉大な作家ではなく、ただの女の子になったら、ひどくがっかりなさいます?」
「さよなら、おじさま。この世はほんとに楽しいところ。」
……なんというか、文学というのは「世界は不条理だ」とか「苦悩に満ち溢れている」とした方が、「深い」「よくわかっている」と評価される傾向にあると思うのですが、
幼い子どもが書く絵のように、あっさりと「世界は楽しい」「私は幸せ」と書けることが、まるでモダンアートを見るように逆に新鮮で、はっとするような感動があります。
その反面、他の男の子に誘われたキャンプに行かないで、自分の農園に行くようにとの命令にへそを曲げて、手紙の義務を無視したりもします。
忠実で、感謝だけの手紙では退屈してしまいますが、ジュディが相手なら「おじさま」は心ゆさぶられて退屈しません。けっこう拗ねたり、頑固だったりします。
(実際、友だちのキャンプだとおじさまことジャービー・ペンドルトンはジュディに会えませんが、農園なら会うことができるわけです)
成長したジュディはいいます。たいていの人は生きているのではなくて、競争をしているだけだと。ゴールに着こうが着くまいが大した違いはない、人生を楽しめ、と。
おじさまにヨーロッパ旅行に誘われますが、借りが大きすぎると断り、家庭教師をしてお金を稼ぐ堅実さを見せます。実はおじさまことジャービーが一緒に行きたかっただけなのですが、フラれてしまいます。
おじさまはお金持ちらしく、ジュディがいうことをきかず反抗すると、へそを曲げます。それをジュディがからかったり、謝ったり、なだめすかしたりします。
おじさん的、胸キュンポイントですね。
卒業式にも来てくれないおじさまのことをジュディは忘れようとします(ジャービーは来てくれました)。でもさびしくなって誰かに思ってもらいたくなると卒業後でもジュディはおじさまに手紙を書きます。
そしてとうとうジャービーに結婚の申し込みをされます。それをあしながおじさんに相談するわけです。私は孤児院出身なのに、貴族と結婚してもいいのだろうか、と。
そしてそしてとうとうとうとうあしながおじさんが会ってくれることになりました。相手は……
これが小説『あしながおじさん』です。
あしながおじさん=光源氏。後見人と結婚したい願望は一種のファザコン
その後、二人は結婚することが暗示されています。これは貴族のジャービー側から見ると少女を自分が育てて、自分の妻にするという光源氏的な展開です。
『あしながおじさん』にとってはこれがすべてですが、『源氏物語』にとっては一部分に過ぎません。
源氏が日本文学の最高峰だというのがわかる気がしますね。
ところでこの「自分が育て上げた理想の女と結婚する」光源氏・あしながおじさんの話しをすると、
「男ってそういうところあるよねー」という返事をもらうことがよくあります。
でも……よく考えてみてください。源氏物語もあしながおじさんも作者は女性です。
ってことは、この「自分の後見人と結婚したい」願望は、男の欲望ではなく、むしろ女の願望なのではないでしょうか。
少女のころ「お父さんと結婚するー」と思っていた人はいないでしょうか? 父親こそTHE後見人です。
もしかしたらこの「自分の後見人と結婚したい」願望は一種のファザコン(ファーザーコンプレックス)なのかもしれませんね。
作者ジーン・ウェブスターは、不幸だったが……
1912年の作品。大正元年です。
この時代の日本女性にジュディの奔放さ、自由さを、この時代の日本男性に「あしながおじさん」のやさしさや愛情を、あったとしてもそれを公に表現することは難しかったのではないかと思います。
アメリカは自由の国ですね。
作者ジーン・ウェブスターは出産の翌朝、三十九歳の若さで死んでしまったそうです。産褥というやつですね。まだそういう時代でした。
主人公ジュディの将来は小説に描かれていませんが、しあわせだといいですね。作者のジーン・ウェブスターとは違う未来を想像しましょう。
少女ものだが、おじさんモノでもある作品
『あしながおじさん』は少女の読みものとされています。たしかに少年が読むものではありません。
しかし一周まわっておじさんが読んでもおもしろいと思いました。
あしながおじさんの立場で、自分にかかれた手紙として読めるから。
援助する側として読めるからです。
援助交際というと、昨今の日本では悪いイメージがありますが、あしながおじさんとジュディの関係は援助交際以外のなにものでもありません。
こういう関係ならば、援助交際もいいなあとおじさんに思わせる名作が『あしながおじさん』なのでした。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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