ブッダは偶像じゃないが、阿弥陀如来や不動明王は偶像じゃないか?
タイなどを旅してきた者として、日本の寺院に違和感を感じることがある。それは阿弥陀如来や不動明王などの架空の仏像をやたらと拝むなあということだ。
お釈迦さまはイエス・キリストと同じで実在の人物であることを私たちは知っている。
同時に不動明王や阿弥陀如来が大天使ミカエルやガブリエルのような非実在のイメージの中のキャラクターであることも知っている。
同じ仏教寺院でも、タイの寺院にあるのはほぼ間違いなく釈迦如来である。どれだけたくさん仏像があってもまずお釈迦様である。
ガルーダ(迦楼羅)とか、ヤックとか、他のキャラクターも一部あることはあるのだが、脇役に過ぎない。
タイの仏教寺院で首座に鎮座するのは釈迦如来だけだと言って過言ではない。
愛染明王とか空想の仏が中央にデーンと座っていることはまずない。
そういう意味ではカトリックも同様で、首座にいるのはキリスト一択でほぼ間違いない。
もともと偶像崇拝を禁ずる宗教だから、そういうことになっているのだろうか。
モン・サン・ミッシェル(聖ミカエル)など、ごくまれにキリスト以外の架空のキャラクターが中心に据えられている場合もあるが、極めて稀なことだ。
首座に鎮座するのはキリスト一択と言って過言ではないだろう。聖母マリアの場合もあるが、こちらも実在の人物だ。
しかし日本の仏教寺院の中央に鎮座しているのは、釈迦一択とは言い難い。
大日如来とか地蔵菩薩とか千手観音とか、イメージの存在が首座に鎮座することが珍しくない。
べつに日本仏教界を偶像崇拝だと批判しようというのではない。
ただあまりこういうことを書いている人がいないので、あえて書いているのである。こういうことはずっと日本で生まれ育った人は気づきがたいかもしれない。
こんなことを感じたのは、京都の仏閣をタイからの観光客がたくさん訪れているのを見たからだ。
敬虔な上座部仏教の世界から来た彼らが日本の仏教界をどう見るのかな、と疑問に思ったからである。
日本でずっと暮らしていた頃は、仏教というのは日本にあるように千手観音や地蔵菩薩を拝むものだと私も思っていたのだ。
釈迦ばかりだったタイの仏教寺院を見聞してはじめて、イメージキャラクターの不動明王などを拝む日本の仏閣に違和感を感じることができるようになったのだ。
それゆえ放浪の旅人の感想として、ここにその感想を書き記そうとするものである。
これが客観的な視座で物事を眺めることができる旅人の目線というものではないだろうか。

斉天大聖孫悟空
中国の道教では西遊記の孫悟空を神様としてあがめている。

孫悟空に祈りを捧げる中国道教の人たちを私たちは奇妙に思わないだろうか?
私は奇異に感じた。日本人にとって、孫悟空は小説の中のキャラクターであり、神さまとは違う存在だからだ。
聖関帝ならいいのだ。関羽雲長は実在の人物だから。
しかし孫悟空は小説の中のキャラクターではないか。それを拝むなんてどういう神経しているんだろう。
不動明王を拝むことは、孫悟空を拝むこととほとんど同じ
しかしよく考えてみると不動明王を拝むことは、孫悟空を拝むこととほとんど同じことなのではないだろうか。
どちらも実在の人物ではない。イメージの中の存在である。経典に出てくるか、古典に出てくるかぐらいの違いしかない。西遊記のラストで孫悟空は仏法を守る闘戦勝仏という仏になるのだ。
この稿を読んで「それは違うぞ」という人は、宗教戦争を引き起こすタイプの人間ではないかなあと思う。信仰していない人が客観的に見れば同じことだろう。
繰り返すが偶像崇拝を否定しているわけではない。それは方便であり「あり」だと思う。
自分ではどうしようもない運命や治癒不能の病にかかってしまったら、誰だって極楽浄土に救いを求めるだろう。
切ないその気持ちは理解しつつ、その気持ちを実在の人物に投影する上座部仏教のタイ人が、やたらと架空キャラの仏さまに投影する日本仏教を見てどういう気持ちになるのか、非常に気になったのだ。