人類最古のクエスチョン。私たちはなぜ死ななければならないのか?
古今東西の大賢者たちが答えを出せなかった人類最大の難問がある。それは「人は何故死ぬのか」「どうして私は死ななければならないのか?」という問いに対する答えだ。
哲学における最大のテーマだといってもいいだろう。だが私はこの問いに答えた哲学者、賢者を知らない。
「人は何故死ぬのか」「どうして私は死ななければならないのか?」
この問いに対して、イエス・キリストもブッダもマホメットも万人が納得するような答えを出してはいない。彼らは「死には意味がある」「それは理であり避けられない」と別の答え方をしただけだ。質問に対して真正面から答えてはいない。
ソクラテスも、プラトンも、アリストテレスも、デカルトも、カントも、キルケゴールも、レオナルドダヴィンチも、ニュートンも、アインシュタインも、フロイトもダーウィンも「人は何故死ぬのか」という問いに真正面から答えた人はいないはずだ。
古今東西の大文豪の著作を読み漁ったが、答えを書き残した文豪はひとりもいなかった。
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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
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古今東西の賢者、哲学者が答えられない質問にユーチューバーが答えていた
ところが先日、YouTubeを眺めていて、ビックリするような動画を見た。その動画というのは「死とは何か? 人はなぜ死ななければならないのか?」という疑問を、小学生にもわかるように説明する試みだという。
は? バカ言っちゃいけない。古今東西の大賢者たちが答えられなかった人類最大の難問を、たかがユーチューバーに説明できるわけがないじゃないか。ましてやそれを小学生にもわかるように説明することなど不可能に決まっている。なかば呆れ、なかばバカにした気持ちで、私は動画を眺めていた。
「どうせ真正面から答えてないんだろ、答えられるわけがないものな」そう思っていた。その動画の結論は、要約するとこういうことだった。
「自分の分裂複製だと同じタイプの遺伝子しか残せないが、有性生殖をすれば混ざり合うので多様な遺伝子が残せる。すると環境の変化に対応しやすく、種が絶滅することなく生きのびる可能性が増える。そういう種の生存に有利なシステムを採用した種だけが生きのびることができた。その果てに「今」がある。
しかし生き物は長いこと生きているとちょっとづつ遺伝子DNA情報にダメージが蓄積されていき、そのダメージの一部は子孫にも受け継がれることがわかっている。傷ついた遺伝子の子どもは、その遺伝子を子孫に伝えることになり、長い目で見ると正常な遺伝子で生まれてくる子供は減っていく。
そこで寿命という死のプログラムが生まれた。傷ついた遺伝子DNAが死によって個体ごと消えてしまうことにより、種としてDNAの傷が蓄積されにくくなる理屈だ。
死のプログラムがなくて老いた個体がずっと生きて繁殖を続けると、子孫はエラーのある遺伝子ばかりになってしまう。種が生きのびるために個は死ななければならないのだ。これが私たちが死ななければならない理由である」
死のプログラムによって、遺伝子のエラー、DNAの傷を個体ごと排除して、種として生き残る戦略だった
えっ? そんな説、はじめて聞いた。どうせどこかで聞いたようなごまかしの説明しかできないんだろうと思っていたら、聞いたこともない新説だったのでひじょうに驚いた。
しかもその新説に納得している自分がいた。その説、正しいかもしれない、と思った。私の「違和感センサー」が作動しない。「いや、おかしいだろ」とツッコめない。ごまかしてもいない。質問にたいして真正面から答えているではないか。
現在、生き残っている多細胞生物のほとんどが死という宿命を背負っているのは、遺伝子のエラーや傷を子孫に残さないように、死のプログラムを組み込んだ種族しか、生き残ることができなかったからだ、というのである。
直感的に、なるほどそうかもしれない、と思った。そして心底驚いた。何よりも、古今東西の賢者、哲学者たちが答えられなかった人類最大最古の難問に対して、本名を隠した無名のユーチューバーが見事に答えていることに。
その説は自分で考えだしたことなんだろうか? それとも同時代人の誰か生物学者が言い出した新説を紹介しているんだろうか? だとしたら、それは誰だ? 寡聞にして私は知らないが。
哲学や宗教や文学が解けなかった人類最大の難問が解決済みだった件
この説には私を納得させるものがあった。哲学や宗教や文学が解明しようとしてできなかった「なぜ死ななければならないのか」という問いに対する答えを、こんなところで聞けるとは思わなかった。
なんだ。人類最大の疑問に対する答えは、もう出ていたのか。
その答えを出したのは、宗教家でも哲学者でもなく、おそらく生物学者であろう。このユーチューバーは生物学者の説を紹介しただけだろうと思う。もしもそのYouTuberのオリジナルの考えだったとしたら、歴史に名前が残ってもいいほどの偉業だと思う。
だってくどいようだが、「人は何故死ぬのか」「どうして私は死ななければならないのか?」というのは人類最大のテーマであり、古今東西の宗教家、哲学者、賢者、大作家がそれぞれ答えようとしてきたが、誰も全員を納得させられるような答えをすることができなかったことなのだから。
「神の意志」では納得できない。しかし「死のプログラムがなくて個体がずっと生きていると、子孫はエラーのある遺伝子ばかりになってしまい、種ぜんたいとして生きのびる可能性が減る。種のために個は死ななければならないのだ。これが私たちが死ななければならない理由である」と言われたら納得できる。
「歳を取るとどうして異性にモテなくなるのか?」という質問に同じ理屈で答えることができる
なぜこの理屈が正しいと感じるのかというと、論理的だからである。
この理屈でたとえば「歳を取るとどうして異性にモテなくなるのか?」という質問に対して、同じ論理で答えることができるからだ。
老いた個体は遺伝子に傷やエラーを抱えている。種としてそういう子孫を残さないようにするために、歳を取ると異性にモテなくなる、というわけだ。モテなければ繁殖行為を行うことができないからね。
種のために個は犠牲になる vs 種のために個を犠牲にしない生き方
このブログの著者は「種のために個を犠牲にしない生き方=トウガラシ実存主義」を説いている。国籍不明あつかいされた帰国子女がたどり着いた人生哲学だ。
このYouTuberが説く「種のために個は死ななければならない」という生き方は、帰国子女の人生哲学「種のために個を犠牲にしない生き方=トウガラシ実存主義」とは正反対のものである。
正反対だからこそ正しい、と直感したのだ。それが真実・真理なのだろう。真理と正反対だからといって、私のトウガラシ実存主義はいささかも揺らぐものではない。それは「重力はあるが、人は重力から羽ばたかなければならない」というようなものだ。真実だからって、心におさまるとは限らない。真理だからって、諦めなければならない理由は何もない。人は老いるからといって老いない研究をしてはいけないということにはならないではないか。
真理に反逆するのはむしろ心地よいほどだ。正反対でむしろさわやかだ。私はこれからもトウガラシ実存主義を貫いていこう。
しかし……玄奘三蔵がインドで仏典を手にしたときのような思いがする。わたしたちはずっとその答えが知りたかったのだ。
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旅人が気に入った場所を「第二の故郷のような気がする」と言ったりしますが、私にとってそれは韓国ソウルです。帰国子女として人格形成期をソウルで過ごした私は、自分を運命づけた数々の出来事と韓国ソウルを切り離して考えることができません。無関係になれないのならば、いっそ真正面から取り組んでやれ、と思ったのが本書を出版する動機です。私の第二の故郷、韓国ソウルに対する感情は単純に好きというだけではありません。だからといって嫌いというわけでもなく……たとえて言えば「無視したいけど、無視できない気になる女」みたいな感情を韓国にはもっています。
【本書の内容】
●ソウル日本人学校の学力レベルと卒業生の進路。韓国語習得
●関東大震災直後の朝鮮人虐殺事件
●僕は在日韓国人です。ナヌン・キョッポニダ。生涯忘れられない言葉
●日本人にとって韓国語はどれほど習得しやすい言語か
●『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』南北統一・新韓国は核ミサイルを手放すだろうか?
●韓国人が日本を邪魔だと思うのは地政学上、ある程度やむをえないと理解してあげる
●日本海も東海もダメ。あたりさわりのない海の名前を提案すればいいじゃないか
●天皇制にこそ、ウリジナルを主張すればいいのに
●もしも韓国に妹がいるならオッパと呼んでほしい
●「失われた時を求めて」プルースト効果を感じる地上唯一の場所
●「トウガラシ実存主義」国籍にとらわれず、人間の歌を歌え
韓国がえりの帰国子女だからこそ書けた「ほかの人には書けないこと」が本書にはたくさん書いてあります。私の韓国に対する思いは、たとえていえば「面倒見のよすぎる親を煙たく思う子供の心境」に近いものがあります。感謝はしているんだけどあまり近づきたくない。愛情はあるけど好きじゃないというような、複雑な思いを描くのです。
「近くて遠い国」ではなく「近くて近い国」韓国ソウルを、ソウル日本人学校出身の帰国子女が語り尽くします。
帰国子女は、第二の故郷に対してどのような心の決着をつけたのでしょうか。最後にどんな人生観にたどり着いたのでしょうか。
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