ノーベル文学賞作品も、時代遅れの感がいなめない
ノーベル文学賞を受賞しているジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』を読み終えました。大地と切り離されては生きていけない人間。原初的な人間の生命力、たくましさを描いた人間賛歌でした。
暗号資産だ、AIだ、という現代とは隔世の感がありました。現代のテクノロジーの進化は、延命からはじまり、やがては永遠の命に手を掛けようとしています。
アメリカでは、個々の農家がちいさな畑を手放して、やがて大資本の大規模農園となっていきました。セスナで農薬をまいて、機械化されたハーベストが品種改良した作物、遺伝子組み換えした植物を収穫する現代になっていくわけです。『怒りの葡萄』ではその過程で農地を奪われた小作農民が必死に生きていこうという姿を描いています。現代日本の小作農家もそうですが、農家だけでは暮らせなくなったのですね。
スタインベックは農民によりそって憤慨していますが、これは人類の進化でした。小さな農家では自分たちの家族が食べる分を収穫するのが精いっぱいで、農家以外の多数の人たちが食べ物を手に入れることはできませんでした。大規模農園化したことで食べ物が潤沢になり、人は食べることを心配せずに、他のことに熱中できるようになったのです。ひとりひとりが自分の食料をつくらなくても、大規模機械化、品種改良、コンテナなどの流通革命によって、食えるようになったというわけです。その結果の非農家の人たちが今のテクノロジーのイノベーションをつくりあげています。現代のIT全盛です。現代の超お金持ちは情報テクノロジー関係者ばかりですよね。
大規模農園化は、進化であり、発明です。人間ひとりひとりが餓えに苦しめられていたら、人間はいつまでも動物のままでした。そういうことがスタインベックには見えていなかったと思います。これは私がスタインベックよりも優れているからわかるのではなく、結果の出た未来から過去を見ているからわかるのです。
本は売れず、作家はもはや時代のスターではなくなった。
かつてのノーベル文学賞を受賞した「大地と人間」というテーマも、遠いものとなってしまいました。時代遅れの感がいなめません。「大地と切り離されたら、おれたちは生きてゆけない」といわれても、今さら人類は小作農家の時代には戻れないでしょう。
史上最高の文学と称する人もいるドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の大団円のオチがキリスト教の来世への救いであることを、かつて私は痛烈に批判しました。
ドストエフスキー作品の読み方(『カラマーゾフの兄弟』の評価)
文学史上の傑作であっても、ノーベル文学賞作品であっても「時代遅れ」感がいなめません。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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本は売れず、作家はもはや時代のスターではなくなりました。ヘミングウェイとか太宰治のような作家がスターだった時代は遠く過ぎ去りました。純文学で食っていけるようなお金持ち作家はほとんどいません。もう小説がもてはやされた時代ではないのです。
やがてノーベル文学賞は廃止され、ノーベルイノベーション賞が新設されるだろう。
世界一の賞であるノーベル賞が、このままということがあるでしょうか。わたしは時代的な役割を終えたノーベル文学賞はやがてなくなるのではないかと思います。
ノーベル文学賞は、創設者のダイナマイトの発明者ノーベル氏が小説好きだったからできたそうですが、もう賞の役割は終わったのではないでしょうか。
そしてその代わりに「テクノロジー賞」「イノベーション賞」のような最新科学技術の生みの親を賞するような新しい賞が新設されると思います。それが時代の流れというものです。
主人公が違って、事件が違っても、言いたいことはだいたい同じ、それが文学の正体だとたくさんの読書をしてわかりました。
「怒りの葡萄」のような人間の本質「飢えにおびやかされながら、耕して、家族で助け合って生きていく」というのはまさに「ザ・文学」というテーマです。しかしそれまでです。もうすでに本は売れず、文学はすたれています。
かつて文学には世界を動かす力がありました。たとえばその著作の思想や情熱によって眠っていた人々が目覚めて革命を起こすというようなことが過去にはありました。
しかしもう文学はそんな力をもっていません。思想は繰り返しにすぎませんし、情熱ある人は社会的影響力のあるもっと他の媒体を選んでいます。たとえば動画配信者になるなど。なによりも本は売れません。売れないということは読まれないということです。
ノーベル文学賞はかつての時代にはあってよいものでした。それだけの影響力があったからです。しかしこれからの時代、見直され、やがてなくなるだろうと思います。
文学賞の代わりに、ノーベル「イノベーション賞」「テクノロジー賞」が創設されるだろう
たとえばAIテクノロジーの技術者や、ブロックチェーンといったイノベーションの発明者がノーベル賞をとることはありません。賞に該当する分野がないからです。
しかし社会的なインパクトは、文学などよりもはるかに大きいものがあります。売れない、読まれないものに力なんてありません。
むしろスマホだとか、YouTubeのようなプラットフォームをつくって社会を変えた人のほうがはるかに賞に値いすると思いませんか?
わたしは近い将来、ノーベル文学賞は廃止されるのではないかと思います。もうとっくに亡くなっているノーベルさんの趣味にいつまでも付き合う必要はありません。
ノーベル賞は授賞者に一億円をこえる賞金がでるそうです。ダイナマイトで儲けたお金を原資に運用して、その賞金をつくりだしているそうです。限りあるそのお金は、もっと「世界をよく変えた人」に配るべきだという議論はとうぜん出てくるはずです。
賞するならば、賞にあたいする人物を。
将来、ノーベル文学賞は廃止され、その代わりに「ノーベル・イノベーション賞」「ノーベル・テクノロジー賞」のようなものが創設されるだろう。
『怒りの葡萄』は感動ありの人間を描いた名作でした。しかし労働運動や共産主義的なところもありました。今さら共産主義を潜在的に称揚されてもなあ。時代遅れなんだよな。スタインベックのノーベル文学賞受賞作を読み終えて、強く私はそう感じたのでした。