ウィリアム・フォークナー『八月の光』黒人差別や女性蔑視。もはや時代遅れの感覚が、人間として避けようのない宿命のように大袈裟に描かれている小説

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書籍『市民ランナーという走り方(マラソン・サブスリー。グランドスラム養成講座)』。小説『ツバサ』。『通勤自転車からはじめるロードバイク生活』。『軍事ブロガーとロシア・ウクライナ戦争』。Amazonキンドル書籍にて発売中。

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田代砲のPERSON OF THE YEARで有名な雑誌『タイム』誌が選んだ傑作小説?

作者のウィリアム・フォークナーはこの小説等でノーベル文学賞をとっています。

また田代砲のPERSON OF THE YEARで有名な雑誌『タイム』誌は、「1923年から2005年の英語小説100傑」の中に『八月の光』を挙げたのだそうです。

そういう前情報で読み始めたのですが……いやあ、ひさしぶりに面白くない文学作品を読んだな(笑)。黒人差別女性蔑視にそんなに感情移入できなかった。

たとえば「音楽はキリスト神への捧げものだ。人が楽しむための音楽だなんてとんでもない」とバッハみたいなことを言う人の大長編小説にそこまで読む意味があるでしょうか?

それはもう「解決済み」じゃないかな?

当時の感覚に戻った脳内シミュレーションで、当時の閉塞感と、現代的感覚のありがたみを感じる貴重な読書体験ができました、みたいに無難な読書感想文を書くこともできるのですが、はっきり書きましょう。

クリスマスの悲劇は今日の感覚から見ると「とっくに解決済み」問題です。それを「避けようもない宿命」のようにフォークナーは書いているのですが、大袈裟だと感じてしまうのが、本作の大欠点だといえるでしょう。

たとえば「友だちの恋人を奪ってしまったことの良心の呵責で、悩んだ末に自殺しちゃう物語」って名作ですか? ケッ、なんだそれぐらい。

そう思わせるようなところが「八月の光」にはあるのです。

やがてノーベル文学賞は廃止され、ノーベル・テクノロジー・イノベーション賞が新設されるだろう。

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『八月の光』の魅力、あらすじ、感想

出産間近の身重で捨てられた男を追って流れてくるリーナ。白人と黒人のハーフのクリスマス。世捨て人のハイタワー。

世の中の「掟」の外に立つハイタワー、「掟」から抜け出せないクリスマス、「掟」なんてものともしないリーナ。三人のアンサンブルが描く「掟」の物語です。

ここでいう「掟」とは「呪い」です。黒人・白人といった身分、見た目、地元、文化、差別、先祖、血の問題のことです。

ユダヤ人問題は被差別部落問題に似ている。人間の集団は差別せずにはいられないのかもしれない。

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『八月の光』の内容

彼が見つめていたのは壁に映ったピストルの影だった。起こされた撃鉄の形がさっと動いた。(愛人状態だった白人女を殺してしまう)。

あの人(リーナ)が追いかけている男は、今は留置所に入れられていて、そこから出るのは仲良くしてくれた男を追い立てるときだけだってことを隠しているんです。

暑さのせいだ。私はやらない。やらないのだ。俗務免除の権利を買ったのだから。→これが誰のセリフかわかりますか? 「掟」の外に立つハイタワー氏のせりふです。

きみはいま愛を知ったと言うのだろう。きみが知ったのは希望なのだよ。道の行きつく先はひとつしかない。罪か結婚だ。罪を拒むなら結婚か無のどちらかだ。どうして彼女はこの町にいながら、見つけようと思ってやってきた男と会おうともせず満足しているのだ。この町を立ち去れ。結婚したいなら、独り身の女性が、若い娘が、生娘がいるではないか。一度選択しておきながら、今になってその選択を否定したいと思っている女性のために、きみが自分を犠牲にしようとするのは正しいことではない。結婚というものをつくったとき、神にはそんなつもりはなかったのだよ。神がつくった? いや、結婚をつくったのは女たちなのだ。

→ 処女崇拝というのでしょうか、いやはや。黒人差別も時代遅れですが、処女崇拝もまた時代遅れですなあ。

若いということ。これこそかけがえのないものだ。この世に二つとないものだ。

あんた、ミリーの赤ん坊をどうしたんですか?

私がもはや神につかえる人間でないのは、私自身が選択したことではないのだ、命令以上のものによって強制されたことなのだ。彼らは侮辱と暴力をもちいて自分たちの意志を押しつける。そうした人間たちを駆り立ててあることをさせておきながら、今度はそれをやったということで責め立てて八つ裂きにしてしまうのだ。

バイロン・バンチなんてあの人にとってはこの世にいないも同然なんだと知ってはじめて僕はあの人が処女じゃないと気づいたみたいだ。いままであいつがいるってことを信じてさえいなかったんだ。ありとあらゆる他の人たちは何の意味も持っていない言葉の集まりみたいなもの。そうだ、いまはじめてルーカス・バーチって男が本当にいたってことを信じたんだ。 → うん。童貞の呟きだねえ。いやはや。レベル、低っ!

彼を行かせてやりなさい。あんたのもとから追い払ってやることだ。彼があんたに追いついて横に並ぶなんてことは絶対にない。彼はあまりにも多くの時間を無駄にしてきたのだからね。彼には何もないってことも、あんたがいろいろ経験しているのと同じように、どうしようもないことなのだ。彼には昔に戻ってやってみるなんてことはできないし、それはあんたが昔に戻ってやらないようにするなんてことができないのと同じことなのだよ。あんたには彼のものではない男の子がいる。あんたは彼の人生に二人の男と三分の一だけの女を押し込むことになる。彼が三十五年続けてきた何もない暮らしが破られねばならないなら、せめて証人を二人もつけずに破られてしかるべきなのだ。彼を追い払ってやりなさい。

→ 「時代」といえばそれまでですが、女性差別モロだしだと思います。こういうところが私が本作を受け入れられなかった要因のひとつになっています。

それはあたしのすることじゃないわ。あの人は自由なんだから。あたし、一度だってあの人を捕まえようとなんてしてないもの。あの人、あたしに結婚してくれって言ったの。いますぐにって。それであたし、だめだと言ったのよ。

女たちのおしゃべるに意味なんてぜんぜんないってわかるはずなのにね。おしゃべりを真に受けてしまうのは男たちだけなのさ。

「結婚は人生の墓場だ」は男女の脳差の断絶に絶望した者が言った言葉

こんなことがあったら、ボリシェヴィキになったって当然じゃねえか。

人類史上最大のベストセラー『聖書』。二番目の『共産党宣言』

われわれは秩序を守らねばなりません。法の命ずるところに従わねばなりません。民衆たちに示すことです。

黒い血を自由にしてしまった。またしても黒い血は彼を見捨てた。黒い血に対して最後の抵抗をしたのさ。しゃがんだまま、黙って撃ち殺された。

これでおまえはもう白人の女に手は出せないぞ。

彼らは決してこの光景を忘れないだろう。平穏な川のほとりに暮らし、未来の希望について思いを巡らそうとしても、忘れることなどできないだろう。

女こそ彼の肉体の種のみならず精神の種をも受け入れる器として神が創った「従順」なる「無名」の存在——というのが真理だったのである。

それを身につけたとき、彼は何かを失うかわりに、何かを手に入れ、愛の顔かたちそのものが変わってしまったのである。

彼女の顔はまるで見なかった。彼女の目は追いつめられた賭博師のように、死に物狂いの打算のうちに彼を見つめていたのだが、彼はそれに気づいていなかったのである。そしてある夜、突然、乱暴に、結婚のことを口にしたのだった。

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このブログの著者が執筆した純文学小説です。

「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」

本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

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目で見る必要なんてなかったんだ、ただ待っていればよかったってわけだよ。そのことをあの女は知ってたんだ。あの女はただ旅行してただけなんだよ。追いかけてる相手が誰であれ、そいつを見つける気なんてまるでなかったと思うぜ。今度腰を落ち着けたら、残りの人生ずっとそこに落ち着くことになるだろうって、たぶんわかってたんだよ。

人間って、ほんとに動くことができるものなのねえ。

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女性蔑視に黒人差別。もはや時代遅れの感覚が、避けようがないものとして描かれている。

『八月の光』をつまらん小説だなあ、と私が思ったのは、女性蔑視や黒人差別など、もはや時代遅れの感覚が「人間として避けようのない宿命」のように大袈裟に描かれているからです。

黒人が、アメリカ大統領になる時代に、みずからの血の色に悩む人の物語は、本当に今でも読むに値する文学のテーマたりえるんでしょうか?

作品の舞台は、禁酒法の時代(1920-1933年)を想定しているそうです。出版されたのが1932年。つまり作者のフォークナーは自分の時代のことを作品にしているということです。たとえば差別問題を深掘りしたい日本人が、江戸時代を舞台に借りて小説を書くような時代小説的な手法はとっていないということです。

土着の田舎者みたいな人たちが、土地の呪いみたいなものに縛られている作品といえばスタインベック『怒りの葡萄』を思い出しますが、こちらは1930年代末ごろが舞台になっています。だいたい同じころを描いているわけですね。

車中泊の元祖スタインベック。車中泊文学の傑作『怒りの葡萄』

この頃はまだ大規模農園もなければ、ヒッピーもいませんでした。自由旅行もなく、インターネットもありませんでした。そういう環境だと人はこんなふうになってしまうのでしょうか。こんなふうというのは、人は先祖と同じように黒人差別をし、女性蔑視してしまう「呪い」のようなものがある、というふうに、という意味です。フォークナーはそのように作品を描いています。もっともフォークナー自身、クリスマスの白黒の血の呪いは北部に移住すればとけてしまうということは認識していました。奴隷解放戦争でもあったアメリカ南北戦争は1861-1865です。あくまでも黒人差別が1930年まで根強く残っているのは南部の田舎町だからなのです。この「移住すれば解決しちゃう問題」に対して、フォークナーはふたりの人物を配しました。それが「旅する主人公リーナ」と「地元を出て行かないクリスマス」のふたりです。そこがつまり「掟」なんてものともしないリーナと、「掟」から抜け出せないクリスマスということになるわけです。

作品がギリギリ救われているのは「掟」なんてものともしないリーナがいるです。

しかし、クリスマスの悲劇が今日の感覚から見ると「とっくに解決済み」問題で、「避けようもない宿命だなんて大袈裟」だと感じてしまうのが、本作の大欠点だといえるでしょう。

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とっくに解決済み問題を、避けようもない宿命だなんて時代遅れの古い考え方だ

「古い考え方」を読まされたなあ、というのが正直な感想でした。これがノーベル文学賞ですか……。レベル、低っ!

まあ書かれた当時としては賞をとるような感覚だったのかもしれませんが、今日の目から見ると、いいたいことはわからないわけじゃないが、その考え方はもう古いナ、と思います。

それは物語のオチ・救いをキリスト教の死後の王国に求めたドストエフスキー作品を、手放しで評価できないのと同根です。

ドストエフスキー作品の読み方(『カラマーゾフの兄弟』の評価)

たとえば「音楽はキリスト神への捧げものだ。人が楽しむための音楽だなんてとんでもない」とバッハみたいなことを主張する大長編小説にそこまで読む意味があるでしょうか?

当時の感覚に戻った脳内シミュレーションで、当時の閉塞感と、現代的感覚のありがたみを感じる貴重な読書体験ができました、みたいに無難な読書感想文を書くこともできるのですが、はっきり書きましょう。クリスマスの悲劇が今日の感覚から見ると「とっくに解決済み」問題で、「避けようもない宿命だなんて大袈裟」だと感じてしまうのが、本作の大欠点だといえるでしょう。

友だちの恋人を奪った良心の呵責で自殺しちゃう物語って名作ですか? ケッ、なんだそれぐらい。

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「血の呪い」? せめて「教育の呪い」ぐらいではないか

わたしは放浪の旅人として諸国を流れて旅してきたので、この土着的な考え方はどうかなあ、と思います。いうてもアメリカの白人なんてメイフラワー号でのピグリム・ファーザーズの移住が1620年ですから、先祖の考え方といってもそんなに大した歴史はありません。その前は故郷を追われてヨーロッパあたりから流れてきた者の子孫でしょう。黒人差別の歴史だってそれほど長いものではありません。つい最近のものでしかないのです。それを「血の呪い」とまでしてしまうのは大袈裟です。せめて「教育の呪い」ぐらいではないでしょうか?

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解決済み「どうでもいい問題」。それでも苦悩があるクリスマスが主人公

こんな読書感想文を書くことだってできるんですよ。たとえば「書かれた当時の感覚にフィードバックしないと理解できない本。人間っていうのは地域、時代の子なんだと知りました。1930年ごろの南部アメリカに白人(もしくは黒人)として生まれたら、正しいものは何なのか、何を基準に判断すればいいのか、わからなくなってしまうかもしれない。これを作者は血の呪いというふうに言った。差別問題を考えさせられた」と。

でもねえ、アイデンティティーを地元や先祖の血に求める、というのも偏見ではないでしょうか? 本当にそうでしょうか? そんなことないんじゃない?

歌手のマライア・キャリーなんて、アイルランド系の母と、ベネズエラの血を引くアフリカ系アメリカ人の混血だそうですよ。自分はもともと何人なんだか、そもそも肌の色は何色なんだか(笑)。白でも黒でもありません。なまじ白黒だからクリスマスは悩むのであって、マライヤぐらいまでいってしまえば、もはや「どうでもいい」と開き直るのだと思います。マライヤの笑顔に「血の呪いの暗い影」なんてありません。そう、どうでもいいのです。

現在が平等だったら、過去の元奴隷だった歴史なんてふれたくないだろうに。忘れ去りたいだろうに。オレだったら、わざわざ掘り起こされたくないなあ。そんなこと。たとえば令和の日本で生まれつきの身分を意識することなんてあまりないけれど、友だちは貴族の家系、おいらは商人の家系かもしれないじゃない。それをわざわざ掘り起こされたくないなあ。そんなのもう完全に忘れてしまえばいいんじゃない? それをわざわざ忘れないようにするのは、今現在も同じような立場、境遇に置かれている場合だけだと思う。

だから『八月の光』は忘れ去られたっていいんだと思う。なにもわざわざ差別していた時代の心情を掘り起こして同調したりする必要はない。

「掟」から抜け出せないクリスマスの悲劇は、地元大好きヤンキーみたいな人の心には響くのかもしれませんが、ドリフターズ、ワンダラーズ、エグザイルスに響く話しではありません。

世の中の「掟」の外に立つハイタワーは、今日性をもっています。世捨て人はいつの時代でも今日性をもっています。イエスも仏陀も老子もみんな世捨て人でした。

しかしクリスマスを否定する力をもっとももっているのは「掟」なんてものともしないリーナに違いありません。しかしこのリーナには苦悩とか超克がないのです。バカみたいに何も考えずに則を超えていきます。無条件であっさりと掟を乗り越えてしまうから、文学的な盛り上がりに欠けるのです。

「王様の耳はロバの耳!」と真実と口過ぎに悩んだ末に命を賭して叫ぶ人物と、あっさりと見たまんまを口にする子供のような人物。どちらが物語の主人公たりえるかはいうまでもありますまい。

『八月の光』で主役をはれるのは苦悩があるクリスマスです。超克のあったハイタワーは批判者にすぎず、時代の評価に耐えられる生き方をしたリーナは主人公を張ることができませんでした。

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