ロシア的なもの=教育がなかったら人間はどうなっているのか?
前回の戸籍調査の時には生きていたが、今は死んでいる名前だけの農奴を買おうとする主人公チチコフ。その「死せる魂」=「戸籍上にまだ名前だけ存在している農奴」にも、農奴所有者は税金を払わなければならないし、農奴を名目上売買もできるのでした。システムの盲点をつくような詐欺師が主人公チチコフです。
税金は払わなくて済むし、農奴の代金ももらえるのだから、農奴所有者は喜んで売ってくれるはず、とチチコフはもくろんでいます。しかし人間(売買)に疑い深い農奴所有者はそう簡単に売ってくれなかったりします。おいしすぎる話しには裏があるはず、と疑うのです。人間ですねえ!
この取引に、詐欺師チチコフにどういうメリットがあるのかというと、見せかけの大量農奴所有者となって、銀行から大金を借り出そうと目論むのでした。見た目だけ大勢の農奴を所有していることになっているチチコフは、名士の扱いを受けます。その信用で銀行を騙して土地所有者になろうとするのです。
ロシア文学とロシア・ウクライナ戦争。韓国人はもっとロシアを嫌ってもいいのではないか?
ロシア的なもの、という言葉で通用しているロシア文学のキモである「人間性」が、詐欺師チチコフが相手にする田舎の百姓を通して描かれます。そこが本書の面白さです。「え? そんな人いる? そんな世界ある?」と思わずツッコミたくなるような、原初の匂いのする人間たちが、人間臭く描かれています。近代以前のロシアを舞台にしているため、スマートな資本主義経済の常識は通用しません。ビジネスという感じではありません。
テレビやインターネットなどの情報がなかったら、人間はどうなるか? 森の暮らしをしている人たちの感情は、現代人とどれほど違うのか? そういったことがわかります。教育によって性格というものが洗練化されなかったら、人間はどうなるのだろうか? それがロシア的なものの本質だと思います。
日本人的には、暗い森の奥地に潜む人間性、と言いたいところですが、寒さに閉ざされた果てしなく広い白い大地に潜む人間性を見ていきましょう。
ゴーゴリー『死せる魂』の内容、魅力
この世では、ふとった連中のほうがやせた連中よりもよろずたくみに処理していく。
太った連中は、いったんなにかの椅子に座ったがさいご、てこでも動かないようなしっかりとした座り方をするから、椅子の方で潰れることはあっても、彼らのほうが先に吹っ飛ぶ心配はまずない。
多くの人がぬかりなく話題にあがり、ほとんど全部同じように、ひとり残らずこの上なくりっぱな人物という折り紙がついた。
農奴を買いたいんですが……ほしいのは死んだ連中なのです。
フランス人やドイツ人は相手が億万長者だろうと、しがないたばこ売りだろうと、ほとんど同じ声、同じ言葉で話をする。ところがロシアは違う。農奴を持っている数しだいでがらりと話し方を変えるのだ。自分がトップの時は威厳があるが、上役の部屋に行くと、砂粒になってしまうのだ。
死人? なにしろはじめてのことなんで、なんか損をするんじゃないかと。ちょっとすると、あんたはわたしを騙していなさるんで、その……なにかもっと値打ちがあるのとちがいますか?
するはずじゃなかったんだ! 断じてするはずじゃなかったんだ! あんなへまさえやらなきゃ、ぜったいするはずじゃなかったんだ。
ノズドリョーフは人間の屑だ。口からでまかせを行ったり、尾ひれをつけたりして、なんでも吹聴してまわるから、どんな評判をたてられるかわかったものではない。
人は誰しも一度ぐらいは、それまで自分が見てきたものとは似ても似つかない現象に出会って、一生かかっても味わうことのできない感情を呼び覚まされる。
あの金髪娘も突然まるで降って湧いたように我々の物語に姿を現したかと思うと、にわかにまた消え失せたのである。
女のいちばんいやなところがまだ少しもない。玉にもなれば瓦にもなる。しかしやっぱり瓦になるのが落ちだろうなあ。
いったい人間はこれほどまでに変わりうるものだろうか。人の身にはどんなことでも起こりうるのだ。いまは情熱に燃えている若者たちも、自分の老後の姿を見せられたなら、あまりのおぞましさに思わずたじろぐことだろう。
人間らしい心の動きを忘れずに携えていきたまえ。ゆめゆめ途中でそれを捨てることのないようにしたまえ。こればかりはあとでは拾えないものなのだから。やがて来るべき老年は無慈悲なおそるべきものなのだ。なにひとつ元へ戻してなどくれないのだ。
かつてはまさしく百姓として実在し、手仕事をしたり、飲んだくれたりした連中の名前を一瞥して、なにか奇妙な、彼自身にも理解できない一種の感慨のおそわれた。名簿のひとつひとつが独自の個性をおびているような気がした。
婦人たちの意向はどこまでも尊重すべきものだ。後悔するにはしたのだけれど、遅すぎてもはやあとの祭りであった。婦人たちには百万長者の軍神マルスであろうともぜったいに許せない事柄がある。女性は場合によっては、一足飛びに世の中のどんなものよりも強くなることがあるものなのだ。
舞踏会なんてものは、ロシア精神にも、ロシア魂にもはずれた代物なんだ。みんな猿まねにすぎんのさ。フランス人は四十になっても十五の時と同じ子供。とうとうとまくし立てるが、こちとらの頭には結局なにひとつ残らないんだ。
仮に一人の作家がああした光景を残らずありのままに書いてみる気になったとしたらどうだろう? 無意味なことは実物とかわりないだろう。
マルセル・プルースト『失われた時を求めて』の魅力、内容、あらすじ、書評、感想
ほんとうは知事のお嬢さんをかどわかそうって魂胆なのよ。
馬鹿げた噂をまちじゅうにひろめた。死んだ農奴と知事の娘についていっせいにしゃべりだし、がぜん活気をおびてきた。町が旋風のようにわき立ってきたのだ。
ロシア国は下層社会の者が上流社会に行われるいろんなゴシップを話の種にしたがる国だ。
ことわざにも言うだろ、惚れて通えば千里も一里って。
いまじゃ町の連中はみんなおまえの敵だぜ。おまえが偽札づくりだと思っていやがるんだ。
ロシア国、ロシア国、わたくしには御身が見える。わたくしを御身にひきつけるこの力は何だろう。あの歌がどうしていつまでもわたくしの耳について離れないのだろう。魂にくいいり、心に絡みついてくるあの調べは何だろう。ロシア国よ。御身はわたくしになにを望むのか。
→トルストイやドストエフスキーも同じですが、ロシア文学者たちのロシア愛は不思議なものです。彼らが愛しているのは何もない殺風景な原野であり、政治や組織ではないように思えます。皇帝や貴族ではなく、民衆の素朴さ、人々の粗野で、愚かで、人間性がむき出しのところにあるように感じます。
目上の人にさえ気に入られれば、勉強はできなくても、才能などなくても、万事とんとん拍子で、人の上にも出られるものだ。仲間とはつきあうんじゃないぞ。どうせろくなことは教えてくれんからな。
上等の蕪みたいにみずみずしくて体がしまっていた。五等官は自分も破滅した代わりに相手も失脚させたわけだ。ロシアの風習に従ってやけ酒をあおりだした。
こうした境遇におとされてしまったのだ。どうしておれだけがこんな目にあうんだろう。なぜおれだけに災難が降りかかってきたんだろう。なぜほかのやつはのほほんとしていられて、おれだけが蛆虫みたいに滅びなきゃならないんだ。
死せる魂、とは、死んだ農奴の名簿と同時に、ロシア精神、ロシア魂のこと
本書のタイトルである、死せる魂とは、表面的には名簿だけ存在している死んだ農奴のことです。主人公チチコフが名簿の名前を見ながら、彼らの魂に思いをはせるシーンが象徴的です。
しかし裏の意味では、皇帝と農奴という制度があった、西欧とは違って洗練されていない、粗野で貧しく、きたならしく欲望むきだしの人間たち。そのロシア精神、ロシア魂のことではないでしょうか。
そしてそれを「死せる魂」と評するくせに、なぜか作家たちは、啓蒙しようとか、近代化しようとかするのではなく、こよなく愛するのでした。
ただ祖国だから愛するという単純な祖国愛以上の愛で。ロシア文学の謎と魅力はそこにあるとわたしは思います。