資産、財産、貯蓄総額。すべてはデジタル上の数字
今日は銀行で大口の定期預金の口座を開設してきました。普通口座も同時に開設したのですが、昔と違って今は通帳を所有するだけでランニングコストがかかるんだそうです。
基本はスマホでネットバンキング。つまりスマホ上の数字が私の資産、財産、貯蓄総額だということです。私は投資もやっているのですが、お金というものが、つくづくデジタル上の数字にしか思えなくなりました。
資産総額は信頼の総額か? 実感が伴わない貯蓄残額
まだ紙幣を手で扱っていた時には、まだお金というものになにか手ごたえ、実感のようなものを持っていました。しかしデジタル通貨だとか、なんとかペイだとか、次々と決済手段が現れて、みんなが紙幣を持たなくなってから、もうわたしにはお金というものがよくわかりません。その人のつみかさねた信頼の総額とでも捉えればいいのでしょうか? しかし私自身がその数字を信頼できないのです。どうしてわたしが信頼できない数字を他人が信頼できるのでしょうか?
投資は現実ばなれした利益をあげています。労働の対価として得た数字ならばまだ何らかの実感があるのでしょうが、投資の場合、わたしは何もしていません。汗をかいているのはイーロンマスクら起業家たちです。そしてデジタル上の数字だけが膨れ上がっていきます。この数字はなんでしょう? わたしは有閑資本家でしょうか? 数字が膨れ上がっても現実感がともなわないのならば、数字が激減してもやはりあまりショックを受けないかもしれません。
貯蓄額がディスプレー上のドットに過ぎない時代の脳内混乱
まだ銀行口座の残額を通帳で管理していた頃には、お金というものに信頼感があったのですが、コンピューターゲームでも、ブログでも、サブスクの動画でも、エロ画像でも、なんでも映し出すディスプレイ上の数字でしかなくなったら、なんでそんなものを信頼できるのかわかりません。その数字はたんなるドットに過ぎないじゃないですか? まあ通帳の印字だってドットの集まりに過ぎませんが、すくなくとも過去の履歴を証明してはくれます。ネットの数字でしかない資産総額が、たとえばハッカーの攻撃によっていつの間にか数字が変わっていたとしたら、それをどうやって証明すればいいのでしょう。ほぼ自己防衛の手段がないのではないでしょうか。
今年は相続を経験しました。相続といっても、持ち物・モノ・現物はなにひとつ相続していません。すべて捨てました。そしてデジタル上の数字だけが故人のアカウントから移動したのです。まるで足し算引き算をするように。
デジタル上の数字なんて簡単に書き換えできるんじゃない?
まるで現金のように使えるポイントもわたしにはよくわかりません。口座を開設した銀行で、金利は低いくせに、ネットバンクにするとポイントはかなり大盤振る舞いしてくれるのでした。いやどっちもデジタル上の数字に過ぎないんだから、どっちをくれても同じじゃない? 何で金利は低いのに、ポイントは大盤振る舞いなのよ?
ときどきそういう事件がおこりますけど、悪徳社員だったらデジタル上の数字を簡単にいじくれるんじゃないかしら? 金塊を移すのは物理的に難しいですが、デジタルの数字を書き換えるなんて簡単でしょ? わたしは手品師じゃないので紙幣を一枚から二枚に物理的に増やすことはできませんが、デジタル上の文字を書き換えることは日常茶飯事でやっています。
貯蓄が趣味ってヘンタイじゃないの?
わたしにはお金もポイントもたんなるデジタル上の数字にしか思えないのですが、ポイントっていったいなんでしょうか? おカネっていったいなんでしょうか?
よく「貯蓄が趣味」という人がいます。宝石とか、貴金属を集めるのが趣味というのならば、まだ理解できる気がします。キラキラしたブツが目の前に積みあがっていくわけですから、クセになるかもしれません。
しかしこの時代の「貯蓄が趣味」というのは、デジタル上の数字が増えていくだけです。わたしにはまったく理解できません。そんなもののなにがおもしろいのか。ヘンタイじゃないかしら?
時代おくれの脳内混乱。信用に対する不信感
わたしは貧乏主義者で、ケチケチ君で、どちらかといえばお金持ちのほうだと思いますが、貯蓄が趣味でないことだけは確かです。わたしの資産総額を示すデジタル上の数字が何らの実感もともなわないからです。実感のないものに喜びも悲しみもありません。なんの快感も感じません。
かつて貝殻という交換価値が登場した時に、紙幣というものが登場した時に、兌換紙幣だったものが不換紙幣になった時に、人々は今のわたしと同じような脳内混乱を経験したのでしょうか?
わたしが新しい時代についていけていないだけかもしれません。
あるいはわたしが信頼、信用というものを信じていないのかもしれませんね。心のどこかで信用しきれていないから、違和感センサーが鳴り響くのかもしれません。