国内旅行よりも海外旅行の方がずっと楽しい
コロナ禍の3年9カ月は車中泊で国内旅行を繰り返していました。車中泊も楽しいですが……やっぱり海外旅行の方がずっと楽しいと感じました。旅先での不安感、危険度、わけわからない度、そして刺激がやっぱり国内旅行とは段違いです。
フィリピンに旅行というと「セブ島?」とよく聞かれました。いいえマニラのみです。マニラに何しに行くの? とさらに質問をもらいました。観光地としてのイメージがまるでないんでしょうね。「いえね、私は貧しいところが好きなんですよ。日本と同じようなあたりまえのありきたりの暮らしはとくに見たくないです」。求めているのは非日常なのです。そういう意味では超大金持ちだったらその生活を見てみたいけれど(だからプルーストの『失われた時を求めて』のような貴族のサロン文化の小説は今も命脈をたもっているのです)、それはなかなか見せてもらえないじゃないですか。
だから必然的に貧しい方に視線が向くのです。貧しい暮らしはすぐに見れますからね。貧しい人の暮らしは生きることがあからさまです。剥き出しです。やっていることがいちいち命に直結しているので、見ていて面白く、刺激をもらえるのです。
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私は英語をすこしづつ勉強中ですが、言葉なんていっそわからない方がいいんじゃないかと思う瞬間が海外旅行中にはよくあります。言葉が完全に通じてしまったら日本の旅行がイージーモードなのと同じような状況になってしまいます。相手と意思疎通ができない、ジェスチャーじゃないと通じないところが、海外旅行の面白さの醍醐味だったりするのですから。
いちいち和訳しないで外国語のまま理解する方法
たとえばdonationの意味が分からなくても教会の入り口で「ご随意に。集金ボックス」にそう記されてあったらそれは「寄付」という意味かな、と想像できます。帰国して辞書で調べたら想像どおりの意味でした。そういう場合はもういちいち頭の中で寄付と和訳せずにドネーションのまんま覚えてしまいましょう。その言葉が使われていたシチュエーションと一緒に。あとは同じような場面でドネーションという言葉を使えばいいだけです。
語学に頼る旅も問題があります。
まず第一に、この先いくら英語が上達してBBCニュースが完璧に聞き取れるようになったとしても、フィリピン訛りの英語は生涯聞き取れないかもしれません。オーストラリア人もオージーイングリッシュがアメリカンイングリッシュと違うので聞き取ってもらえないというぐらいですから。インド訛りの英語は、アメリカンイングリッシュとは明らかに違う発音をしています。
第二に、世界は英語が支配しているわけではないということです。あきらかに英語の喋れそうな白人がまったく英語を喋れないという姿をこれまで私は数えきれないぐらい見てきました。南米の人なんてスペイン語、ポルトガル語は喋れても英語は喋れない人のほうが多いですよ。我が国日本も英語の通じない国のひとつです。言葉に頼った旅をするなら、世界の三分の二は旅ができないということになってしまいます。
海外旅行では語学に頼るのはほどほどに。どうせ相手の言っていることはわからないかもしれません。言語力に頼れたらラッキーぐらいのスタンスでちょうどいい。今この瞬間から旅にでるには、むしろ言葉は無視するぐらいでいいのです。
人生のラスボスは人それぞれが決める
元ゲーマーがゲーム中毒を脱却して、現実社会に生きられるようになったのは、海外放浪がまるでリアルRPGゲームのように面白かったからです。
これからもこのような経験知の狩人となって、レベルアップをしていきたいと思っています。このゲームにラスボスはいません。というかラスボスは人それぞれが決めるものではないでしょうか。
どこでどんなトラブルに巻き込まれるかわかりません。手持ちのカードで勝負するギャンブラーのような心構えが海外旅行では必要だと思っています。