悪魔サタンを自由のために神に叛逆した英雄のように描いている
こちらは悪魔サタンを自由のために神に叛逆した英雄のように描いているミルトン『失楽園』について書かれたページです。
悪魔を賛美していますので、不快な方、興味の無い方は、ただちに立ち去ってください。
【書評】ミルトン『失楽園』とは?
唯一神ヤハウェ(エホバ)が自分の息子というだけでイエスを天使たちの首座につけたことに納得できなかった輝ける天使ルシファーは、天使の自由と独立のために戦うが一敗地にまみれます。
明けの明星と呼ばれた輝ける天使は、今や悪魔サタンと呼ばれるようになり地獄に落とされてしまいました。
サタンはヤハウェの力に怯える仲間たちを励まし、本当に神は絶対的で、天使は神を讃え服従するだけの劣った存在なのかと問いかけます。それでいいのか、と。
そして神の絶対性に挑戦するために、神が愛した人間アダムとイブに神を裏切らせてみせる謀略をかけるのです。
悪魔の計略は成功しました。それは勝利とはいえなくても復讐と称するに足りるものでした。
しかしすべては神の想定範囲内のことであり、やがて息子イエスを救世主としてつかわして、すべてを救済することを予言して物語は終わります。
アダムとイブは楽園を失い、追放されていきます。
いちばん感情移入できるのは悪魔サタン
ミルトン失楽園はざっとあらすじを述べれば上のようなお話しです。
しかし神話的な叙事詩なので、あらすじをいくら読んでも、失楽園のよさは伝わりません。神は細部に宿る、ですから。
しかし私が問題提起したいのは「読者として、いったい誰にいちばん感情移入できますか?」というところです。
神ヤハウェ? まさか神すぎます。ヤハウェに感情移入したらむしろ冒涜でしょう。
息子イエス? 聖人君子すぎます。
アダムとイブ? まあギリギリ感情移入できます。
しかしもっとも感情移入できるのは、叛逆の堕天使ルシファーではないかと思います。
失楽園を会社の現代劇にたとえてみたら、いかがでしょうか?
絶対的オーナー社長に叛逆した常務の英雄的な行動
「天国有限会社」の絶対的オーナーのヤハウェ社長のもとで長年滅私奉公の忠勤に励んでいたルシファー常務は会社の未来は自分に託されるものと信じていました。しかしある日突然、「次期社長は息子のイエスじゃ」と宣言されてしまいます。
息子というだけで後継ぎなんて納得できないルシファー常務は、実力を示して会社を乗っ取ろうと叛逆します。株主総会でクーデターを画策しましたが、失敗して会社を追われてしまいます。
能なし契約社員のアダム主査とイブ主任はヤハウェ社長を賛美しひたすら服従することで働かなくてもたくさんの給料をもらっていました。ルシファー常務は「天国有限会社」への復讐をねらっていました。「地獄有限会社」という別の会社を設立し、そこのサタン営業と名を変えて、アダム主査とイブ主任を勧誘し、口説き落とすのです。
「おたくのヤハウェ社長は従業員にはわずかな給料を出すだけで、ほんとうは社外秘のノウハウとレシピを会社にためこんでいます。あなたは社員のひとりなんだからちょっとぐらいレシピを知ったって文句を言われる筋合いはないでしょう」
イブ主任はサタン営業の口車に乗って、会社の社外秘のレシピを知ってしまいました。
激怒したヤハウェ社長はアダム主査とイブ主任をクビにして、会社を追放することにしたのです。
偉大な人間には、偉大な敵がいる
現代風に解釈した「失楽園」いかがだったでしょうか?
イエスが実力を示した後ならともかく、オーナー社長が強権発動し、息子というだけで新参者が上司になったら、誰だっていい気はしないのではないでしょうか。
織田信長の息子だからっていうだけで頭を下げろというのか? 戦国武将なら「ちょっと待て」と決戦を挑むのではないでしょうか? 豊臣秀吉や徳川家康はそのように行動しました。
実力を示そうとしたルシファー常務はむしろ男らしいと思いませんか。まして相手は唯一無二の絶対的なヤハウェ社長なのです。
負けて会社を追われた後も、いつまでも打ちひしがれてはいません。自分をクビにした古巣に復讐の機会を狙っています。現代でもプロ野球とかでありがちのストーリーではありませんか?
ルシファーは、絶対服従だった社員に対し、離間の策を成功させて、いちおうの復讐を遂げるのです。ひたすら社長に服従するだけのアダム主査とイブ主任よりも、社長の権力に挑戦するルシファー常務の方がはるかに英雄的です。
作者ミルトンはキリスト教を賛美する目的で『失楽園』を書いているので、イエスと天使の側が主役の書き方をしているのですが、現代サラリーマンのわたしたちには物語の主人公が堕天使サタンであるようにしか読めません。あるいはミルトンにも無意識のうちに神への服従から自由を求める心があったのかもしれません。堕天使はかならずしも嫌悪すべきものとして描かれていないからです。
「偉大な人間には、偉大な敵がいる」というユダヤの格言があります。「偉大な神には、偉大な悪魔がいる」とは言えないでしょうか。
ゼウスに対しテュポーン。雷神トールに対しヨルムンガルド。インドラに対しアシュラ。スサノオに対しヤマタノオロチ。そして全知全能のヤハウェに対しては堕天使サタン。サタンは「星の中の星」「暁の明星」と呼ばれた神の次の地位にいた大天使でした。
ルネッサンスの奴隷解放戦士。デビルマンの原型
さて、堕天使サタンの「自由への反逆」について見ていきましょう。さすがは神の敵です。いちいちカッコいいのです。
「大胆不敵にも、あえて全能者に向かって武器をとって刃向かってきたこの者」とか。
「乾坤一擲の希望を等しく賭け、一戦を交えて、至高者と対等たらんことをうかがった」とか。
「一敗地に塗れたからといって、それがどうしたというのだ? すべてが失われたわけではない」とか。
「つい今しがたおのれの主権の失墜を危ぶんだ彼の力を崇めろ、とでもいうのか。それこそまさに卑屈」とか。
「絢爛たる奴隷生活の平穏無事な軛よりも、苦難に満ちた自由をこそ選ぼうではないか」とか。
「わたしがここに来たのは、天使の軍勢を自由にするため」とか。
「天とはすなわち自由のこと。しかし多くの天使が奉仕の天使に堕している」とか。
「行動に訴えてもなお威しえない相手を、言葉だけの空威しで恐れさせようとしても無益というものだ」とか。
「たとえ支配権を握りえなくても、とにかくここで自由に住むつもりだ」とか。
ほとんど自由解放戦線のゲリラ戦士のセリフにしか聞こえません。
悪魔サタン、カッコよすぎます。永井豪の漫画『デビルマン』の原型を見る思いがしますね。姿こそ悪魔ですが、心の中はほとんど人間です。
アダムも悲劇的な英雄
神のひとり子イエスの王座を認めることができず、天使たちの自由を賭けて叛逆した悪魔サタンの物語『失楽園』について解説しました。いかがだったでしょうか?
もちろんキリスト教の正当性を謳う叙事詩としても読むことができます。っていうかそっちの方が正当の読み方だと思います。
でも人権とか自由のために戦うルネッサンス的な人物として堕天使ルシファーをとらえた方が物語としておもしろいですし、文学的な深みも増すように思います。
『失楽園』のもうひとつの見どころは、アダムがイブを愛するあまり、激しい愛情にかられて、彼女とともに亡びる決意をする場面です。
イブを失って楽園で永遠に生きるよりも、楽園を失ってもイブと一緒に生きて、死すべき運命を受け入れるのです。
自己啓発本とか、お金儲けの本とかを、たまには離れて、はるか天国で行われた幻魔大戦の一大叙事詩に心を遊ばせてみてはいかがでしょうか?
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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
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