『裸の大将放浪記』山下清の毛がはえたエピソード
『裸の大将放浪記』で有名な山下清画伯の『日本ぶらりぶらり』という本に、毛のはえたような男、というエピソードがあります。
ある日、「わしも山下清に毛のはえたような男です」と山下さんにいった人がいたそうです。すると山下清がびっくりして「ぼくに毛がはえるというのは、どういうわけですか? どこに毛がはえるとあなたになるのですか?」と聞いたという笑い話です。
おそらくこの男は趣味で絵を描く人なんだろうとわたしは想像していました。
マンモスは毛のはえたゾウ。ゾウとマンモスの違い
こちらはマンモスさんです。とっくに絶滅なさっています。しかし親戚筋のゾウさんは健在です。見た目もそっくりですね。毛が生えているのが気になりますが。
マンモス復活計画というのがあるそうですが、ジュラシックパークの壮大な夢にくらべたらあまりそそられませんね。
だってマンモスってただの毛のはえたゾウじゃありませんか? 実際にゾウとマンモスの遺伝子レベルでの違いは1%もないそうです。マンモス=巨大というイメージがありますが、必ずしも巨体であることがマンモスの定義ではありません。ゾウより小型のマンモスも存在します。
ゾウとマンモスの違いは、人間がつかう言葉のレベルでは「長く曲がった牙、長い体毛」ぐらいしか表現できません。
マンモスというのは、ゾウに毛が生えた程度のもの、ということです。
だったら超優秀なハゲ薬(はげる薬ではなくて、毛生え薬)ができたら、そいつをゾウの全身に塗りたくれば、マンモス爆誕じゃありませんか?
首長竜とか翼竜が復活するほどの「見たことのない夢」ではないと思います。
「毛がはえた」の意味
ところで「毛がはえた」とはどういう意味でしょうか? 山下清さんに教えてあげましょう。
辞書によれば「毛の生えた」「毛がはえた」とは「年功を経た」「ほんの少しまさっている」という意味です。オチンチンにたとえればわかりやすいでしょう。毛が生えているということは大人の男性器ということですから、小便にしかつかえない子どもチンポよりは「年功を経た」「ほんの少しまさっている」ということです。
また「ちょっとは違うが、ほとんど変わらない」という意味もあります。つまりゾウとマンモスの違いですね。ゾウとマンモスは毛の生えた程度しか違いはありません。
日本語は難しい。山下清に毛のはえたような男
すると、山下清のエピソードの「わしも山下清に毛のはえたような男です」というのは、わたしが予想したような「絵を描いている人」ではないということになります。だって毛が生えるというのは「ほとんど変わらない」「ほんの少しまさっている」という意味なんですから。日本のゴッホとたたえられた天才画家に対して「わしの絵のほうがほんの少しまさっている」とはなかなか言えないでしょうからね。
とすると、この人は「どこに毛が生えていたのかな?」
山下清は貼り絵の天才である反面、知的障がい者として知られていました。はっきりいえば「バカ」だとバカにされていたのです。「わしも山下清に毛のはえたような男です」というのは、「わしもさほど賢くはない。山下君みたいなバカな男です」という意味だったのかもしれません。その方が腑に落ちますね。
あるいは当初の私のように「毛の生えた」の使い方を間違っていたのかもしれません。
同じ絵描き(同族)だということを表現するときには、毛の生えたようなものという表現をしてはいけません。「ほんの少しまさっている」雰囲気が出てしまうからです。
「マンモスはゾウに毛が生えたようなもの」という表現も、見た目は間違っていませんが、厳密には間違っています。ゾウは環境に適応して生き残った種族です。それに対してマンモスは環境に適応しきれず滅び去ってしまいました。「ほんの少しまさっている」のはゾウであり、マンモスではありません。だから「マンモスはゾウに毛の生えたようなもの」と表現することは、厳密には間違っているのです。
日本語ってむずかしいなあ。