私的世界の十大小説
まえがき(この世に二つとない名作文学ランキング)
この書籍は、読書系ブログ『ドラクエ的な人生』の筆者であり、読書家のアリクラハルトが、これまでに読んだ本の中から個人的な世界十大小説を挙げて紹介しようというものです。
本書で冒頭に紹介する『夜と霧』の中で、「あなたの人生は全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在している」と語られているとおり、このランキングは自分すなわち私アリクラハルトの人生にどれほど大きな影響を与えたかを考慮して選考、論評しています。だからこのランキングはこの世に二つとない名作ランキングになっているはずです。読書家のわたくしアリクラハルトが選ぶ、死ぬまでに読むべきおすすめの名作文学、私的世界十大小説だといえましょう。
あくまでもこれは主観的なベストテンです。けっして客観的な評価ではありません。しかしよく考えてみれば、この世に主観的でない評価なんてものがあるでしょうか? 先駆的なサマセット・モームの『世界の十大小説』にしたってモームの主観的ベストテンであるに違いありません。本書も同じです。
「作品の歴史的な意味・後世への影響」などはまったく考慮していません。だから後発作品の方が先行作品よりもランキングに有利となる傾向があります。なぜなら文学は過去作品に影響されておもしろく深く発展していくものだからです。どうせ読むならば影響前よりも影響後の洗練された作品を読んだ方が面白いこともあります。
なお、作品ジャンルにはこだわってはいません。私小説だとか、文学の定義などは度外視しています。『夜と霧』は哲学、随筆、自伝ですし、『サド侯爵夫人』は戯曲です。
さて「まえがき」はこれくらいにして、それでは読書家アリクラハルトが選んだ世界十大作品をお楽しみください。
あとがきでまたお会いしましょう。
名作1『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル
「読むべき本をたった一つだけ推薦してくれ」と言われたら私はこの本を紹介します。
ナチスによって強制収容所に入れられたユダヤ人精神科医ヴィクトール・E・フランクルが収容所体験を書いた『夜と霧』。
- 文学の最高峰。史上最高の作品
- カポーとは何か? 同胞のユダヤ人の中から選抜されたサディスティックな管理者
- 被収容者の心理的な変化。好奇心→恩赦妄想→絶望→感動喪失
- 性欲は消えて、幼稚な食欲だけが残った
- 想像の生活。精神の自由
- 偉大な言葉。文学の頂点。最高峰。
- 三島由紀夫の最高傑作
- 作家サドとはどのような人物か。百科全書家。哲学者。そして作家
- 世間体をとるか、信じる道を進むか。サド夫人の決断
- フランス革命。上下も聖邪もSMも逆転する
- コンテンツは芸術家の魂の内側にある
- 芸術の衝動を描いた大傑作
- 傑作が燃えて灰になっても、すばらしい世界は今も目の前にある
- うれしいたのしいばかりではない「愛の痛み」
- 愛のために小さな鳥が命を落としてしまう似たような物語『幸福な王子』
- 史上最高の恋愛小説
- 恋愛の狂気・恋賊『マノン・レスコー』のあらすじ
- 騎士グリューの態度には近代人が共感できるものがある
- おとな読書。愛の秘密、特別じゃない人を特別だと感じる魔法
- おそるべき名作
- 「オタク」という言葉の生みの親
- カワイイを超えたモノ、愛以上のモノをさがして
- 世界の果ての愛以上の場所
- ないからこそ信じるんだ。それはもはや『愛を超えた愛』だ
- 本当の最終章 すべて少女に帰るまで
- 人生を「買う」という行為だけで終わらせないために
- ロビンソン漂流記。魂の冒険記
- どうしてキリスト教が不滅なのか? オスカーワイルドの独自理論
- イエスは人類史で最初の個人主義者
- イエス・キリストは史上最大の詩人、芸術家
- 人を変えようとしたのではなく、周囲の人が変わってしまった
- 人間が芸術を欲する限り、最高傑作であるイエスの生涯は、決して滅ぶことはない
- 哲学や宗教や文学が解けなかった人類最大の難問が解決済みだった
- 『ギルガメッシュ叙事詩』にも描かれなかった、人類最古の問いに対する本当の答え
- 自分にとって最高の小説は自分にしか書けない
- あなたにとって最高の小説は、あなたにしか書けない
文学の最高峰。史上最高の作品
ユダヤ人の心理学者が悪名高いナチスドイツのユダヤ人強制収容所に強制収容された際の記録です。収容所でどんな残酷なことが行われたかは生還者ならば誰でも記録することができますが、そこでどんな心の変化が起こったのかは専門家でなければうまく説明することができません。著者のヴィクトール・E・フランクルは精神科医・心理学者でした。それゆえに収容者の心理変化を学術的に描くことができました。そしてその凄絶な表現力が『夜と霧』を文学の最高峰、頂点の高みへと飛翔させているのです。
自由とは何か? 人間とは何か? 苦悩は悟りの境地にまで昇華されていきます。それを見ていきましょう。
カポーとは何か? 同胞のユダヤ人の中から選抜されたサディスティックな管理者
監獄にはカポーというユダヤ人の中から選抜された管理者がいたそうです。ナチ党員の中には自らの手を汚したくなかった人がいました。そういう人は同じユダヤ人の中から班長みたいな人(カポー)を選んで、その人にいやな仕事をやらせていました。収容者を従わせるための虐待的な懲罰が主な仕事でした。カポーは優秀な人材から選ばれたのではなく、残酷な人間から選抜されました。このユダヤ人カポーの心理変化には見るべきものがあります。相手が同じユダヤ人だから優しくするのではなく、むしろ積極的に現場監督、監視兵、収容所警官に協力していきました。虐待はむしろカポーからの方がドイツ人監視兵からよりもひどかったそうです。鉄拳、足蹴り、棒打ち。自分を特権階級に置いて、自分だけは助かりたいという気持ちからでした。虐げられる者の中にも階級が生まれたのです。アウシュビッツでは、平時の銀行頭取よりも、収容所のカポーの方が地位が上でした。カポーは同じユダヤ人同胞を憐れむどころか強制収容所の中で出世したいとさえ思っていたのです。人間というものの業を見る思いがします。
「この世にはふたつの人間がいる。まともな人間とまともではない人間と。ふたつの種族はどこにでもいる。どんな集団にも入り込み、まぎれ混んでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。あらゆる人間には善と悪を分かつ亀裂が走っている」
被収容者の心理的な変化。好奇心→恩赦妄想→絶望→感動喪失
アウシュビッツの収容者は、持ち物をすべて取り上げられ、職業、名前も失い番号で呼ばれました。剥き出しの土間で寒さに震え空腹に苛まれながら、うずくまったり立ったりしていました。横になるだけのスペースはあたえられませんでした。
「全裸にされ鞭うたれる。シャワー室に追い立てられ水が降り注ぐ。身ぐるみはがされた。毛髪も剃られ、この裸のからだ以外、なにひとつ持っていない。これまでの人生との目に見える絆などまだ残っているだろうか」
収容者は絶望に打ちひしがれます。
「この先、いったいどうなるのだろう。どんな結末が待っているのだろう。自分は命拾いするだろうか、しないだろうか」
まずは自分がどれだけひどい目にあうだろうかという好奇心が芽生えました。収容所では何かをして自己実現する道を断たれました。これまでの人生をなかったことにして、なんとか辛い時間を無事にやりすごそうとする受け身の気分になります。そんな中で恩赦妄想という病像が生まれました。土壇場で自分は恩赦されると自分に都合のいい空想をするのです。クリスマスには家に帰れると希望をもった人たちは、その希望が消えた時に大量死したそうです。希望がどれほど人間にとって大切かを教えてくれます。
収容者は心の内面がじわじわと死んでいきました。感動の喪失です。内なる感情が抹殺されました。嫌悪、恐怖、同情、憤り。苦しむ人間の姿も、家族への思いも、病人も、瀕死の人間も、死者さえも。それらが慣れたものになってしまい心がマヒしていきました。何も感じられない。感情的な反応などもはや呼び覚まされない。いつ殺されるかわからない強制収容所のような極限環境では、このように感動が消失してしまうそうです。
収容者の内面生活は追い立てられる羊のように幼稚なレベルまで突き落とされました。感情の消滅や鈍麻。意志などもてません。
かつては何ほどかの者だったのに、わたしとはいったい何だ? 人の肉でしかない大群衆の、腐っていく群衆の、けちなひと切れだ。
そして過酷な生存競争の中で良心を失い、暴力、盗み、嘘、裏切りなど平気になってしまいます。そういう者だけが命を繋ぐことができました。いい人は帰って来ませんでした。
性欲は消えて、幼稚な食欲だけが残った
皮下脂肪の最後の最後までを消費してしまうと、おのれの肉をエネルギーとして食らい筋肉が消えていきました。骸骨が皮を被って、その上にぼろをまとったありさまになりました。身体に抵抗力など皆無でした。仲間はばたばたと死んでいきました。
極端に少ない量の食事。一日一回の水みたいなスープ。ちっぽけなパン。チーズのかけら。食べ物の話しを胃袋オナニーと呼んだそうです。極寒の中、そまつな衣服のみでした。食べることしか考えられません。性欲はきれいさっぱりなくなりました。
想像の生活。精神の自由
すべてを奪われたフランクルは問い続けます。
人に精神の自由はないのか? 人間の魂は環境によっていやおうなく規定されるのか?
強制収容所にあって、すべてを奪われましたが、頭の中身だけは奪われまいとした人たちがいました。周囲はどうであれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人はぽつぽつと見受けられたそうです。
「強制収容所に人間をぶち込んで暴力ですべてを奪うことができても、ただひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという人間としての最後の自由だけは奪えない」
この状態をフランクル博士は著書『死と愛』の中で「態度価値」と呼んでいます。たとえば死に際してどんな立派なふるまいをするかでその人間の価値が決まる、とする考え方です。
「内心の決断を迫る状況また状況の連続だった。人間の独自性、精神の自由などいつでも奪えるのだと威嚇し、自由も尊厳も放棄して外的な条件にもてあそばれるたんなるモノとなりはてて環境の力の前にひざまずいて堕落にあまんじるか、あるいは拒否するか」
「人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ」
フランクル博士の勇気が、読者の心を揺り動かします。
「生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限される中でどのような覚悟をするかというまさにその一点にかかっていた」
「強制収容者は行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。生きることに意味があるなら苦しむことにも意味があるはずだ。苦悩と死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになる」
「愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ。この世にもはや何も残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれることをわたしは理解した。耐えがたい苦痛に耐えるしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより満たされることができるのだ」
偉大な言葉。文学の頂点。最高峰。
連合国の勝利によりフランクル博士らは解放されます。被収容者たちは自由を忘れてしまっていました。うれしいとはどういうことか忘れてしまっていました。それらはもう一度学びなおさなければならない「なにか」になってしまっていました。それほど収容所は過酷だったのです。
開放された被収容者たちは強度の離人症に悩みます。
「わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にはない。収容所の中で、彼らは幸せなど意に介さなかった。私たちを支え、苦悩と犠牲と死に意味をあたえることができるのは幸せではなかった。生きていることにもうなんにも期待がもてない」
「そんなときに、生きることに何か期待するのではなく、生きることがわたしたちに何を期待しているのか、と方向転換する」
「もういいかげん生きることの意味を問うことをやめる。生きることは時々刻々問いかけてくる。ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きることの要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。生きることとは決して漠然とした何かではなく、つねに具体的な何かであって、とことん具体的だ。その具体性が、ひとりひとりにたった一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。誰も、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。すべての状況はたったの一度、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いに対するたったひとつの、ふたつとないただしい「答え」だけを受け入れる。運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに、全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとない何かをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ」
言葉のとおり、フランクル博士は成し遂げました。その魂の偉大な記録を私たちは『夜と霧』の中で読むことができるのです。『夜と霧』こそ文学の頂点、最高峰だと私は思っています。
名作2『サド侯爵夫人』三島由紀夫
アンチ・キリストの文学者サドと三島由紀夫の共同執筆が、奇跡の名作を生み出しました。それが戯曲『サド侯爵夫人』。
偉大な人間には偉大な敵がいる、というアフォリズムがあります。フランスの作家サド侯爵が怪物と呼ばれるのは、当世の規範を形づくっていたキリスト教に徹底的に抗ったからに他なりません。イエスの奇跡に対し、サドは性欲と理性で対抗しました。その生涯は不幸で無残な敗北だったかもしれません。でも無駄ではありませんでした。悪魔について考えることは、神についても考えることと似ています。だからサドは殉教者と呼ばれることもあるのです。
サドはフランス革命を生きた人物です。上下関係が逆転する、それが革命でした。天と地がひっくり返り、虐げるものと虐げられるものが逆転する。革命が起きれば、正義は逆転し、サディズムとマゾヒズムは逆転し、神と悪魔も逆転するかもしれません。
三島由紀夫の最高傑作
『サド侯爵夫人』は、サディズムの語源ともなったドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド(1740から1814)を主人公とする三島由紀夫作の戯曲です。フランス革命前後の人物で地位は侯爵。れっきとしたフランス貴族です。サド侯爵が主人公ですが、劇中、主人公のサドは一度も登場しません。女たちの会話の中で出てくるのみです。サドのことは頭の中でイメージするしかありません。このことによって、ある人には怪物であり、ある人には光の騎士であるサドのイメージが爆発的に大きくなります。ひとりひとりが脳内で作り出したイメージには、実際に舞台の上に登場するどんな俳優もかないません。三島由紀夫はこの効果を狙ったのです。
さて、放蕩無頼の快楽主義者の貴族として知られているサド侯爵ですが、実際のところは囚人であり、哲学者であり、作家です。自由を愛する行動派なのに投獄されて身の自由を奪われたために、作家になるしかなかった自由な魂というのが私のサド評です。
女性しか登場しない『サド侯爵夫人』は宝塚的です。サドを太陽、他の女性たちが惑星のように運行していく女だけの芝居。私は『サド侯爵夫人』を三島由紀夫の最高傑作だと考えています。
作家サドとはどのような人物か。百科全書家。哲学者。そして作家
加虐趣味サディズムの語源になった作家、サドは獄中文学者です。反キリスト主義者ですが、あまりに反キリストすぎて逆にキリスト教文学を読んでいるかのような錯覚をおぼえます。キリスト教を理解しないかぎりサドは理解できません。悪魔は神の文脈の中でしか捉えられないというようなものです。ヒトラーが悪であればあるほどチャーチルの評価があがる、ということに似ています。
74年の生涯のうち三〇年を(精神病院を含む)獄中で過ごしました。三十年も行動の自由を奪われ、獄中で読書三昧で過ごしたら、誰だって頭がおかしくなるだろうし、神を呪いたくもなるでしょう。サドが投獄された表向きの理由は反キリスト教的な放蕩生活とされていますが、実際のところは貴族どうしの権力闘争の犠牲になったのだと言われています。
獄中でサドはフロイトよりも遙か以前に「性欲」を哲学的に研究しています。フロイトは性欲を人間のエネルギーの源と捉えましたが、サドにとって性欲は神と戦う武器でした。神が禁欲を宗旨としていたからです。今どき、生殖と結びつかないセックスは駄目とかいう人は誰もいません。むしろ産みたくないなら女性の人権の観点から避妊が積極的に推奨されています。
しかし昔のキリスト教はそうではありませんでした。オナニーの語源となったオナンは膣外射精をしたら神に罰せられ命を奪われているのです。聖書のこの一節は、生殖に関係のない性欲は罪だと解釈されました。妊娠中絶・堕胎は罪だと考えられていた時代があったのです。だったら「生めよ、増えよ、地に満ちよ」の子孫繁栄とはいっさい関係ない同性愛やアナルセックスをしてやろうじゃないかと神を挑発するのがサドの表現でした。オナンを罰したように神は快楽を罰しないじゃないか、と小説の中でサドは叫びます。神の罰を象徴する雷は美徳をまもった妹の上に落ち、悪徳の姉はのうのうと生きのびるというストーリーは、アンチ・クリストという視点から見なければその本質をとらえられません。サドは時代を先取りした人物でした。
世間体をとるか、信じる道を進むか。サド夫人の決断
サドが妄想を小説に書くのは収監されてからです。自由だった時代には、快楽主義者サドは妄想を実際の行動にうつしていました。まだ時代は中世の色を強く残していました。キリスト教を攻撃するのは危険な行為でした。侯爵という貴族最高の地位をもつことから政敵も多く、スキャンダルによって政敵にはめられてサドは死刑を宣告されます。逃亡したのですが、やがて捕縛されたサドは投獄されることになるのです。
サドの義母マダム・ド・モントルイユは家の名誉のためにサドを獄中に閉じ込めておこうとします。放蕩無頼の神への反逆者は侯爵家にはふさわしくないと判断しました。自分の行動が娘のためだと信じていました。
ところが娘のルネは夫のために社会的権力のある実母とまっこうから戦うのです。ならず者の夫のために脱獄の手助けまでしてのけます。自分をどれほど辱めても、親と世間を敵に回してたった独りで夫のために働き続けました。赦免の哀訴嘆願は無論、紙やペン、インク、本、食べ物の差し入れを欠かすことはありませんでした。
結婚生活の聖者とまで呼ばれたサド夫人の行動は謎に満ちています。三島由紀夫でなくても、この謎には誰でも興味をいだかずにはいられません。悪魔のような夫の毒に、きよらかな魂が痺れきってしまったのでしょうか。しかしルネはこの上ない純真さを保っていたといいます。
やがてサドはバスティーユ「自由の塔」と呼ばれる監獄に収監されます。この獄中でサド侯爵はとうとうフランス文学史に名を残す作家になりました。もし囚われ人にならなかったら、あくまでも自由な行動家として、おそらく放蕩無頼のならず者として醜聞だらけの生涯を終えたことでしょう。作家としての名など残らなかったに違いありません。
サドの作品の大半は、フランス革命初夜のバスティーユ監獄襲撃事件の際に破棄されてしまいました。しかしごく一部が現代まで残っています。その神に挑みかかるような作中の残虐な描写から、後世、加虐趣味のことをサディズムと呼ぶようになりました。エディプス・コンプレックスの語源となったオイディプス王のようなものです。まるで神話の人物のような扱いをされていますが、フランス革命の時代に実在した作家です。バスティーユ襲撃にはじまる「自由・平等・友愛」のフランス革命によって、神の敵サドは解放されました。こんな皮肉なことがあるでしょうか。
しかしルネ夫人は出獄したサドに会うことを拒絶して、二人は遂に二度と会うことはありませんでした。獄中のサドに対し、ありとあらゆる便宜を図り、脱獄の手助けまでした愛する夫がやっと自由の身になって帰ってきたのに、夫人がなぜ会おうともしなかったのか? 三島でなくても誰もがあっと驚く夫人の心境の変化の謎です。サドの人物伝を読んでも、このくだりには、本当に、唖然とします。あまりのことに言葉を失ってしまうほどです。その衝撃を『サド侯爵夫人』は見事に再現しています。感動の再現だけでなく、ルネ夫人の心の謎を文学的に表現・解明しようと書かれました。圧倒的な筆力と、誰も考えも及ばなかったような聖侯爵へのイメージの愛という形で、夫が妻を訪ねてきた場面で戯曲は見事なエンディングをむかえます。
たとえば熱烈なキリスト教信者は、生身の肉体をもったイエスにはむしろ会いたくないと思うかもしれません。おのれのイメージの中の救世主像を信じているからです。体臭がして息が臭くて髭が生えていて垢まみれで汗をかいて大小便もする生身のイエスには「会わずにおこう」と思う信者もいることでしょう。ルネ夫人はそんな心境だったのではないでしょうか。
戯曲には描かれませんが、サド夫人と別れた後も現実のサドは生き続けます。民衆の革命はギロチンによる恐怖時代を迎えていました。みずからもギロチンに倒れるロベスピエールの時代です。
サドの小説を残虐と評した民衆は、人々を次々と残虐なギロチンで血祭りにあげていったのです。サディズムの元祖サドよりも民衆の方がよっぽど残虐でした。ギロチンの嵐の中、サドは理性を保とうとします。自分を獄中に押し込めた生涯の宿敵モントルイユ夫人の死刑にさえ反対したのです。そんなサドを反革命的な温和主義者だとして民衆は再び投獄するのでした。
フランス革命。上下も聖邪もSMも逆転する
三島由紀夫の戯曲『サド侯爵夫人』ですが、三島自身の自作解題にもあるとおりサド侯爵夫人ルネは貞節を、ルネの母モントルイユ夫人は法・社会・道徳を、シミアーヌ夫人は神を、サン・フォン夫人は肉欲を、妹アンヌは女の無邪気さと無節操を、召使いシャルロットは民衆を代表、象徴し、かしゃくないロゴスとパドスの相克、セリフの決闘が展開されています。
『サド侯爵夫人』は三島由紀夫の作であるため、書かれている内容のすべてが三島由紀夫の主義・思想だと思ってしまう人がいるかもしれません。しかしそうではありません。戯曲の中のセリフ、哲学はどちらかといえば三島の世界観ではなく、サドの世界観です。時にサン・フォン夫人の、時にモントルイユ夫人の口を借りて、サド侯爵の哲学が語られているのです。
ルネ「ああ、自然は結局どれもこれも、ふさわしいものばかりですわ」
モントルイユ「お前の口を借りて、アルフォンスが喋っているようだ」
まさにそのとおりなのです。本当にルネの口を借りてサドが自分の思想を語っているのです。ある種の腐敗が発酵と呼ばれて人類の役に立つように、サドのような悪徳も人類の役に立つのかもしれません。神の栄光に満ちたこの世界にふさわしくない存在なんてありえません。本当に偉大な神がいるのならば、すべて許されるはずではないか? 小説家としてのサドはそんなことを作中で延々と問いかけています。
偉大な人間には偉大な敵がいる、というアフォリズムがあります。サドが怪物と呼ばれるのはキリスト教に徹底的に抗ったからに他なりません。イエスの奇跡に対し、性欲と理性で対抗しました。その生涯は不幸で無残な敗北だったかもしれません。でも無駄ではありませんでした。神の敵について考えれば考えるほど、神についても考えざるを得ないからです。だからサドは殉教者と呼ばれることもあるのです。
「私たちが住んでいるこの世界は、サド侯爵が創った世界なのでございます」
21世紀の現在、最終的には、理性は宗教に勝利したといっていいのではないでしょうか。政教分離されていますし、世界は神がつくったなんて教科書では教えません。ビックバンや、万有引力や、進化論によって世界はできたと教わります。生殖に関係のない性欲は罪だ、なんていう人は頭を疑われます。先駆者としてのサドの戦いは決して無駄ではありませんでした。
『サド侯爵夫人』はきわめてキリスト教的な作品です。キリスト教が理解できなければ、サド文学を理解できませんし、戯曲『サド侯爵夫人』の深さは本当の意味では理解できません。
牢獄のサドをルネ夫人は必死に助けようとしました。
ルネ「私は六年間、どうしてもひらかない石の扉を叩き続けた。それでもどうしても私の力では扉は開かなかった」
たとえば戯曲の中のこの言葉はキリスト教の「叩けよ、さらば開かれん」という言葉と対になっているのです。聖書のいうとおりにならないではないか、というわけです。このようにところどころにアンチ・キリスト的な表現が出現しますが、もちろんこれは三島由紀夫がサド侯爵の世界観を踏まえているからです。
この戯曲は三島由紀夫とサド侯爵の共著といってもいいくらいです。だからこそ奇跡の名作が誕生したのだろうと思います。闇があるから光があるように、サドの悪徳があるからキリストの美徳がよりいっそう鮮明になる戯曲構造となっているのです。
時代背景はフランス革命前後です。人間は今よりもっと不自由で、もっと縛られていました。そんな時代背景のことも作品理解の中では考慮しなければなりません。
第1幕では、まだ獄中作家サドは投獄されていません。世間でスキャンダラスな事件を繰り広げている自由な行動者です。
サン・フォン「見えない主に唾をひっかけ、挑発し、怒りをそそり立てようと躍起になるのでございます。それでも神聖さは怠けものの犬です。日向に寝そべって昼寝にふけり、尻尾を掴もうが、髭を引っ張ろうが、吠えることはおろか、目をひらいてさえくれはしません」
モントルイユ「あなたは神を怠けものの犬だとおっしゃるのね」
サン・フォン「ええ。それも老いぼれた」
神を挑発するようにサドは快楽を追求します。神を冒涜する暗い喜びがなければ、よろこびを極大化できないのでした。教会で認められていない行為だからこそ、哲学者の実践には意味がありました。もし本当に神がいて、教義どおりなら、許されざる行為を行った自分は神の雷に打たれて罰せられるはずです。
日本でも雷(カミナリ)は神が鳴らす「神鳴り」が語源です。いかづちを鳴らすのは神様だと信じられていました。ギリシアの主神ゼウスは雷神です。もしかしたらサドは「本当に雷に打たれたらいい」とさえ思っていたかもしれません。そうなれば本当に神はいると証明されて、神の国はあるということですから。実証されれば、サドは最も熱烈なキリスト教信者になったことでしょう。しかしそうはなりませんでした。サドが投獄されたのは神の罰ではなく、政争の道具にされたからです。
哲学者サドは作品の中で、キリスト教を理性的に理解できないものとして徹底的に否定しています。『サド侯爵夫人』の主題のひとつは「(キリスト教が示すような)確かなものなんてない」という価値観の転換・崩壊です。
この作品の劇的転換にはフランス革命が決定的な役割を演じています。虐げるものと虐げられるものが逆転する、それが革命です。上と下が逆転するのです。天地がひっくり返ります。それと同じように正しいものと正しくないものは逆転し、サディズムとマゾヒズムは逆転する。それがサドの思想です。
「悪を救うにも法と正義の力だけしか頼りにならないということですよ」モントルイユはいいます。そう信じていたモントルイユ夫人の身の上に、フランス革命がふりかかります。飢えた民衆が最高権力者の国王をギロチンで処刑するという上下の逆転現象が起こったのです。絶対王政というこれまでの社会の規範、ルールが反転してしまいました。サド夫人ルネは実母モントルイユを批判します。
ルネ「あなた方は出来合いの鍵と鍵穴です。約束事や世間の望むままの材料でできあがった、しきたりや道徳や正常さと一緒に寝て、睦言にも御自分たちの正しさを語り合ったのでした」
ルネ「かけがえのない? あなたこそ、かけがえのきくことを何よりの誇りになさっている方のはずですのに」
ルネ「それぞれの抽斗に人間を区分けしてお入れになる。モントルイユ夫人には正しさを、アルフォンスにはぞっとする悪徳を。でも地震で抽斗が引っくりかえり、あなたは悪徳の抽斗に、アルフォンスは正しさの抽斗に入れられるかもしれませんわ」
この地震こそがフランス革命でした。法・社会・道徳を代表するモントルイユ夫人は、フランス革命の後は、すっかり自信をなくしています。
モントルイユ「正しいことと、正しくないことの線は、海の岸辺の潮の差引で移るさかいのように、いつも揺れ動いているのではございませんか?」
この言葉も実際にはモントルイユ夫人の言葉ではなくサド侯爵の思想です。
モントルイユ「世の中がひっくりかえったおかげで、永いあいだアルフォンスのことで気をつかった世間体というものもなくなってしまった。私が長年信じてきた法と正義は死んでしまった。罪人という罪人、狂人という狂人が、日の目を見るのも今日明日のうち」
フランス革命による階級の逆転。確かなものなんてないという感覚は日本人には理解しやすいかもしれません。フランス革命の価値崩壊は、太平洋戦争直後の日本に似ています。鬼畜米英の価値観が崩壊し、マッカーサー元帥万歳、民主主義バンザイで生きることになった日本人には。
この価値転換は、太平洋戦争の敗戦で若き三島由紀夫が体験したことそのものでした。国のため、天皇のために死ぬはずだった三島は、鬼畜と呼んでいたアメリカの恩恵を享け、個人として生きることが許されたのです。
そして日本人は生きる規範を失ってしまったと三島は感じます。現人神は人間宣言をしました。フランス革命のような劇的な価値崩壊、価値転換が敗戦ニッポンにも起きていたのです。それを体験した三島由紀夫だからこそ、フランス革命の価値転換の時代とサドの哲学を好んで自分の作品にしたのだろうと私は思っています。
サン・フォン「子どもは親や世間から与えられた遠眼鏡を逆さに使って見ております。そして健気にも世間の道徳やしきたりの命ずるままに、世間の人と同じように安楽に暮らそうという望みさえ抱きはじめます。でも、ある日、突然それが起こります。今まで眺めていた遠眼鏡は逆さまで、本当はこんな風に、小さなほうの覗き口に目を当てるのが本当だという、その発見をする大きな転機が」
サン・フォン「そのとき今まで見えなかったものが突然如実に見え、遠い谷間から吹く硫黄の火が見え、森の中で牙をむき出す獣の赤い口が見え、自分の世界は広大で、すべてが備わっていることを知るのです」
サドの百科全書家、哲学者としての側面を象徴している比喩です。数奇な運命をたどった作家サドは社会によって牢獄に監禁されることになりました。しかしフランス革命によって社会が引っくりかえって、バスティーユ監獄「自由の塔」から救出されるのです。「自由の塔」というのは、牢獄の名前としてはまことに皮肉なネーミングだといわざるをえません。
ルネ「あなた方は夢にも、鍵を開ければ一面の星空がひろがる不思議な扉のことなどを、考えてもごらんにはならなかった。兎を見れば愛らしいとおっしゃり、獅子を見れば怖ろしいとおっしゃる。ご存じないんです。嵐の夜には、かれらがどんなに血を流して愛し合うかを」
肉体は不自由の極みにありながら、作家サドの精神はしかし誰よりも自由でした。キリスト教が禁止するありとあらゆる悪徳を小説中のイマジネーションで実現していくのです。
ルネ「アルフォンスは日に夜を継いで、牢屋の中でこれを書き続けました。何のために? 牢屋の中で考えに考え、書きに書いて、アルフォンスは私を、一つの物語の中へ閉じ込めてしまった。一つの恐ろしい物語の、こんな成就を助けるためだけに、私たちは生き、動き、悲しみ、叫んでいたのでございます。私たちが住んでいるこの世界は、サド侯爵が創った世界なのでございます。」
作家の自由とはイマジネーションの無限の広がりにこそあります。
ルネ「バスティユの牢が外側の力で破られたのに引きかえて、あの人は内側から鑢一つ使わずに牢を破っていたのです。牢はあの人のふくれ上がる力でみじんになった。そのあとでは、牢にとどまっていたのはあの人が、自由に選んだことだと申せましょう」
わたしたちの肉体は不自由なものです。家の近所しか散歩しない人は、牢獄の庭しか散歩しない囚人と同じようなものだといえなくもありません。私たちの肉体は空を飛べません。飛べるのは魂だけです。人間の肉体とは限界がある牢獄だといえます。そういう意味で私たちはみんな牢獄の中にいるのです。
後年、「肉体」を主張した天才作家は、ここでは精神の優位性という真逆の主張をしています。これはサドの意見というよりは三島の意見だと私は思います。どちらも三島由紀夫だと思うのです。まさにサディズムとマゾヒズムの反転のようなものです。思想がサド的な価値転換をしたものだといえるでしょう。
ルネ「薔薇を愛することと、薔薇の匂いを愛することを分けられまして?」
キリスト教もまた肉体を軽視して、精神世界の優位性を謳う宗教です。
ルネ「この世界の果て、世界の外れに、何があるか見ようともなさらず、あなたは死ぬのです。自分が蔑んだものにとうとう傷つけられなかったことをただ一つのほこりになさって」
サドは鞭とボンボン、民衆はギロチン。さて残虐なのはサド侯爵か、狂気の民衆か、どちらでしょうか。三島由紀夫は1970年11月25日、割腹自決によって、この世を去りました。
シミアーヌ「みんな昨日のことのような気がいたします。つかのまに私たちを染め変える「時」というものが、裳裾を引いてこの客間を通り抜けていっただけではございませんか。そして私たちの耳はその裳裾の衣擦れをさえ、しかと聴き分けなかったではございませんか」
私は『サド侯爵夫人』の舞台を実際に見たことがあります。舞台の上でのこのセリフは非常に心に沁みるものがありました。三幕の芝居のあいだに十二年の年月が経っています。フランス革命が起こり、世界は変わりました。しかし観客にとっては一瞬の出来事です。
シミアーヌ「あなたは神の釣り人の糸にかかった魚です。いずれは釣り上げられることをご存知だった。神はその手にとらえた魂を、あの光の牢獄、歓びの人屋へと、連れ去ってゆくのでございます」
モントルイユ「え? 世を捨てる、とお言いなのかい?」
サドが自由の身となって、いよいよ出獄してくるときになって、ルネは夫を捨て、世を捨て、信仰の生活に入ろうとします。
シミアーヌ「聖い光の源はただ一つしかありません」
キリスト教は一神教なので、光は神の方角からしか差しこまないのです。
ルネ「もしかしたら同じ源かもしれません。でも、どこかで光がはねかえり、別の方角から差してくるのかも……」
サドの光は、イエスの光あってこそのものでした。イエスの光が、サドという血塗られた盾に反射したものをルネ夫人は見てしまったのです。
神の天敵は、神のごとき存在です。対等な存在でなければ戦えないからです。『失楽園』でジョン・ミルトンが描く堕天使サタンが偉大な英雄のように見えるのは敵が偉大だからこそです。神の敵サタンは暁の明星ルシフェルとよばれた神にもっとも近い偉大な天使でした。サド侯爵が光の騎士に見えるのは、ルネにとっては当然のことなのです。
コンテンツは芸術家の魂の内側にある
出所したサドと二度と会わなかったルネ夫人の心の謎には誰もが驚かされます。脱獄の手助けまでして尽くし抜いた人生のすべてといってもいいような最愛の夫が帰ってきたのに、なぜ会わないのでしょうか?
誰だって、そこまでは思います。しかしそれを神話的なイマジネーションで書き上げたのは三島由紀夫の作家としての力量です。
ルネ「あの人は私と不可能との間の閾のようなもの。ともすれば私と神との間の閾なのですわ。泥足と棘で血みどろの足の裏に汚れた閾」
このような発想をする女は、血の通った生身の女ではありません。ルネは形而上の世界に飛翔してしまったのでしょうか。だからもう夫とは暮らせないのでしょうか。
ルネ「あのようなものを書く心は、人の心ではありません。もっと別なもの。心を捨てた人が、人のこの世をそっくり鉄格子のなかへ閉じ込めてしまった」
ルネ「格子の外であの人は何と光って見えますこと。この世でもっとも自由なあの人。時の果て、国々の果てにまで手を伸ばし、あらゆる悪をかき集めてその上によじのぼり、もう少しで永遠に指を届かせようとしているあの人。アルフォンスは天国への裏階段をつけたのです」
天国への裏階段……なんというすさまじい表現でしょうか。
ルネ「神がその仕事をアルフォンスにおまかせになったのかもしれません。
アルフォンス。私がこの世で逢った一番ふしぎな人。悪の中から光をつむぎだし、汚濁を集めて神聖さを作り出し、あの人はもう一度、由緒正しい侯爵家の甲冑を身につけて、敬虔な騎士になりました。
人の悩み、人の苦しみ、人の叫びが、けだかい銀の兜の角ごとにそそり立ち、あの人は血に飽きた剣を唇にあてて、雄々しく誓いの言葉を述べる。
籠手をはずして現れた女のような白い美しい手が、人々の頭にふれると、もっとも蔑まれ、もっとも見捨てられた人も勇気を取り戻し、あの人のあとに従って、暁のほのめく戦場へ勇み立つ。あの人は飛ぶのです。天翔けるのです。
血のまだらに染まった白い馬は、朝の稲妻のさしかわす空へ進んでゆく。そのとき空は破れて、洪水のような光が、見た人の目をのこらず盲らにするあの聖い光が溢れるのです。アルフォンス。あの人はその光の精なのかもしれませんわ。」
帰ってきた夫と会わない貞淑な妻。そのことに驚愕した私と、『サド侯爵夫人』を書き上げた三島由紀夫。作品は作者の外側の素材にあるのではなく、作家の内側の魂にあるものだということがわかります。
ゴッホが糸杉や星月夜を描けたのは、糸杉や星月夜が素晴らしかったからではありません。素晴らしいものと出会えたから素晴らしい絵が書けたわけではないのです。作品ははじめから芸術家の魂の内側にあったのです。外側にあるように見える内容はただのきっかけにすぎません。言葉にできない。作品でしか表現しえないもの。それが芸術です。
ルネのイマジネーションの中の光の騎士は、現実には歯が数本しか残っていないおどおどした目をした太った年寄りでした。当然でしょう。十八年も運動不足の牢屋に入れられていたのですから。
サド侯爵「忘れたか、シャルロット。私はドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド侯爵だ」
たった一言、サドのセリフです。門の外、すぐそこにサドがいるのに、とうとうルネは会いません。サドの姿は舞台に一瞬も登場しません。観客もサドを見ることができないのです。このもどかしさと言ったら……この余韻が作品を圧倒的に成功させています。
ルネ「お帰ししておくれ。そうして、こう申し上げて。『侯爵夫人はもう決してお目にかかることはありますまい』と」
美しい夢は夢のままに。光の騎士は光の騎士のままに。
どうしてルネはアルフォンスと会わなかったのか。私なりに感じるところはありますが、うまく言葉にできません。それが芸術なのでしょう。この気持ちは芸術でしか表現できないものです。
この書籍の著者である私は小説を書いています。私が作家になろうと決めたことに『サド侯爵夫人』は決定的な影響をあたえています。人生における執筆の意味を教えてくれた作品でした。『サド侯爵夫人』のような作品を書きたい、それが私の物書きとしての野心です。
名作3『月と六ペンス』サマセット・モーム
「芸術至上主義」といえば芥川龍之介『地獄変』(1918年)で炎に焼かれる娘の姿を描く狂気の絵師を思い浮かべる日本人が多いのではないかと思いますが、私はサマセット・モーム『月と六ペンス』(1919年)を思い浮かべます。
サラリーマンだった主人公ストリックランドは、突如、画家になります。いろいろあって最後はタヒチに行くのですが、不治の病で失明してしまいます。視力を失いながらもストリックランドは、家の木壁一面に生涯の大傑作を描きあげるのです。畢生の大作を死の直前まで描き続けて、描きあげて、ストリックランドは死にました。傑作だと自分でもわかっている、自分の人生のすべてといってもいい生涯最後の大壁画を、ストリックランドはほかの誰にも見せることなく、自分の意思で焼いて無にかえしてしまうのでした。このくだりには唖然とさせられます。生涯の苦痛も、すべてはこの絵のためにあったというのに。
まさに『地獄変』です。『地獄変』の絵師・良秀は作品を残して自分は自殺してしまうのですが、『月と六ペンス』の画家・ストリックランドは書き上げた自分の畢生の大作を燃やしてしまいます。どうしてストリックランドは生涯最大の大傑作を灰にしてしまったのでしょうか? その謎に迫りましょう。
芸術の衝動を描いた大傑作
サラリーマンだった主人公ストリックランドは、突如、画家になります。最後にたどり着いたタヒチで、不治の病で失明してしまいます。
視力を失いながらもストリックランドは、木の家の壁一面に『秘められた自然の深みにわけ入り、美しくも恐ろしい、知ってはならない秘密を探し当てたような』生涯の大傑作を描きあげるのです。『雄大で冷淡、美しく残酷な大自然への賛歌のような、黒魔術を思わせるような原始的で、恐ろしい絵』を死の直前まで描き続けて、完成させてストリックランドは死に瀕しています。
その瞬間、ストリックランドは、傑作だと自分でもわかっている、自分の人生のすべてといってもいい生涯最後の大壁画を、ほかの誰にも見せることなく、自分の意思で焼いて無にかえしてしまうのです。それはいったいなぜなのでしょうか。
実在の画家ポール・ゴーギャンにインスパイアされて『月と6ペンス』は描かれています。ゴーギャンには『我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか』という大作が後世に残されています。それに対してストリックランドは生涯最大の大傑作を灰にしてしまいます。もったいないと思わずにいられませんが……
作者サマセット・モームらしき語り手が、小説の中でこういっています。
『作家にあるのは書き上げた解放感だけ。自分の楽しみのために物語を書くのであって、ほかの目的をもって小説を書こうとする者がいれば、それは大ばか者だ』と。ストリックランドも書き上げた解放感だけを感じて、人生の目的を果たして満足して死んでいったという解釈が一般的です。
しかしわたしはすこし違った感想をもっています。
ストリックランドは大自然とか世界にインスパイアされて傑作を書き上げたけれど、彼の傑作がなくなっても、傑作を生みだした母体である自然や人間世界はまだ残っています。オリジナルがある限り、他の誰かの手で、傑作はまた再現されることでしょう。オリジナルが残っているかぎり、後世の人がその人の人生の中で悩み苦しみながら、自然や世界からまた何かを触発されて、彼なりの傑作をまた描き上げるでしょう。
ストリックランドは「すばらしいものは自分の絵ではなく、オリジナルである世界そのものだ」と考えていたのではないでしょうか。オリジナルが残っているから、そこに自分を反映した絵の方は燃やしてもよかったんじゃないのかな、というのが私の感想です。描きあげられた絵は世界を鏡にして、ストリックランドの心を映しだしたものに過ぎません。
傑作が燃えて灰になっても、すばらしい世界は今も目の前にある
芸術作品は、人のこの世や、大自然の偉大さを映し出した鏡に過ぎず、作品が燃えてなくなっても、オリジナルの世界が残っている限り、何ら失われたことにはなりません。ストリックランドはそれほど自分の心には重きを置いてはいなかったのでしょう。
だから『画家にあるのは描き上げた解放感だけ。自分の楽しみのために絵を描くのであって、ほかの目的をもって絵を描こうとする者がいれば、それは大ばか者だ』ということになるのです。ストリックランドの絵は、いつかどこかで、また他の誰かの手によって再現されるはずです。
だってすばらしいオリジナルの世界は今も目の前にあるのだから。
名作4『ナイチンゲールと薔薇』オスカー・ワイルド
「赤い薔薇をもってきてくださったら、あなたと踊ってあげるわ、と彼女は言ったんだ」
オスカー・ワイルド『ナイチンゲールと薔薇』は愛の痛みを描いた名作です。作品を読んでこれほど「痛い」と思ったことはありません。
『ナイチンゲールと薔薇』は子供の頃にアニメーションで見た覚えがありました。おさな心に強烈な印象を残した作品でした。わたしはワイルド『サロメ』の圧倒的な比喩力に驚嘆したことがあります。『サロメ』こそワイルドの最高傑作だろうと思っていたのですが、本作を読んで考えが変わりました。この『ナイチンゲールと薔薇』こそ世紀末デカダンス作家、オスカー・ワイルドの最高傑作ではないかと今では思っています。
うれしいたのしいばかりではない「愛の痛み」
昔見たアニメでは学生にシルビオ、女性にユリアという名前がついていましたが、ワイルドの原作には名前はありません。ただの「学生」です。
赤い薔薇を持ってきてくださったら、あなたと踊ってあげるわと彼女はいったんだ。
学生は恋に悩んでいました。
ああ、幸福というものは何て些細なことで決まるものなんだろう。ぼくは賢者たちの書いたものは全部読んでしまったし、哲学の極意もみんな習得した。だがそれでも一輪の薔薇がないために、ぼくの生涯はみじめなものになってしまうのだ。
いつも愛の歌を歌っていた小鳥・ナイチンゲールは「とうとう本物の愛を見つけた」と思って学生に陰ながら協力することにします。アニメ版では、ナイチンゲールはシルビオが大好きだから(友達だから)ということになっていましたが、原作では「みずからの意志で、愛の探求のために」陰ながら協力するのでした。
季節はずれの赤い薔薇がほしければ、月の光を浴びながら、小鳥が歌を歌い、心臓を薔薇の棘に捧げて、血で薔薇を赤く染めなければならないのでした。愛は、真珠やざくろ石でも交換できませんし、市場で売ってもいないからです。
ナイチンゲールはこう考えます。一輪の薔薇のために払うには、死は大きすぎる代償ですわ。でも、愛は生命よりもすばらしいものです。それに人間の心臓にくらべたら、小鳥の心臓なんてものの数にも入らないのじゃないかしら。
哲学がいくら賢くても、愛の方が賢いし、権力がいくら強くても、愛の方が強い。
ナイチンゲールが語りかけても、学生は何を言っているのかわかりませんでした。何しろ本に書いてあることしか知らないのだから。
ここで作者は、愛を知らない人間のことを、実世界のことをまだ何も知らない人間のように扱っています。
季節はずれの赤い薔薇を手に入れるために、一晩中ナイチンゲールは歌った。そして棘がだんだん深く胸に突き刺さり、生き血が全身から減っていくのだった。月が耳をかたむけている。その歌はいちだんと激しくなっていった。男と乙女の魂に生まれた情熱を歌ったからである。苦痛は途方もなく激しく、ナイチンゲールの歌はますます狂おしいばかりのものになっていった。というのも、死によって完成される愛を、墓の中でも死滅することのない愛を歌っていたからだ。
深紅の薔薇が咲くと同時にナイチンゲールは命を落とします。学生はその薔薇をもぎ取って惚れている教授の娘のところにもっていきました。
赤い薔薇をもってきたらぼくと踊ってくれると言われましたね?
しかし娘は他の男に本物の宝石を贈られていました。金持ちの男でした。女は薔薇よりも宝石を選んだのです。
学生は怒って赤い薔薇を放り投げました。ナイチンゲールが命と引きかえにつくり出した赤い薔薇は荷馬車に轢かれて粉々になってしまいました。
学生にとって、赤い薔薇は何の役にもたたないものでした。そして再び本の世界に戻っていくのでした。
愛のために小さな鳥が命を落としてしまう似たような物語『幸福な王子』
オスカー・ワイルドの原作小説では、アニメ版のように小鳥と学生は友だちではありません。ふたりは会話もしません。アニメ版だとナイチンゲールは友情のために命を捧げたかのように見えてしまいます。ところが原作小説ではただ愛という概念のために小鳥は命を捧げるのでした。
同じように小鳥が命を落としてしまうオスカー・ワイルドの物語に『幸福な王子』があります。『幸福な王子』でも、愛のために小鳥(ツバメ)は働いて立ち去らず、最後は死んでしまいます。『幸福な王子』の愛はキリスト教の大きな愛のために、『ナイチンゲールと薔薇』では男女の愛のために。
物語のラストで『幸福な王子』が不幸の中にも救いが見られるのに対して、『ナイチンゲールと薔薇』では荒涼とした寒々しい終わり方をしています。ふたつの作品のエンディングの違いは作者オスカー・ワイルドのふたつの愛に対する考え方を表明しているといってもいいでしょう。しかしだからといって作品として『幸福な王子』がすぐれていて『ナイチンゲールと薔薇』が劣っているかというとそんなことはありません。『幸福な王子』のツバメは越冬できずに弱って凍死(餓死)してしまうのですが、『ナイチンゲールと薔薇』のナイチンゲールはみずから心臓を薔薇の棘に刺しつらぬき痛みの中で歌うのです。
心臓の血の赤が薔薇の赤色に染まっていくというイメージが、痛みをともなう強烈な読後感として残ります。何が小さな小鳥にそこまでさせたのでしょうか? それこそが愛なのでしょう。愛は痛みをともなうものだと教えてくれます。
『ナイチンゲールと薔薇』こそが、十九世紀末のデカダンス作家の最高傑作だと私は感じています。哲学がいくら賢くても、愛の方が賢いし、権力がいくら強くても、愛の方が強い。ただそう語られても何も心に残りませんが、ナイチンゲールが心臓を自ら刺し貫く痛々しいイメージに言葉が重なって、真っ赤なバラのイメージとともに強烈な印象が残ります。
しかし主人公の「学生」は、愛の強さも賢さもとうとう理解することはできませんでした。そして本の世界に戻ってしまいます。愛とは誰でも到達できるものではないことを表現したものでしょう。現実に挫折して自分の世界に閉じこもってしまう人は古今東西どこにでも普遍的に存在します。彼もその一人でした。
私はオスカー・ワイルドと同じことを感じています。ワイルドは芸術作品をつくるよりも、みずからの人生そのものをひとつの芸術作品にしようとしました。『ナイチンゲールと薔薇』の学生のように、本の想像力の世界に舞い戻ることをいいイメージとは捉えません。
本書では私的世界十大小説を紹介していますが、この世でもっともおもしろいこと、もっとも学ぶべきことは、本の中にあるのではなく、赤い薔薇のなかにこそあるのだと思っています。それは誰かに紹介してもらうものではなく、傷つきながら自分で見つけるしかありません。痛みを感じても、血を流してもいいと思えるものをみずから探してください。本はただそのガイドをしてくれるものにすぎません。読むことそれじたいが目的ではないはずです。
名作5『マノン・レスコー』アベ・プレヴォ
男女の恋愛を描いた作品はたくさんありますが、歴史上最高の恋愛小説といえば、あなたならば何を推しますか? 私だったら『マノン・レスコー』を一択で推薦します。史上最高の恋愛小説といえばこれ以外にありません。
『マノン・レスコー』は、男が女にひたすら恋をして、世の掟や宗教的な戒律をひたすら破って恋のために没落していくという物語です。あまりにマノンを愛しすぎているために、この世でいちばん不幸な人間になった男。
『マノン・レスコー』の主人公は実はマノンではありません。世界の果てまでもマノンの後を追っていこうとする騎士グリューこそが真の主人公です。見るべきなのは、マノンの魅力ではなく、恋の魔力にボロボロになっていく男グリューの姿なのです。
史上最高の恋愛小説
『マノン・レスコー』は一七三一年の作品です。18世紀から19世紀半ばまで続いたロマン主義文学の黎明を告げる作品だとされています。文学史に名を残したマノンは「けがれない娼婦」という矛盾した存在です。男を虜にし運命を狂わせる女。こういう女性をファム・ファタールといいます。もともとは宿命の女という意味です。男の人生を変えてしまう運命の女ですね。
マノンは、生活レベルが一定のレベル以上の時は恋人グリューを心から愛しますが、貯金が一定水準を下回るととたんに肉体を餌に金持ち男からお金を貢がせようとする娼婦です。プロ娼婦ではありませんが、対価を得てお金持ちと寝ちゃう愛人タイプの女性であることには違いありません。しかし金銭にがめついというわけではなく、ただ「遊びたいだけ」の無邪気な女なのです。お金のためのお金ではなく、気持ちよく遊ぶのには金がいるからお金が無くなると自分の唯一の商品(肉体)を店頭に並べてしまうというタイプの女なのでした。
ではどうしてこんなろくでもない女が「文学史に残るいい女」に見えるのしょう。その理由は、ただただ恋人のグリューがボロボロに破滅していくからです。女のために男が転落するさまが凄まじく、「男がそこまで打ち込むのなら。それほどの女か」と、マノンを永遠のヒロインにしているというわけなのでした。
男を狂わすというのはいい女の証明書のようなものです。トロイ戦争のヘレナや、殷の滅亡の原因となった妲己、唐の国を傾けた楊貴妃など、歴史上そのような「英雄を狂わせて国を傾けるほどの美女」が存在しました。しかし創作の上で、男を狂わせる娼婦型が登場したのは「マノン・レスコー」がはじめてだとされています。『椿姫』とか『カルメン』など、女に翻弄される男の物語はたくさんありますが、すべてはマノン・レスコーの後発組です。『椿姫』などは『マノン・レスコー』の焼き直しじゃないか、という気さえします。それなのに後発の『椿姫』や『カルメン』などを寄せ付けない破滅っぷりを騎士グリューが見せてくれるので、原典にして最高峰の恋愛小説だといえるのです。
小説でいい女を描くのは難しいことです。なぜなら「いい女」の基準が人それぞれ違うからです。たったひとつ方法があるとすれば、それはその女に狂った男の姿を描くことではないでしょうか。女の自由奔放な生き方をある程度は束縛しようとするのが普通の男ですが、騎士グリューはマノンのすべてを受け入れて没落していきます。この落ちっぷりが見ものなのです。
恋愛の狂気・恋賊『マノン・レスコー』のあらすじ
あまりにマノンを愛しすぎているために、この世でいちばん不幸な人間になった男……『マノン・レスコー』の主人公はマノン本人ではありません。世界の果てまでもマノンの後を追っていこうとする騎士グリューこそが真の主人公です。見るべきなのは、マノンの魅力ではなく、恋の魔力にボロボロになっていくグリューの姿です。
グリューはマノンと出会い彼女の魅力のとりこになってしまいます。グリューはりっぱな階級の出身ですが、マノンは家格のつりあわない下層階級の女でした。しかしグリューはそんなこと気にもとめません。マノンとグリューは恋愛関係になり、パリで結婚する約束をしました。しかし親の承認が得られず結婚できません。パリでの同居生活は順調に見えましたが、やがてお金が尽きてしまいます。するとマノンはパリでの豪華な遊びのために、Bという金持ちを家に連れ込んでしまいます。そのことにグリューは衝撃を受けます。愛し合っていたと思っていたのに……。マノンを独り占めしたいBの策略で、グリューは実家に連れ戻されてしまいます。父親は若気のいたりの恋愛を笑いますが、浮気女との恋愛をあざわらう周囲の人たちの嘲笑に負けず、グリューは自分の恋愛を貫きとおします。
「あいつはマノンの心を獲得なんかしません。マノンがぼくを裏切るなんてことがあるでしょうか。ぼくを愛さなくなるなんてことがあるでしょうか」
「ぼくはBの家に火をつけるんです。そして不貞のマノンもろとも黒焦げに焼いてやります」
いいところのボンボンだったグリューは恋愛の狂気を知ってしまいました。他はいたって真面目なのに、マノンがらみの行動だけは正気ではなくなっていきます。
マノンはBに囲われています。Bはマノンの愛情にしかるべき金を払うといいます。囲い込みの愛人になったというわけです。それに対してグリューは僧門に入ろうとします。僧門といっても仏教じゃありませんよ。キリスト教です。世をすてて隠遁し、家柄にふさわしい宗教者への道を歩もうとします。
ちなみに作者アベ・プレヴォというのは僧・プレヴォという意味だそうです。作者はカトリックの聖職者なのです。しかし「マノン・レスコー」はまともな聖職者が書くような小説ではありません。「心に行った姦淫は、実際に行ったのと同じである」とイエスは言っているはずです。グリューの狂気は僧侶の生活とは真逆のものです。
グリューは聖職者として一年ほど宗教修行を積みますが、マノンと再会すると、これまで修行してきたことはもろくも崩れ去ります。
「みなすべて愚かしい空想だった。宗門の幸福など、おまえの視線にあったら、ぼくの心の中に一分だって居座っていることなどできない」
「マノンのために、キリスト教界のどんな司教の位だって棒にふるつもりだった」
宗教は恋愛の前にたちまち捨て去られます。僧・プレヴォ、大丈夫でしょうか?
「マノンのうそつきめ。ああ、うそつきめ。うそつきめ!」
マノンは遊びには熱狂的でした。贅沢と快楽のためにはグリューの愛を平気で踏みにじります。Bに囲われて豪勢な生活はしていましたが、「彼と一緒で楽しい思いなどただのいっぺんもなかった」というマノンの言葉をグリューはあっさりと信じます。
「もし金を払わずに遊び楽しむことができるのならば、マノンは一文だって欲しがらなかったろう。中ぐらいの財産さえあれば、おそらく彼女は世界中の誰よりも私を選んだであろう」
ところがそのお金がグリューにはないのです。
「ぼくのこころを取ってくれ。きみに捧げることのできるただひとつのものだ」
マノンのために身を持ち崩して転落していくことをグリューはすこしも怖がっていません。むしろそのことに喜びを感じています。
このように娼婦型の女にのめり込んで身を滅ぼしてゆく愚かな男の話しなのですが、ここまでやるとだんだんグリューがかっこよく見えてきます。恋に身を捧げ、あくまでも愛を貫き通そうとする狂気の男の姿が。
マノンのために、グリューは節約生活を送ります。自分のためのお金はつかわず、すべてをマノンの浪費のために使おうとするのです。二人の生活を少しでも長引かせるためでした。
「腹が減るのが何よりの心配なのだ。なんという下劣な根性でしょう。ぼくは空腹なんてこわくなかった。だからこそ、みずから飢えに身をさらしたのだ」
そこまでして二人の生活費を節約したグリューでしたが、なんと使用人に財産を持ち逃げされてしまうのでした。使用人を雇うのをやめて人件費をカットしろよ、というのが現代的な考え方ですが、この時代の貴族階級は使用人を使うのが習い性、義務のようなものだったのでしょう。同時代の他の作品でも同じですが、どんなに貧乏設定でも貴族には使用人がいるものなのです。そして生活費がなくなると、たちまちマノンは金持ちの男のところに走ってしまうのでした。
グリューはマノンをつなぎとめておくためにどうしてもお金が必要でした。マノンは身体を売ることを何とも思っていませんが、グリューはそうではありません。マノンの貞操が大事でした。そこで折衷案は、美人局(つつもたせ)のようなことになってしまいます。肉体を餌にお金を出させて、最後の一線を超える前にずらかるというわけです。こうしてグリューとマノンは美人局という犯罪に手を染めていきます。
金持ちを騙して金を持ち逃げしようとしたところ、逮捕されてマノンはオピタル(売春婦矯正施設)に送られてしまいました。グリューが金をだまし取ろうとしたお金持ちは権力者だったのです。マノンへの仕打ちを聞いてグリューは怒り狂って暴力を振るいます。そして牢獄に閉じ込められてしまいます。
「恋愛は穢れのない情熱であるはずなのに、どうして罪づくりで不幸とふしだらの原因になってしまったのだろう」
「われわれの至福は快楽の中にある。あらゆる快楽の中で最も楽しいものは恋の快楽である。恋のよろこびはわれわれをもっとも幸福にしてくれる」
「ぼくにそのよろこびを味あわせてくれるのは、たったひとつしかない(マノンだ)」
恋愛を諦めれば助けてやるという父親に対して、グリューは「恋愛こそすべてだ」と堂々と意見します。みごとなまでに、男らしく。
「僕の過失を引き起こしたのはみんな恋のしわざです。宿命的な情熱のしわざです。僕の罪悪というのは、これなんです」
「ぼくは善良な心をもっているから、不良になってしまった」
そして親身になってくれた院長にピストルをつきつけてマノンを助け出すために脱獄するのでした。そして優しい金持ちの前に身を投げ出し、涙を流して足元にすがりつくようにして、恥も外聞もなくマノンを助け出そうと哀訴嘆願します。
「人間は自由のためにはどんなことでもする」
グリューの情熱に心を動かされた有力者の協力を得て、マノンをオピタルから出すことに成功します。しかし脱走の代償に門衛を殺してしまいました。そして逃避行がはじまったのです。恋のためにとうとう殺人まで犯してしまったのでした。
「どこまで行くのですか?」「世界のはずれまでだ。マノンと永久に離れないですむところまでだ」
情けないはずのグリューがときどきカッコよく見えるのが『マノン・レスコー』の魅力なのでした。
「富というものは自分の欲望の満たし方によって計算する必要がある」
グリューは常にお金に悩まされますが、彼にとって大切なのはマノンで、お金ではありませんでした。グリューにとって富とはマノンと一緒に過ごす時間のことでした。しかしグリューがそれほどまでに思っても、お金が尽きるとマノンはまた言い寄ってくる他のお金持ちと寝ることも辞さない態度を見せます。別の女を自分の代わりにグリューによこすということまでするのです。グリューは自分の恋愛がバカにされたと感じて怒ります。
「おれときたらご提供できるのは愛ばかり、誠実ばかり。女どもはおれの貧乏を軽蔑し、おれの一本気をなぶりものにする」
そしてあてがわれた女には見向きもせず、密会中のマノンに会いに行くのでした。
「きみはぼくを死ぬほど苦しめておいて、今になって涙を流したってもう遅すぎるよ。人間って自分が裏切った不幸な男のためなんかに、そんなにやさしい涙は流さぬものだ」
純情を踏みにじられて傷ついたグリューは、逆にマノンの心を傷つけようとさえします。
「恩知らず、不貞な女。浮気で、残酷な恋人。おまえのそのあさましい根性がわかったからには、おさらばだ。卑怯者め」
しかし瞬発的な怒りも長続きしません。最後は常に愛が勝ってしまうのです。みじめにマノンにすがりつきます。
「きみのやったことには何だってぼくは賛成なんだ。きみはぼくにとって全能だ。きみはぼくの恋がたきと一夜を明かすことによって、永久にぼくを亡き者にするつもりなのかどうか言ってくれ」
「彼女のあらゆる欠点に目をふさぐためには、彼女に惚れているというだけでじゅうぶんだった」
マノンは美人局の容疑で、またもや牢獄に入れられます。グリューがマノンの貞操を守ったままお金だけ奪おうとするから、どうしても美人局にならざるをえないのでした。
「きみを牢獄からひきだすことができなかったとしたら、ぼくの命なんか犬にくれてやる」
「マノンを自由にし、救いだし、その仇を奉ずるには私の命が必要だった」
グリューは味方してくれそうなものを総動員して、手に武器をかざしながらオピタルめがけて打ち寄せる計画を立てます。もはや「賊」です。恋の賊。恋賊ですね。
家族か、恋人か、選択を迫られて、グリューは躊躇なく恋人を選びます。
「あんなに優しい、あんなに愛すべき女はけっしてあるものじゃありません。マノンがどうしてもアメリカへやられるなら、ぼくは一刻も生きているわけにはいかないからです」
自分に愛情をもつ父親に、グリューは切々と訴えます。
「愛情がどんなものか、苦しみがどんなものか、一度だって経験したものなら……やがて僕が死んだのをお聞きになったら、たぶんあなたはまた僕の父親らしい感情をもつようになるでしょう」
もはや恋愛のためにグリューは死を覚悟しているのでした。
マノンが更生するための懲罰の地、アメリカへの移送中に、護送車を襲って奪還しようとしますが、仲間に裏切られ、襲撃を断念します。そしてみじめにも護送人夫に賄賂を払ってマノンに会わせてもらいストーカーのようにマノンについていくのでした。あまりなみじめっぷりに「自分と一緒に転落するのはやめてくれ」というマノンにグリューはいいます。
「ちがう。ちがう。きみと一緒にいてふしあわせなのは、ぼくにとってねがったりかなったりの運命なんだ」
ここまでいえる男が、どれほどいるでしょうか。これこそが『マノン・レスコー』が名作だというゆえんです。
護送されたアメリカで、そまつな小屋で二人は一緒に暮らします。アメリカで、贅沢と快楽のない貧しさの中で、マノンはグリューを静かに受け入れています。贅沢しようにも、まだアメリカは未開の地でした。マノンは禁固や流刑でからだが弱っていましたが、グリューとのあいだにしばしの幸福がおとずれます。
「おお、神さま。僕はもうこれ以上あなたに何もお願いしません。もうぼくはマノンの心をしっかり握っています。これさえできたら他に何もいらないと……」
村の共同体にも二人は受け入れられます。そこであらためて正式に結婚しようとすると、マノンが正式な人妻でないことを知った司政官は、マノンに恋する甥っこにマノンをあたえようとするのでした。未開当時のアメリカでは司政官は絶対権力を握っていました。
マノンには指一本もさわらせないとグリューは怒鳴り散らします。これまで恋愛沙汰で起こった、いちばん血みどろな、いちばんものすごい場面をアメリカで演じてやろうと肚を決めます。またグリューの恋愛狂気がはじまりました。マノンのためには殺人も辞さない覚悟でした。そしてマノンに惚れている司政官の甥と決闘し、その甥を殺してしまうのでした。これでもはやアメリカの共同体にはいられません。全能の司政官の甥です。グリューの死刑は確実でした。この恐怖は切実なものであるとはいえ、グリューの不安のもっとも大きな原因ではありませんでした。
「マノンが、マノンのことが、マノンの危急が、マノンを失わねばならないことが、私を混乱させて、私の眼前を真っ暗にし、ために私はどこにいるのかわからないくらいだった」
マノンという語感がママン(ママ)に似ているせいか、言葉が切々と響いてきます。
「マノン、ぼくらはどうしよう」「逃げるのよ、いっしょに」
しかし未開のアメリカで街を離れてどうやって生きていけるでしょうか。グリューは自殺も考えました。しかし踏みとどまります。
「マノンを救うために、どんなにひどい苦しみもぎりぎりまで我慢するとしよう。我慢したのが無駄だったとわかるまで死ぬのを延ばそう」
町から逃げて荒野を行く過酷な逃避行の中で、マノンは死んでしまいます。これまでの禁固や流刑や逃亡で体が弱りきっていたのでした。
絶望したグリューは彼女の死体を埋めて、呆けたようにそこで死を待ちました。
ところがなんと死んだと思い込んでいた司政官の甥は生きていて、横恋慕からグリューと決闘した顛末を正直に司政官に話し、男らしく自分の罪を認め、グリューは許されたのでした。緩慢な死を願いますが、死ねず、グリューの健康は回復します。グリューはフランスに帰ることにしました。さんざん迷惑をかけた父は死んでいました。
騎士グリューの態度には近代人が共感できるものがある
こうしてグリューは生き残ります。世の中では「心中」こそ「身分違いの恋」の究極のかたちだと思われているふしもあります。それなのにどうして後追い自殺をしない『マノン・レスコー』が史上最高の恋愛小説だと言えるのでしょうか?
それは一緒に死ぬなんてきれいごとでむしろ簡単じゃないかと思ってしまうほど、騎士グリューがみじめなほど転落してこの恋愛と魂の心中をするからです。
たとえば『曽根崎心中』も、売春婦お初と徳兵衛の恋という設定が『マノン・レスコー』と似ていますが、マノン・レスコーの方が凄い恋愛小説だといえるのは、徳兵衛が彼女のためにまったく何も戦わないからです。徳兵衛はお初のために命をはったり何かを犠牲にしたりしません。いくら二人が来世で結ばれると信じて心中しても、徳兵衛はグリューほど恋愛に生きていません。この恋愛のために世の中とたたかうのは無理だとはじめから諦めてしまっています。また徳兵衛の死の動機ですが、友人に裏切られて金をだまし取られ商人にとって一番大切な信用を失ったという「自分のプライド」のために死ぬようなところがあります。お初は愛のために死んだようにも見えますが、女郎屋からぬけだせない「運命をはかなんで」というところもあります。恋愛のためだけに死んだとは思えないところがあります。ただ来世にむすばれることを信じて心中すれば最高の恋というわけではないのです。マノンのために戦い、マノンのために命をすて、マノンのためどんな屈辱にもたえるグリューの姿が、わたしたちを感動させるのです。
今とは違う文化に生きているはずなのに、グリューのマノンによせる思いには、三〇〇年近くたった今でも圧倒的に共感できるところがあります。人間として普遍的なものを描いているからなのでしょう。
作品というものは時代を経て古びるものなのですが、『マノン・レスコー』は現代の私たちを圧倒的に共感させる何かを持っています。ふつうなら後発作品に追い抜かれ、先発作品は古びて消えてしまってもおかしくありません。しかし『カルメン』や『椿姫』など、ファム・ファタールの後発作品にも追い抜かれることなく魅力が失せることがないのは、マノンが魅力的というよりは、騎士グリューの恋狂いっぷりの見事さと、その恋の普遍的な魅力にあるのだと思います。
マノンが男をとっかえひっかえしようとするのを、グリューは全力で止めようとします。マノンの貞操をまもりつつ、自分にあてがわれた女に見向きもせず、世のルールを恋愛のために破って、世間とたたかい、それがねがったりかなったりの運命だと没落していく男の姿が、現代人の目から見ても、ひじょうに共感できるのです。心中せずに生き残った主人公グリュー。恋に狂ったことも含めて、マノンの死もふくめて、すべては神の御業、と考えれば、聖職者の男が書いた小説だということも納得できることかもしれません。どんな愚かなふるまいも、何もかもが神が何かを教え諭そうとしているのだと考えるのならば。
騎士デ・グリューが恋愛のためにすべてをなげうつ転落ぶりがあっぱれすぎる『マノン・レスコー』こそが史上最高の恋愛小説であると私は思っています。
名作6『星の王子さま』サン・テグジュペリ
大人になってから読み返してすばらしい名作だと思ったのがサン・テグジュペリ『星の王子さま』です。「おとな読書」で寓話の意味が分かると、なるほどこういうことを言いたかったのか、と作者の本心がわかります。じつは『星の王子さま』には、離婚劇、女性に対する接し方、夫婦円満の秘訣なんかが書かれているのです。ちいさな王子さまは赤い花とうまくいかずに星を出ます。この際「おとな読書」で、バラは女性と読み替えましょう。女性とうまくいかずに、離婚、家出したのです。
王子さまはキツネと出会い、たいせつなことを教わります。そしてもう一度、王子さまはバラ園に戻ると、以前は同じに見えたのに、自分の星のバラとバラ園のバラとは全く違うことに気づくのでした。世の中にいくらでもいる女たちよりも、自分の恋人の方が大事だということがわかったのです。愛の秘密を『星の王子さま』は教えてくれます。
おとな読書。愛の秘密、特別じゃない人を特別だと感じる魔法
あなたの恋人は美しい人でしょうか? きっと美しい人なのだと思います。けれどあなたの恋人以外にも美しい人は山ほどいます。それなのに自分の恋人だけがどうして特別だと言えるでしょうか。恋人だけが異性じゃないと気づいてしまったら、あなたならどうしますか? 『星の王子さま』を通じて、愛の秘密について解き明かしていきましょう。特別じゃないものを特別だと感じる魔法のことをサン=テグジュペリが教えてくれます。
作品冒頭、砂漠に不時着したパイロットが星の王子さまに出会うところから作品は始まります。本の著者はサン=テクジュペリ。プロの飛行機乗りとしても有名で、一九三五年に故国フランスから当時植民地だったベトナムまで最短時間飛行に挑戦した際、サハラ砂漠に不時着した時の体験が「星の王子さま」に反映されているそうです。ベトナムを目指して飛んだのにサハラ砂漠って……だいぶ近くに不時着しましたね (笑)
一九四三年に「星の王子さま」は発行されました。フランス語の原題は「小さな王子さま」。王子さまはB六一二という小さな星からの来訪者です。「おとな読書」で小さな星は「家」の寓意だと考えることができます。小さな王子さまは「子供心」の象徴です。子供心は大人に対して無垢な疑問をぶつけます。無邪気な疑問は容赦のない大人社会への批判となっているのですが、無垢な子供の疑問という体裁のおかげで気分を害するような毒は感じられません。
王子さまの小さな星には小さな赤い花が一輪だけ咲いています。この花は「女性。妻。パートナーの象徴」と読むことができます。花は弱く何も知りません。4本のトゲをもっていて、王子さまは花を愛し、何でもしてあげようと思っていますが、花の言葉をいちいち真に受けて苦しむのです。世の男性も女性の言葉をいちいち真に受けて苦労していませんか? 私には身に覚えがあります。サンテクジュペリも女性には苦労したんだろうなあ、と思われます。ここでは完全に女性に対する接し方を書いていると私は思うのです。
子供の頃はわからなかったことが「おとな読書」をするとわかることがあります。これもその一つですね。「花はただ眺めて、香りを楽しんでいればいいんだ。意味のない言葉をいちいち聞かないほうがよかった」と王子さまは後悔しています。結論のないおしゃべり、方向性のまとまりのない会話、何が言いたいのかわからないトーク……喋ることそのものが目的だということがわからずに、男は女の会話とまともに向き合って困惑するのです。最近では男脳、女脳という脳の性差の研究が発展してきて、ここらへんのことは科学的に解明されてきています。洋の東西、昔から同じ悩みなんですねえ。同じ男として「やあ、ご同輩」とサンテックスに声をかけたくなります。これがおとな読書の醍醐味です。
そして王子さまは女性を家に残して家出をするのです。いや物語上では花を星に残して、小さな星を脱出するのです。はっきり言ってこれは離婚、家出です。王子さまはもうここには戻ってこないだろうと思っていました。花に「さよなら」というと、花は彼を「愛している」と告げたのです。「私を許してね。あなたの幸せを見つけてね」彼女は泣くところを見られたくありませんでした。それが花の自尊心でした。このような離婚劇が展開されます。子供の頃はさほど面白いと思わなかったシーンでも「おとな読書」をするとなんだかワクワクドキドキ面白く感じられてきます。
離婚して家を出た後、王子さまは旅の途中でさまざまな他の家を見て回ります。自分の家も変わっていましたが、世の中は変わった家ばかりでした。小さな家の中でいばってばかりいる人。崇拝されたい人。酒を飲むことを忘れたくて酒を飲むという人。自分を重要人物だというビジネスマンはお金持ちになるために計算ばかりしていました。「何のためにお金持ちになりたいの?」と王子が尋ねると「所有してお金持ちになれば、そのお金でもっと所有し、もっとお金持ちになれる」と答えます。キリがありません。大人というのは変だな、と王子さまは思います。まるで欲望に自分を見失ってしまった人のようです。こういう人は現代日本にもいますよね? いや世界中にこういうタイプの人はいるんでしょう。だから『星の王子さま』の寓意は普遍的なのです。いっさい現場を知らないという地理学者。そして規則に盲目的に従う点灯夫。友だちになってもいいと思ったのは彼だけでした。彼だけは自分以外のものの世話をしていたからです。
そして地球で星の王子さまはヘビと会い、花と会い、バラ園のたくさんのバラたちと会うのでした。バラたちは「彼の花」とそっくりでした。もうこの際、おとな読書で、バラは女性と読み替えてしまいましょう。
「特別な花を一本持っているから自分は豊かだと信じていたけれど、僕が持っていたのは普通の花だった」
バラの園(すなわちたくさんの女たち)を見て、自分の恋人だけが女じゃないと気づいてしまったんですね。世の中には他にもすてきな女性が山ほどいます。それなのに自分の恋人だけがどうして特別だと言えるでしょうか。
この問題に答えを出しているところが『星の王子さま』のすごいところなのです。
そして作中もっとも重要なキャラクターであるキツネに出会います。キツネは言います。
「今は10万人のよく似た少年の一人である君がいなくなったって別にかまわない。でも友だちになれば別だ。他の人が来たら地面の下に逃げるけれど、きみが友だちになってくれたならきみの足音はきっと音楽みたいにおれを穴から誘い出す」
「人間は愛したことしか学べない。今は意味のない小麦の黄金色が、きみを好きになったら、君が小麦のような金色の髪をしているから、おれは小麦を見るときみを思い出すようになる。小麦畑を渡る風を聞くのが好きになる」
これこそが特別でないものを特別なものにしてくれる魔法でした。キツネがそれを教えてくれたのです。
もう一度、王子さまはバラ園に戻ると、自分の星のバラと、バラ園のバラは全く違うことに気づくのでした。以前は同じに見えたのに。
「10万匹のどれとも違わないただのキツネが世界でただ一匹のキツネになったように、ぼくの星のバラはバラ園のバラ全部をあわせたよりももっと大事だ。なぜってあれが僕が世話した、僕の花だから」
とうとう愛の秘密に王子さまは気づいたのでした。世の中にいくらでもいる女たちよりも、自分の恋人の方が大事だということがわかったのです。
「時間をかけて一緒に過ごしたことが重要なんだ」
「心で見るんだ。大切なことは目には見えない」
物語のラストで王子さまはヘビに噛まれて死んでしまいます。死なないと来た場所に戻れないからでした。もしかしたらその場所は「過ぎ去った過去」という場所なのかもしれません。来た場所には愛した特別な「あの花」が咲いているのです。その花のためには死ねるのでした。
「星の王子さま」は戦争と無縁に書かれた作品ではありません。戦場で死んだ兵士たちは、誰のために、何のために死んだのでしょうか?
「5000本のバラを育てても自分たちが探しているものは見つからない。探しているものはたった一本のバラやほんの少しの水の中に見つかるのに」
目に見えなくなっても、サン=テグジュペリの心は今でも『星の王子さま』の中に残っています。
戦争でサンテクジュペリの偵察機を撃墜したパイロットは彼の愛読者だったそうです。搭乗しているのがサン=テグジュペリだと知っていたら撃たなかったという言葉が残っています。
肝心なことは目には見えないのです。
名作7『オシャレ泥棒』中森明夫
「オタク」という言葉の生みの親だとされている中森明夫さんの書いた『オシャレ泥棒』(1988年)。どうりで言葉のセンスが卓越しているわけです。作品タイトルからしてオードリー・ヘップバーンの映画を連想させますね。パクリというかオマージュの散りばめられた俗っぽい作品ですが、おそるべき名作だと思っています。
東京の風俗をモロに描いてしまっているので今読むと「古いな」と感じる描写が多く、ひじょうに損をしているのは確かです。しかしたとえばマルセル・プルースト著『失われた時を求めて』なども執筆当時のフランス上流階級のサロン文化をモロに描いています。そして現在では失われた時代のサロン風俗を知ることができるものとして高い評価を得ています。『オシャレ泥棒』ももっと時間がたてば、古い時代の東京の風俗を知ることができる書物として、古いがゆえに面白いという高評価を得られる日が来るかもしれません。今読むと古すぎないゆえに「古いな」と感じる描写が多いのですが、それを補ってあまりある恐るべき名作です。当時のオシャレな風俗がモロに描かれているのは、文芸雑誌への連載ではなく、ファッション雑誌への連載だったことが原因だと思われますが、そのおかげで評価が高くなる日がくるかもしれません。
「カワイイを超えたモノ、愛以上のモノをさがして」オシャレなものを泥棒する女子高校生のミッキーとミニー。彼女たちは「世界の果ての愛以上の場所」で死と向き合います。
命がけのことってあるよ。それは、生きること! 生きるってことは命がけの飛躍の連続さ。私たちは誰もが常に断崖絶壁の突端で目隠しをしてダンスしてる。この地上に永遠の生命を持つ者がいるとすれば、その目から見れば、私たちの一生はまるで一瞬のきらめきにすぎないかもしれない。真のたたかいとは負けるとわかっていながらもなお、そのたたかいを戦い抜くことなんだ。決して勝てぬたたかい、真のたたかいを戦うために、人は愛という武器を発明したんじゃないのかな。愛なんてないのさ。もともとなかったのさ。言葉があるからあるように思っていただけさ。でも、ないものを信じるんだ。戦うためにね。ないからこそ信じるんだ。それはもはや“愛を超えた愛”だ。地獄の果てまで私を連れ去るがいい。そこは恐らくは永遠の無だ。瞬間さ、この瞬間だけが生きているんだ。神さまなんていらない。私は神様に背を向けて、この瞬間を抱きしめていよう。
このシーンだけでも歴史的な名作と言っていいと思います。しかしこれがラストシーンではなく、『オシャレ泥棒』はさらに感動的なエンディングへと進んでいきます。ミッキーとミニーは「あなた」なんですよ。そんな素晴らしいエンディングへと。
ふたつのエンディング。なかなかこんな作品はありません。これはおそるべき名作なのではないでしょうか?
おそるべき名作
文学において風俗を語るのはどうなんでしょうか。『失われた時を求めて』の例のように、現代の風俗を語ることは発表当時の読者の関心を強く惹く効果と、百年後には「こんな時代もあったのか」と懐古趣味にひたれるというメリットがあります。
その反面、描写があっという間に古びてしまうというデメリットもありますね。現代の私たちが「ポケベル」とか「ダイヤルを回す」とかいう描写に出会ったら「古っ」と違和感を感じてしまうことでしょう。これが火縄銃だとか火打石ぐらい古ければ歴史ものとして読むことができるのですが、中途半端に古いと時代の流れに置き去りにされた旧作という印象が否めません。
芸術の一部である以上、文学はなるべく普遍的で永続的な人間像を描くべきでしょう。作品の長寿をなるべくめざすべきだというスタンスに立つと、ファッションや風俗などの固有名詞を露骨に取り入れることはあっという間に文章を古いものにしてしまうかもしれません。その反面、そういうものを描いてこそ時代を反映した作品だと言えるかもしれません。どちらが正解なのでしょうか。
『オシャレ泥棒』はファッションや風俗を露骨に取り込む方に振り切っています。だから三十年後に読み返すと、当時は最先端だったのでしょうが、今となっては古びてしまっているファッションや地名に対して古いなあという印象が否めません。たとえばアニエスベーなんかが最新のパリのファッションとして紹介されています。今ではみんな知っていますよね。しかし数百年後には誰も知らないことになっているかもしれません。
それでも『オシャレ泥棒』のエンディングの感動はいささかも減るものではありません。描写こそ古びてしまっていますが、私はおそるべき名作だと思っています。どこにでもありがちな本でないことだけは確かです。
「オタク」という言葉の生みの親
作者の中森明夫は「オタク」という言葉の生みの親だとされています。どうりで言葉のセンスが卓越しているわけです。『オシャレ泥棒』は作品のラストの凄さとは別に、端々に散りばめられた言葉のセンスが光る作品です。
「キスキスと二個キスをしたら、あいだに一個「スキ」が入っていた……人には『トキメキ神経』ってのがあると思うんだ」
「ヒミツってすごい言葉。それは「ツ」って言い終えた時にすぼめたクチビルがキスのカタチをしているからなんだ。瞬間なカンジがする」
「改心しちゃうワルモノってカッコワルイな。最後まで『ワル』に徹してほしい」
「スキッ」ってホント、コトバの凶器だなあ。
「こわい」そのコワイはカワイイと聞こえた。
こういう言葉遊びが秀逸なのです。外国語に訳せないのが残念ですね。
カワイイを超えたモノ、愛以上のモノをさがして
『オシャレ泥棒』は、カワイイがイノチだと思っていた通称ミニーが、男の子のような通称ミッキーと出会うところからはじまります。
ミッキー「可愛いには愛がある。でも私たちもうカワイイだけじゃすまされないよ」
ミニー「この世にカワイイ以上のものってある?」
ミッキー「それを探しに行くのさ。もう愛だけじゃだめなんだ。カワイイを超えたもの、『愛』以上のものを探しに」
こうして二人のオシャレ泥棒の冒険ははじまったのでした。
「現代ではあらゆる事象が『ファッション』の問題を避けて通ることはできません。オシャレ泥棒は捜査当局の美意識に対して挑戦状をつきつけているのです」
「どうせ読者には見えないんだから、ワシらは『見るからに古株の刑事然としたくたびれはてた格好』とか『いかにもその年頃の男特有の風采のあがらない身なり』といった『あいまいな描写』を着ておけばいいんだ」
「ヌードモデルは裸を着ているんだ。消費社会では最終的に各個人が商品となるのです。渋谷の街を歩いてごらんなさい。商品を着た商品たちが商品を見て商品を食べ商品を買い商品たちどうし声を掛け合っている」
「スタイリストこそが、あらゆる世界で必要とされていると思うのです。世界中の人が向いてないって言ったって、私はこのお仕事をやめるわけにはいかないのよ。その光のために自分を捧げたいと思ったら、そのコの中には神さまが宿っているんじゃないかしら。私はずっとその心のそばにいようと決心したのです。女のコたちの心に触れていることができさえすれば、あとはもうなにもいらないんです……その姿が月明かりに照らされシルエットになって浮かび上がるのが見えました。ミッキー達はそのお店からは何一つ盗らず、そっとそこから出ていきました」
二人の初心者マークのおばあちゃんは、大ベテランの女のコ達の群れに取り囲まれて「みんな、私たちとおんなし女のコ達だよ」
警官たちはまるでカワイイを取り締まっているみたい。
この世のすべてのシッポにクルもの! 自分の「動物の部分」に感じられるモノを私達探さなくちゃね。
この世のすべてのカワイイを奪い取るんだよ。そうしたら、そのとき、何が残るか。たぶんカワイイを超えたモノ、愛以上のモノが見つかるハズさ。
世界の果ての愛以上の場所
見渡す限り一面のゴミの山だった。まるでここは世界の果てだよ。スッポンポンの素っ裸。もうオシャレも何もあったもんじゃない。
ゴミの海に溺れたテディ・ベアはすすり泣くような声で語り始めた。「でもいいんだ。ボクは幸せだった。ありがとう。生まれてきてよかった」
まるで『トイ・ストーリー3』(2010年)のような展開です。モノたちの語る物語たちの墓場。
ここには『カワイイ』もなければ『愛』もない。ただ『死』があるだけだ。女のコは、ある日永久に動くことを止めて、誰もが最後にはここにやってくるんだよ。永遠に終わんないと思っていた夏休みにも、やがて最後の日がやってくるようにね。
新しいモノってすぐに古くなるよ。そして自分たち自身が古くなって、ゴミになって捨てられちゃう日が来るなんて気づきもしなかったんだ。
ないからこそ信じるんだ。それはもはや『愛を超えた愛』だ
「命がけのことってあるよ。それは、生きること! 生きるってことは命がけの飛躍の連続さ。私たちは誰もが常に断崖絶壁の突端で目隠しをしてダンスしてる」
「この地上に永遠の生命を持つ者がいるとすれば、その目から見れば、私たちの一生はまるで一瞬のきらめきにすぎないかもしれない」
まるで、『ドラゴンクエスト・ダイの大冒険』(1996年)のような名ゼリフをミッキーは吐くのでした。
「真のたたかいとは負けるとわかっていながらもなお、そのたたかいを戦い抜くことなんだ。決して勝てぬたたかい、真のたたかいを戦うために、人は愛という武器を発明したんじゃないのかな。愛なんてないのさ。もともとなかったのさ。言葉があるからあるように思っていただけさ。でも、ないものを信じるんだ。戦うためにね。ないからこそ信じるんだ。それはもはや『愛を超えた愛』だ」
これがオシャレ泥棒たちが探しあてた愛以上の場所、愛を越えた愛でした。
「地獄の果てまで私を連れ去るがいい。そこは恐らくは永遠の無だ。瞬間さ、この瞬間だけが生きているんだ。神さまなんていらない。私は神様に背を向けて、この瞬間を抱きしめていよう」
芸術の一部である以上、文学はなるべく長く未来の世代にも読まれることを目指すべきだろうと私は冒頭で述べましたが、未来なんか無視するという芸術のあり方もあるのですね。
「私たちはもう一度、最後の戦いに出発しなくては……。カワイイを超えたもの、世界のあらゆる『凛々』なるモノを探しにいかなくては」
本当の最終章 すべて少女に帰るまで
「世界をつくっているのは言葉なんです。言葉こそ世界であり、言葉を支配したものこそが世界を支配するのです。言葉のスタイリング、つまりは文体です」
「なにしろ彼女たちが盗んだもっとも大きなものは僕の心だったんだ、だから僕は……」
と、フィリックス警部は『ルパン三世カリオストロの城』(1979年)みたいなことを言います。
そして問題のラストシーンです。
少女たち——なぜ目覚めなかったのか? 目覚めるチャンスはいくらでもあったのに。
目覚めなさい! 目覚めなさい、少女達!
中森明夫は呪文のように少女たちの物語をつづります。
「それはそれはすごい数の女の子たちの集団でした。まるでこの世のすべての女のコ達が集まったかのようでした。女のコたちは救助したミッキーとミニーを「わっ」と取り囲むと、あっという間に二人を自分たちの集団に紛れ込まれてしまいました。二人は完全に女の子たちの集団に交じりあってしまいました。いや、女のコ達の中へ「帰っていった」といったほうが正確かもしれません」
「オシャレ泥棒をつかまえようと思ったら、この世のすべての女のコ達を逮捕しなければならないだろう」
オシャレ泥棒は「あなた」なんですよ。そんな素晴らしいエンディングでした。
「僕は・君たちが・好きだ」
中森明夫は「僕は君達が好きだ」と書いて名作『オシャレ泥棒』を終わらせています。村上春樹『風の歌を聴け』(1979年)のようですね。
目覚めた女のコたちがオシャレ泥棒を気持ちをひとつにして助けてくれた。これが私が感動した名作『オシャレ泥棒』のおおまかなストーリーです。
バットマン映画の『ジョーカー』(2019年)にも、ジョーカーがピエロの格好をした大衆の中に紛れ込んで追手の警察から逃れるというシーンがありました。『名探偵コナン』にも人々に紛れ込んで姿をくらます怪盗キッドが出てきました。犯人が人々のあいだに紛れてわからなくなってしまうというネタは、もしかしたら中森明夫『オシャレ泥棒』が元祖ではないのかもしれません。わたしが知らないだけで、もしかしたら、有名な元ネタがあるのかもしれません。よく見かける仕掛けですから。しかし同じ「大衆に紛れ込んで消える」ネタでも、他のどの作品よりも『オシャレ泥棒』はすぐれています。
怪盗キッドは見物人のあいだに逃げ去っただけです。『ジョーカー』はコスプレイヤーたちに自分から紛れ込んだだけでした。しかし『オシャレ泥棒』は、女のコたちが自発的にミッキーとミニーを助けるために彼女たちそっくりの扮装をして自分たちの中に隠してくれたのです。自分たちのキモチを代弁してくれる代表者として、同世代の女のコたちが、ひとりひとりが集まって、気持ちをひとつに、かくまってくれたのです。
『オシャレ泥棒』は、今読み返しても、おそるべき名作だと思います。未読の方は、どうぞ読んでみてください。こんな作品があったのか、と驚かれることでしょう。
私的世界十大小説として力いっぱいオススメします。
名作8『ロビンソン・クルーソー』ダニエル・デフォー
『ロビンソン・クルーソー』ロビンソン漂流記は1719年出版の本です。江戸時代に出版された300年前の本がどうしていまだに語り継がれているのか、実際に読んではじめてわかりました。その秘密は「自然環境の中でただ生きのびる」といった人類生存の根源的なスキルに真正面から取り組んでいるためです。思考実験の知的な面白さがあります。
『ロビンソン・クルーソー』に書かれてあることは、キャンプ、DIY、アウトドアといった現代の趣味に通じるものがあります。人類学的には狩猟採集そして農耕時代を経験してみるということでしょう。
現代社会は、お金があれば暮らしに必要なものは全部買えます。スーパーマーケットがあればとりあえず明日の暮らしに困ることはないでしょう。それに対して無人島に漂着したロビンソン・クルーソーはお金がいくらあっても意味がありませんでした。何もかも自分でつくり、自分の力だけで生きていかなければならなかったからです。それは薪と火で暖をとるような原始時代と同じライフスタイルであり、動物の毛皮や植物の繊維で服をつくるような太古の人類と同じ暮らしでした。
ロビンソンが不幸でみじめなら、私たちの先祖は不幸でみじめな生き物でした。しかし私たちの先祖がみじめで不幸ではなかったように、ロビンソンもまたみじめで不幸ではいませんでした。自分の力で無人島漂着という不運を、それなりに変えていきます。そのさまがおもしろいのです。
人生を「買う」という行為だけで終わらせないために
『ロビンソン漂流記』は、生来の放浪癖によって故郷を飛び出したロビンソン・クルーソーの漂流記を描いています。乗った船が難破して無人島に漂着し、その島で原始の暮らしをしつつ生きのびていく様を描いた作品です。
生きるとはどういうことか、これほど鮮やかに描いた作品もありません。ソローの『ウォールデン・森の生活』を思い出しました。
文学というのは一般に他人との関係性が描かれるものなのですが、『ロビンソン・クルーソー』は無人島の漂着者なので他者との関係はありません。その代わりに聖書があり、神との対話があります。1719年の出版です。300年も作品が命脈をたもつというのは並大抵のことではありません。300年前の作品とは思えない面白さでした。実際に読んでみて「こんなに面白かったのか」と驚きました。
何度も映画化されていますが、『ロビンソン・クルーソー』は小説で読んだ方が面白いと思います。自然の中で生き抜いていくことの不安は、絵で見るものではなく、心で感じるものだからです。作者デフォーの50代後半の作品です。出版されたのは59歳の時です。ずいぶん年をとってから出版された作品ですね。夏目漱石や芥川龍之介だったらもうとっくに死んでいる年齢です。
現代日本には、会社員生活をリタイアした後、田舎で暮らして、農業をしたりする人たちがいます。これまでお金で買ってすませてきた諸事を、自分でやってみようとする人たちです。井戸水を汲んで、野菜をつくったり、木を切り倒して薪をつくったり、家を自分で建てたりする人がいるのです。このような人たちは、お金がないからではなく、自分の生きがいとして難易度の高い暮らしを楽しんでいるのです。イージーモードの、なにごともお金で買ってすませる生活に飽きてしまったのでしょう。生きている実感を得るためには、生存危機レベルのヒリヒリした状態に身を置いて、そこから自力で生き抜いていくような暮らしをしなければ、ぬるま湯の日常ではなかなか生きがいを感じることができないという人たちがいるのです。
ロビンソンが無人島でおこなったことは、太古の人々が誰でも持っていた必須のスキルであり、現代人が失ってしまったものです。デフォーも還暦ちかくなって、若かりし頃には想像もできなかった心境に至ったのかもしれません。ローテクの太古の暮らしは何千何万年と人類がやってきた遺伝子に刻まれた暮らし方であり、むしろ普遍的なものかもしれません。必要なものは全部お金で買うという現代の暮らしこそ、わずか数百年の歴史しかない新しい生き方であり、それが正しいか、楽しいか、ずっと続くのかは誰にもわからないのです。
何もかもお金で買える生活をしていると、自然の中で人間が生き抜いていくサバイバル力が弱まっていきます。ロビンソンが行ったような無人島の一人暮らしでは周囲の自然環境を熟知していなければ生きのびることはできません。全能力を覚醒させて、生きていくことに挑戦するのです。
それに対して何もかもお金で買える生活はあまりにもイージーモードで、人間が本来持っている能力は使わないまま退化してしまいます。本当はぜんぜん違うはずなのに、肉を手に入れる行為と野菜を手に入れる行為が、スーパーマーケットでは同じ行為ですんでしまいます。「お金を支払う」という危険も工夫もない行為で。そのことを「つまらない」と感じる一部の人間がいることもまた確かなのです。
現在のキャンプやDIYブームは、そんな人たちがやっていることなのでしょう。ロビンソンまではやれなくても、ほんのわずかでも自分のことは自分でやりたいと感じる人たちがいるのです。そういう人たちがいる限り『ロビンソン・クルーソー』は輝き続けるでしょう。
ロビンソン漂流記。魂の冒険記
作者のデフォーは放浪癖をもつロビンソン・クルーソーが「放浪の魂によって不幸になるさま」を描きたかったようです。「人は今いるこの場所に満足できず、流浪する。幸せを求めて旅に出て不幸になるのが人間だ」という考え方をしていたようです。
先祖の土地でおとなしく暮らしをしていれば、そこそこの幸せが保証されていたにもかかわらず、若さと野心で故郷を飛び出して、ついにロビンソンは無人島で自給自足して生きていかなければならなくなりました。
『ロビンソン漂流記』ではジューヌ・ヴェルヌ『十五少年漂流記』のように、いきなり無人島に漂着しません。故郷にとどまりなさいという親の反対を押し切って放浪の旅に出たロビンソンは最初、海賊につかまって奴隷となってしまいます。しかし、自由になりたさから逃亡し、海上で船に救出され、ブラジルに行きます。ブラジルで農園を経営して成功しお金持ちになりますが、それでも定住して暮らしていこうとはしないのです。
「こういう暮らしならイギリスでもできた。友人たちと別れる必要はなかった」
そんな風に考えて、再びロビンソンは船で旅に出ます。1659年の出港です。流れ流れて、そしてとうとう嵐で難破して、無人島でひとりだけ助かるのでした。ここからがいよいよ有名なロビンソン漂流記のはじまりです。いよいよ本編スタートという感じです。
たどりついた島を「絶望の島」とロビンソンは名づけます。漂着した上陸地点に十字架を立てて、刻みをいれて暦をつくりました。キリスト教徒なので安息日の日曜日を知ることがロビンソンには重要なのでした。ところどころにあらわれる文明人らしいところが、この狂気の物語をときどき正気に戻してくれます。原始人が原始的生活を送るのではなく、文明人が原始的生活を送るところが面白いわけですからね。
ロビンソン・クルーソーは初めての夜を木に登って明かしました。島の猛獣を恐れたのです。ひとりぼっちの知らない島がロビンソンは恐ろしくてなりませんでした。しかし島にはヒョウのような猛獣はおらず、代わりにヤギがいました。そのことを彼は神に感謝するのでした。
ロビンソンは稲妻を恐れました。落雷にあったら火薬を失うからです。ひとりぼっちの島で銃なしには生きた心地がしませんでした。いかにも白人ですね。
ロビンソンはぐっすり眠るために防壁をそなえた小屋をつくります。難破した船から、食料と、銃と火薬、道具と資材を島へと運びだします。廃船からあらゆるものを運びだしますが、お金にだけは価値がないと思います。この島ではお金は何の役にも立ちません。お金の価値は交換価値だけですから、交換する物も、交換する者もいない絶望の島では無価値でした。落としたコインを拾い上げる気にもなりませんでした。
ものの価値というものは、利用できるところにしか存在しないと無人島のロビンソンは悟りました。使い道がなければお金の価値などゼロに等しいのです。
廃船には犬が一匹、猫が二匹いました。彼らを船から連れ出します。「ペットは家族だ」というほどロビンソンは近代人ではありませんが、それでも犬はロビンソンの孤独を癒す存在となってくれました。猫は愛玩用ではなく獲物を捕らえる本来の仕事に従事します。
犬よりも猫よりもロビンソンの孤独を癒してくれたのは聖書でした。聖書の言葉、天なる神がロビンソンの何よりもの会話の相手になります。孤独な自給自足ぐらしの悩み、苦しみを自問自答しつつ、自分だけが生き残った意味を神に問いかけるのです。この物語が空想サバイバル本ではなく文学なのはこういうところにあります。ペンとインクと紙も大事な用具でした。ロビンソンは漂流の記録をとり続けます。
猟銃と犬を駆使して、ヤギと鳩をロビンソンは食べて暮らしました。亀の肉や卵がごちそうとなりました。やがて銃の弾がなくなっても生きていけるようにヤギを家畜化することに成功します。チーズがつくれるし、肉にもなるからです。船の中にあった米麦を育てることにも成功します。食料だけでなく、カヌーやカゴなど、生活に必要な道具も自分でつくれるようになりました。
遭難当初ロビンソンはものづくりのシロウトでしたが、理性で合理的に判断をすれば、モノづくりに熟練することは誰にでも可能だと結論します。そして何もかも自分でつくるのでした。とりあえずやってみて工夫していけば、生きていくために必要な何でも拵えることができました。
失敗もたくさんありました。一番大きな失敗は、大木を削って丸木舟を造った時のことでした。どでかい木を削ってカヌーをつくったのですが、重くて海まで運べないのです。とうとうせっかくつくったカヌーを諦めて森の中に放置するしかありませんでした。何か仕事を始めるには時間と労力を計算して自分の力で可能かしっかりと検討する必要があるとロビンソンは学びます。やみくもに着手することの愚かしさを痛感したのでした。
『ロビンソン・クルーソー』は猟銃を撃つような狩猟採集民的なパートよりも、囲いをつくって防壁がある家をつくったり、米や麦をつくったり、羊を飼いならしたりする農耕民族的なサバイバル部分の方が圧倒的に面白いものがあります。それは太古から人間が行ってきた根源的な暮らしを文明人が再現しているからにほかなりません。読者は自分でも同じことができるかしらと空想してワクワクしてしまうのです。
ある日、ロビンソンはマラリアに罹ってしまいます。医者もおらず、薬もありません。死を意識して聖書に救いを求めます。ほかに誰もいない島で、聖書しか読むものがなかったら、誰だって神にすがるかもしれません。なんとか生きのびたロビンソンは、自分だけ生き残ったことを不幸とは考えず、むしろ幸運だと考えるようになりました。不幸な島の漂流者ではなく、自分は神の恵みで生かされていると感謝します。このような価値観の転換が『ロビンソン・クルーソー』を深い作品にしています。
ある日、無人島を脱出しようと船で漕ぎだしたら、海流に流されてロビンソンは島に戻れなくなってしまいました。このままでは漂流餓死してしまいます。あれほど脱出したかった島なのに、今はもう島に戻りたくてたまりません。その時ロビンソンは言います。われわれはまったく異なる環境に連れ出されるまで、自分の境遇がどれほど幸福だったのかに気づかない。失ってはじめて自分が享受していたものの価値を知ることになるのだ、と。
無人島の孤独の中で誰でもいいから人に会いたかったのに、いざ人の足跡が見つかるとロビンソンは不安と恐怖に怯えてしまいます。実際にその足跡は食人族のものでした。その時、ロビンソンは考えます。以前から危険だったのに、知らなかっただけだ。知らなかった頃は幸福だった。危険を知ってしまった今は不安と恐怖で心労にさいなまれている。様々なことが見えないからこそ人は平静でいられるのだ。すべてがありありと見えたら、とても正気ではいられまい——と。
ボロボロのあばら家でも、住み慣れた自分の居住地は快適でした。無人島の過酷な暮らしの中で、ロビンソンは「足る」ことを知るようになったのです。ロビンソンは無人島でもイギリス人の紳士らしく振舞います。食人賊を嫌悪し、被害者を助けて従僕とします。
最終的に彼は、島を訪れた船を奪取します。船員に反乱を起された船の船長と協力しあって、その船を奪い返して、とうとう無人島を脱出することに成功するのでした。
無人島生活は28年間にも及びました。
ロビンソンが無人島で何よりも大切にしたのは銃と火薬でした。無人島とわかるまではとにかくロビンソンはおびえまくります。ひとりぼっちで、銃だけが頼りでした。その銃で島を探検し、次々と征服していきます。そして最後には自分はこの島の王様だと考えるに至ります。そういうところが後世(現代)から「帝国主義的だ」という批判があるそうです。
現代社会では何もかもお金で買うことができます。お金があれば暮らしに必要なものは全部買えます。便利な時代です。その反面、すべては「買う」という行為で済んでしまいます。
食べることも「買う」。飲むことも「買う」。寝具も「買う」。移動手段も「買う」。雨露をしのぐ家も「買う」。体験も「買う」。すべてが買えばすんでしまいます。便利な反面、それが人生を退屈なものにしてしまいました。
「買う」という行為はあまりにも簡単すぎて、それ自体として生きている実感を感じることができません。本来はまったく違うはずのものが「支払う」という労力だけで手に入ってしまいます。「買う」という行為で人生が終わると、ゲームとしては簡単すぎて、おもしろくありません。生きている実感を得られない退屈な人生を送っていると感じる人もいるでしょう。失われた太古の人間本来の暮らしに惹かれる人は、デフォーと同じ種類の人間です。
私たちが『ロビンソン・クルーソー』に惹かれるのは、すべては生きている実感を得るため、この人生を「買う」という行為だけで終わらせないため、人が生きることの原点に回帰するため、おのれの人生を充実させたいと願うからではないでしょうか。
名作9『聖書』を文学作品として読む
人類最大のベストセラーは聖書です。聖書はやはり読むべき本の筆頭にあげられます。ここではその聖書を文学作品として読むことを提案します。
ドストエフスキーの作品をはじめ、多くの西欧文学のバックにはキリスト教に対する信仰があります。キリスト教がわからないと理解できない文学はたくさんあります。宗教としてのキリスト教の本質は「この肉体、この意識のままで復活して永遠の命を得る」ことにあります。しかしそれはもはや理性では理解できない信仰の問題です。
ところが「奇蹟への信仰」とは別に、キリスト教は不滅であると主張している人を見つけました。水をワインに変えたとか、死者を生き返らせたとかいうことを信じることが前提の宗教に対しては「受け入れられない」と私は思うのですが、この人の主張は「受け入れられる」と思いました。その人の名前はオスカー・ワイルド。『ナイチンゲールと薔薇』を書いた19世紀末のデカダン作家です。
どうしてキリスト教が不滅なのか? オスカーワイルドの独自理論
1859年に発行されたダーウィン『種の起源』の影響により、19世紀末はキリスト教が真実であるか、科学と宗教の相剋の時代でした。そんな時代に書かれた『獄中記』には、どうしてキリスト教が不滅なのかが、オスカーワイルド独自の理論で書いてあります。
「この肉体、この意識のままで復活して永遠の命を得ること」が本当ならば、こんなにすばらしいことはありません。この教えの宗教が世界一の不滅の宗教であることは当然のことです。しかし「そうではなくてもキリスト教は不滅だ」というのがオスカーワイルドの主張なのでした。
オスカー・ワイルドは、イエスを宗教家ではなく、芸術家・詩人としてとらえました。汎神論者がすべてに神を見たように、イエスは凡てに人類を見たのです。
ワイルドによると、イエスは同情という力によって、自らに神も人も具現されていると感じました。同情とは自分のことのように感じることです。あるいは同一視することです。だからイエスはそのときどきの気分に応じて、自分のことを、あるいは神の子と呼び、あるいは人の子と呼んだのです。
イエスの生涯を、憐れみと恐怖という観点から、ギリシャ悲劇以上だとワイルドは見ました。シェイクスピアでさえも、キリスト受難の最後の場面には、文学的に寄りつくことさえできないと感じました。偉大な文学。イエスの生涯は、全生涯が一編の牧歌だとワイルドは見ました。主役は絶対的に純粋で、仲間のものに付き添われるひとりのうら若き新郎です。イエスの人格には魅力がありました。イエスの衣にふれ、手にふれるものは、おのれの苦痛を忘れました。悪しき感情もイエスが近寄れば逃げていきました。快楽の声のほかには如何なる声も聞こえなかった人(聾者)も、はじめて愛を囁かれて、その声を聞きました。
死にも等しい生活を送ってきた者も、イエスが呼ばわれば、あたかも墓から甦ったかのように立ち上がって、生きていこうとしました。
イエスの愛の教えに耳を傾ける者には、粗末な食物も美味に思われ、水でさえも味よき葡萄酒の風味をもったのです。
このようにオスカー・ワイルドはイエスが起こした数々の奇跡を、リアルな奇蹟ではなく、象徴的な表現だと解釈しています。
ラザロの復活を、死にも等しい生活を送っていたものが、墓からよみがえったかのように生きる勇気を取り戻した比喩だとしたのは、なかなかうまい「たとえ話」だと思いませんか?
イエスは人類史で最初の個人主義者
イエスは人の魂を「神の国」と呼び、それをあらゆる人の中に見出しました。わが身に起こることすべてが人の身にも起こると同情したのです。その想像力で、個人主義を世界に通用させてしまいました。
たいていの人間は他人の生活をしています。思想は他人の意見であり、生活は人まねであり、情熱は他からの借り物に過ぎません。イエスにとって人生とは、幼児のように単純・純粋になることでした。そうすることで人真似でない自己の魂を自分のものにすることができるのです。
イエスにとって富と快楽は、困窮や悲哀よりも大きな悲劇であるように感ぜられました。富によって青年の個人的だった魂は損なわれるからです。貧者に施せ、とは自らのための教条です。富と快楽に心を毒され、本当の自分を損なってしまうからです。
汝の敵をゆるせ、とは自らのための教条です。憎しみに心が染まると結局は自分を損ねてしまうからです。
われわれを決定するのは意欲ではなく天命であるとイエスは感じていました。
イエス・キリストは史上最大の詩人、芸術家
他人の生活とおのれの生活のあいだに、いささかの差異もないことをイエスは指摘しました。そうすることで個人の歴史は世界の歴史になるのです。
これがオスカー・ワイルドによるナザレのイエスの解釈でした。ワイルドにとってイエスは芸術家でした。芸術家にとっては、表現のみが人生に考えうる唯一の様式です。そしてイエスの表現は、キャンバスや原稿用紙ではなく、人生そのものでした。驚嘆すべき想像力で、全世界を自分の王国となし、みずからを代弁者となしたのです。そして盲者には目となり、聾者には耳となり、舌を縛られたものの叫びとなろうと努めました。言葉を出しえぬ人々のために、天に向かって呼びかける喇叭たらんとしたのでした。イエスの宗教活動が、オスカー・ワイルドの手にかかると、このように芸術・創作活動になってしまいます。
芸術的な感性で、イエスがわれとわが身で成し遂げたのが最後の受難でした。美の概念である苦痛と悲哀を、自らの想像から自分自身として創造したのが十字架の上の最期だとワイルドはいいます。
この成就によってイエスは芸術を魅惑し支配しました。いにしえの神アポロンよりも、アテナよりも、デメテルよりもゼウスよりも……イエスは神秘、奇異、哀憐、暗示、法悦、愛……人生を彩るあらゆる要素をイエスはそなえています。だからイエスの生涯は芸術作品のごときものだとオスカー・ワイルドはいうのです。
「さまざまなものや人物をキリストに負うている。あらゆる芸術の中にキリストがいて、キリストの魂がある。われわれのために完全に人生を要約してくれた。イエスの人生には他の追従をゆるさないものがある」
その死を象徴的、神秘的に演出することが教会の最高の職務だとオスカー・ワイルドはいいます。イエスが脚本を書いた芝居を上演し続けることが教会の仕事だというわけです。
人を変えようとしたのではなく、周囲の人が変わってしまった
イエスが行ったとされる宗教的な行為、人びとの改革、苦悩の救済も、イエスは何かを教えようとしたわけではなく、人びとがイエスの面前に出てみると、人はその影響により勝手に何者かに変わってしまったとワイルドは理解しました。イエスは盗人を退屈な律義者に転向させようとしたわけではありません。むしろ子供の心のままにしようとしたのでした。ただ盗人の方がイエスの影響で変わってしまったのです。
オスカー・ワイルドにとってイエスは満身これ想像でできた人でした。そしてこの世界も同じ本質で成り立っています。愛こそ賢者の探し求めている世界の第一の秘密であり、愛を通じてのみ神の足元に近づきうることをイエスは知っていました。イエスは救世主というものを想像力で理解しました。だから救世主のごとくになったのです。詩人の魂と乞食の肉体で、救世主という芝居を演じきれると思ったのでした。
人間が芸術を欲する限り、最高傑作であるイエスの生涯は、決して滅ぶことはない
ワイルドもまた、芸術作品をつくることよりも、自分の人生そのものが芸術作品であるかのように生きようとしました。イエスも自分と同じだと見たのでしょう。イエスは一編の芸術作品も残しませんでした。しかし彼の生涯が至上の芸術作品でした。
「人間が芸術を欲する限り、最高傑作であるイエスの生涯は、決して滅ぶことはない」とオスカー・ワイルドは主張したのです。
ワイルドはイエスを宗教家としてではなく、詩人の作品として理解しました。異教徒の私でもその解釈ならば納得することができます。イエスの肉体が残した生涯・思想は、史上最高の芸術作品として永遠の命を得たというわけです。
なぜキリスト教が世界一信者が多い宗教であるのか、その謎が知りたい人を納得させることのできる理論だなあと思いました。
さて、このオスカー・ワイルドの目線で聖書を読めば、これまでとは違った新しい物語が発見できることでしょう。
人類史上最大のベストセラー、その『聖書』を、宗教書ではなく、あくまでも文学作品として、私的世界の十大小説のひとつに加えたいと思います。
コラム1 知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学青年でした。そして文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。
文学の正体、それが私は知りたかったのです。
読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。三蔵法師が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
物語を語り終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な大事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々こそがナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。なんだ。その程度のことか……。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——
これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関するトルストイの考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で諭しているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
コラム2 賢者の本から本当に知りたかったことは「なぜ人は死ななければならないのか?」
ヨハネの福音書には「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった」と書いてあります。かつて私は聖書だとか、聖賢の残した古典文学だとかには、この世界の真理、悟りの境地のようなものが記されているはずだと思い込んでいました。それを知るためにたくさんの本を読みました。
しかし歴史的名著にも、世の中の真理なんてものは、なにひとつ書いていないのだということが、たくさん読んでつくづくわかりました。そこには、ありきたりの、あたりまえのことが、表現を変えて書いてあるだけでした。
私が賢者の本から本当に知りたかったことは、「どうして人は死ぬのか」「なぜ私は死ななければならないのか」という問いに対する答えでした。これは人類最大最古の問いだといってもいいでしょう。
人類最古の物語である『ギルガメッシュ叙事詩』で、ギルガメッシュが求めたものは、まさに私の問いかけと同じものでした。しかしそこにも答えは書かれていません。英雄ギルガメッシュにも「人は死すべきものとしてつくられている」と、ただ現状を肯定することしかできなかったのです。
古今東西の大賢者の本を読んでも、生と死と今を肯定する議論のほかに、真理のようなものはどこにも書かれていませんでした。ソクラテスも、プラトンも、アリストテレスも、デカルトも、カントも、キルケゴールも、レオナルド・ダ・ヴィンチも、ニュートンも、アインシュタインも、フロイトもダーウィンも「人は何故死ぬのか」という問いに真正面から答えた人はいません。イエス・キリストもブッダもマホメットも万人が納得するような答えを出してはいません。彼らは「死後に復活できる。死には意味がある」とか「それは理であり避けられないが、解脱することはできる」と変化球のような答え方をしています。切実な質問に対して、真正面から答えたとはいえません。
ところが先日、ユーチューブを眺めていて、ビックリするような動画を見ました。その動画は「死とは何か? 人はなぜ死ななければならないのか?」という疑問を、小学生にもわかるように説明する試みだといいます。
「は? バカ言っちゃいけない。古今東西の大賢者たちが答えられなかった人類最大の疑問を、たかがユーチューバーに説明できるわけがないじゃないか」
なかば呆れ、なかばバカにした気持ちで、私は動画を眺めていました。ところがその結末に驚かされることになったのです。その動画は、要約するとこういうことを言っていました。
「世界は、いろいろ試して、生存に有利なシステムを採用した種だけが生き延びて、その結果として今がある。たとえば細胞分裂で同一個体を複製する方法よりも、有性生殖のほうが多彩な遺伝子が残せるので生存には有利だったからその方法が生き残った。しかし生物は長いこと生きていると細胞分裂時にミスコピーが起きたり、ちょっとづつ遺伝子情報にダメージが蓄積されていく。傷ついた遺伝子が複製されると、その瑕疵を子孫に伝えることになるので長い目で見ると種の生存に不利になる。
あるとき寿命という死のプログラムを持つ種が生まれた。その種の方が生存に有利だった。老いて傷ついたDNAが死によって個体ごと消えてしまうことにより、種として遺伝子のコピーミスが蓄積されにくくなる。もしも死のプログラムがなくて老いた個体が永遠に生きて子孫をつくると、子孫はエラーのある遺伝子ばかりになってしまい、種全体として生きのびる可能性が減る。種のために個は死ななければならない。これが私たちが死ななければならない理由である」
私は驚きました。「どうして人は死ぬのか」「なぜ私は死ななければならないのか」という問いに対して真正面から答えていますし、その説に納得している自分がいたからです。個の生存よりも種の生存を優先したのが個体の死だというのです。なるほど、そうかもしれません。
哲学や宗教や文学が解けなかった人類最大の難問が解決済みだった
哲学や宗教や文学が解明しようとしてきた「なぜ人は死ななければならないのか」という問いに対する答えを、こんなところで聞けるとは思いませんでした。「なんだ、人類最大の疑問に対する答えは、もう出ていたのか」
たとえば「歳を取るとどうして異性にモテなくなるのか?」という質問に対して、同じ理屈で答えることができます。歳をとった個体はそれだけコピーミスを抱えています。歳をとっても異性にモテたら、その瑕疵遺伝子が子孫に伝わってしまいます。逆に異性に受け入れられなければ繁殖行為を行うことができませんから、瑕疵遺伝子は伝わっていきません。種として瑕疵のある遺伝子を残さないようにするためには、歳を取ると異性にモテなくなれば問題解決です。
『ギルガメッシュ叙事詩』にも描かれなかった、人類最古の問いに対する本当の答え
「エンキドゥが死ぬなら、自分もいずれ死ぬのだ」
ギルガメッシュは「死を超えた永遠の命」を探し求めて旅立ちますが、結局、それを見つけることはできませんでした。
「人間は死ぬように作られている」
そんなあたりまえのことを悟って、ギルガメッシュは帰ってくるのです。
しかし私の読書の旅で見つけた答えは、ギルガメッシュとはすこし違うものでした。
なぜ人は死ななければならないのか?
その答えは、個よりも種を優先させるように遺伝子にプログラムされている、というものでした。
子供のために犠牲になる母親の愛のようなものが、人の世の真実だったのです。
エウレーカ! とうとう見つけた。そんな気がしました。わたしはずっと答えが知りたかったのです。
名作10 あなたの「その作品」(あとがき)
深田久弥という文筆家が『日本百名山』という本を書いています。我が国の百名山をアマチュア登山家が選出しようという趣旨の本なのですが、深田は後記に「百を選ぶ以上、その数倍の山に登ってみなければならない。麓から眺めるだけでは十分でない。私は全部登った」と書いています。
ここでは私アリクラハルトが私的世界十大小説を選出したわけですが、私も深田久弥同様にその数倍の本は読んだうえで選んでいることをいちおうお断りしておきます。
選んだ十大小説の中でもっともツッコミがあるだろうと思われるのは中森明夫『オシャレ泥棒』ではないかと思います。ドストエフスキーなど世界に名声のある文学を差し置いて何が中森明夫だ、と思った方がいたらごめんなさい。それは私のセンスだとしかいいようがありません。
確かに私だって誰かが世界十大文学に池井戸潤とか赤川次郎とか推して来たら「いや、ちょっと待て」とツッコミを入れると思いますので気持ちはわかります。ただここで言っておかなければならないことは、候補にあがりがちな世界的文学を読まずに選ばなかったのではなく、読んだうえで選外にしているのだということです。
セルバンテスも、ドストエフスキー、トルストイ、ゴーゴリも、ミルトン、シェイクスピア、ディッケンズも、ジュール・ヴェルヌ、ロマン・ロラン、カミュ、モリエール、プルーストもスタンダールも、ソポクレス、プラトン、ホメロス、ヘロドトスも、アポロニウス、ウェルギリウス、ダンテ、ゲーテも、パステルナーク、コンラッド、メリメ、ジャック・ロンドン、ロレンス、カサノヴァ、ヘッセ、カザンザキス、コナン・ドイル、フォークナー、スタインベック、ケルアック、メルヴィル、ウェブスター、メアリー・シェリー、カレル・チャペックもブロンテ姉妹も紫式部も井原西鶴も西遊記も三国志演義も聖書も天路歴程もラーマヤーナも般若心経もその他にもここには書ききれないほどたくさんの作品を読んだうえで選定しています。
あなたの大好きな大文豪の作品を選ばなかったのは私が読んでいないからではなく、おそらく私が選外としたからだと思います。読んだうえで彼らを除外し、その上で中森明夫『オシャレ泥棒』を選んでいるとご理解ください。けっして読書体験が貧弱だからではありません。『オシャレ泥棒』を読んでくださればなぜ私が推したのかわかっていただけるはずです。
多くの本を読んだうえで選出していますが、それでもすべてを読んだとはとうてい言えません。しかし今後も私の読書史の中で「この十大小説を超える作品」はそう簡単には現れないだろうと確信しています。だからこの時点で発表をしているのです。
そうは言っても文学には未来があります。
深田久弥にとっての山の場合、新山はそう簡単に誕生しませんが、読書界には次々と新作が誕生しています。私の目が閉じた後に、ものすごい傑作が現れるかもしれません。その作品を私が読むことはもうかないません。そんな未来の名作に本書『私的世界十大小説』の最後の一座を授けてもよいのですが……それとは別のことを私は考えています。
自分にとって最高の小説は自分にしか書けない
知っていますか? 自分にとって最高の小説は自分にしか書けないということを。
どんな作家も最初はたんなる読書家でした。多くの読書家は、自分が最高に読みたいと思える理想の小説を探して手当たり次第に読みあさります。しかしなかなか理想の小説は見つかりません。そしてとうとうそれは自分が書くしかないのだと気づいてみずからの物語を書き始めるのです。自分の理想を実現できるのは自分以外にないからです。
私も同じ道をたどってきました。私にとって最高の小説とは、自分が書いた小説にほかなりません。なぜなら自分が最も読みたい世界を、自分が最も読みたい内容を、自分の最も心地よい文体で書いた小説だからです。自分の理想を追求し、自分の最高を追求して書き上げた小説だからです。そういう意味では、私にとって最高の小説は自作小説にほかなりません。
他人におすすめするかどうかは別問題として、私にとっては私的十大小説から自作小説を外すことはできません。私にとって自作小説以上の作品はありません。なぜならそこで自分の文学の理想を追求したからです。
もしもどこかで本書の著者アリクラハルトの小説を見つけたら、ぜひ一度読んでいただきたいと心から思っています。私の小説が、私以外の人にとっても最高だったら、これ以上のよろこびはありません。
あなたにとって最高の小説は、あなたにしか書けない
このように、自分にとって最高の小説は自分にしか書けない。私はこう思っています。だから最後の作品は「まだ見ぬ未来の作品」ではなく「あなたの作品」こそ選びたいと私は思っています。
私にとって最高の小説が、自分が書いた小説であるように、あなたにとって最高の小説はきっとあなた自身が書いたものです。あなた自身があなたの理想を追求して書いた「その作品」です。私は「その作品」を読んでみたいです。
だから最後の一作はあなたの「その作品」を。
私の読書の旅はこれからも続きます。私的十大小説はこれから完成するのです。最後のワンピースを求めて、これからも旅をつづけましょう。探し求めましょう。素晴らしい出会いがあるといいなあ。あなたの「その作品」とどこかで出会えることを楽しみにしています。
私的世界十大作品選びはこれからも続くのです。
偉大な作品たちに喝采を!
物語はまだ終わらない。
二〇二四年三月 アリクラハルト
奥付
『私的世界の十大小説』
著 者 アリクラハルト
初 版 二〇二四年三月
copyright © 2024 arikuraharuto All right reserved.
