どうもハルトです。みなさん今日も楽しい旅を続けていますか?
つ、使いにくい。グーテンベルクの名を冠した新エディター
旧パソコンに寿命が来てパソコンを買い替えたのをきっかけに、設定をいろいろと変更しています。
私はパソコンの設定は、よほど困っていない限り「変えない」ほうがいいと思っています。
というのは、設定を変えることが、使いやすくなるとは限らないからです。
みなさんも経験ないでしょうか。ワードがバージョンアップしたら以前の機能がなくなっていたとか、エクセルがバージョンアップしたら旧バージョンのほうが使いやすかったとか。
ウインドウズアップデートのようなマルウェア(コンピューターウイルス)対策になっているような更新の場合はやむをえませんが、ワードプレスのようなエックスサーバー上で運営しているフリーソフトなんかは「困っていないかぎり」「設定は変えない」主義でした。
だからワードプレスのダッシュボードには「更新のお知らせ」の赤マークが常に点灯していましたが無視していました。別に困りませんでした。困ってないから更新しないわけですからね。
ところがパソコンを買い替えたという環境の激変を機会に、これまで放置しまくってきた様々な設定をこの際、最新の状態に書き換えようとダウンロードしまくりました。その結果………案の定、ただいま、後悔しまくっております。
グーテンベルク、使いにくいわ
その一つが表題のワードプレスの入力処理の変更です。そのことについてレポートしてまいります。
ワードプレス5.0更新の新しい入力エディターは「ブロックエディター」または 「Gutenberg 」と呼ばれているようです。活版印刷を発明したグーテンベルクさんの名前ですね。グーテンベルクはドイツの印刷技術者だったのですが、鋳造活字の発明者だと言われています。
これまでの印刷は、一枚版(整版)に1ページ分の字を掘って、1ページごとに擦ってきたのですが(製版印刷)、一文字づつの鋳造活字を組み合わせることで印刷を飛躍的に発展させた人物です。 タイプライターとかキーボードのご先祖様です。伝説では製版を落として割ってしまった破片から鋳造活字を思いついたとか。
西欧は文字数が漢字圏よりも圧倒的に少ない(つまり同じ文字がくりかえし使用される)わけですから、 製版を落として割っちゃったみたいな伝説を無理やりこじつけなくても、やがて誰かが発明したことは間違いありません。っていうか、歴史的なインパクトは大きかったのでしょうが、発明そのものはそんなにたいしたものじゃありません。
そのグーテンベルクの名前を冠したエディターですが、グーテンベルクの発明そのもののように、これまでの一枚の原稿用紙に文章を書くような製版印刷的なエディターが、段落ごとに分割っされたブロック単位の編集(エディット)をするように仕様が変更されてしまいました。まさにグーテンベルクです。製版印刷から活版印刷になるような仕様の変更です。
これは慣れるまでは、使いにくい。
旧エディターに戻せるのならば、戻したほうが使いやすい! そもそもブロックエディターはコンピューター目線の仕様であって、人間目線ではありません。
文章は絵を描くように書く。全体の塊として印象を残すもの
私は文章というのはひとつの塊だと思っています。文章は他人に何かを理解してもらうため、伝えるためにあるものですが、それは全体として、カタマリの印象として感じてもらうものだと思っています。もちろん文章の塊といっても、改行や段落(要素)があるわけですが、全体の要素として部分があるのであって、その逆ではありません。
ところがコンピューターは文章を理解したり、印象を感じたりしませんから、文章を段落の積み上げだと認識しているのです。部品の集まったものがコンピューターであるように、文章も単語や段落が集まったものと認識しているのです。
それは芸術絵画を赤や青や黄色の絵の具の塗り重ねで出来ていると認識するようなものです。芸術絵画は全体の印象として感じるものであって、決して絵の具という要素の重ね合わせではありませんよね?
でもコンピューターってやつは、そういう技師みたいなやつなのです。決して芸術を理解できる人間のようなタイプではありません。ノーベル文学賞作家の人間の根源の感動を描いた文章も、子供の「腹減った。カレーライス食べた」みたいな日記文章も、文字数レベルでしか比較できないのがコンピューターなのです。
どういうことなのか具体的に説明しましょう。
「哀しい眼をした猿と、眼を怒らせたオオカミが森で出会った」芸術絵画があったとしましょう。画家にあるインスピレーションが降りてきて猿の「哀しい目」とオオカミの「怒った眼」を取り替えたら、絵画の印象は全く違ったものとなります。怒った眼の哀しそうな表情の猿と哀しい眼をした牙をむくオオカミは見ている人に鮮烈な印象を残すことでしょう。
眼だけを取り替えるのです。それが秘儀なのです。
ところがこのブロックエディターというのは、段落ブロックで動かしていますので、猿とオオカミの位置を入れ替えることは想定しているのですが、「眼だけ」を入れ替えることは想像もしていません。ただオオカミと猿の立ち位置を入れ替えても、ほとんど何の効果も生じません。
そのコンピューターの認識に忠実に、段落(ブロック)ごとに編集していこうというのがブロックエディターの考え方の本質です。よく「行間を読む」といいますが、ブロックエディターを使って文章を書くと、行間には改行記号しかないような気になってしまいます。
検索クローラーこそ神である
ブロックエディターは使いづらい。そう言う人の気持ちが非常によくわかります。
絵画を描くように書く。とすればオオカミの眼だけを誇張して描きたい。それが芸術の文章です。しかしブロックエディターは基本的に「眼だけ」大きく描くことを想定していません。オオカミ全体(段落=ブロック)を大きくすることは想定していますが。オオカミ全体を等縮尺で大きくしてもなにも生じません。「眼だけ」大きいから、何かを感じるのです。
ああ。使いづらいなあ。ブロックエディター。こんな編集者(エディター)が担当で書けるか!
しかし検索エンジンこそが神であるこのデジタル社会においてブロックエディターを使用しようというのはしかたがないことなのかもしれません。神が救い上げなかったものは「なかった」ことにされてしまうのです。それがデジタル洪水の中で生きるということです。
神の意向に沿った生き方、それがブロックエディターを使用することなのでしょう。
誰しもそう思います。けれどそれは「慣れ」の問題かもしれません。
もうすこし「慣れるまで」ブロックエディターを使ってみましょう。
実は一枚の原稿用紙のような旧エディターに戻すことも可能です。 プラグイン→新規追加→「Classic Editor」を有効化
なじみの編集者と一緒に仕事がしたいよう~。
その誘惑に耐えながら、慣れるまでしばらく新しいブロックエディターを使ってみるつもりです。
慣れても、それでも旧エディターのほうが使いやすいと思ったら戻せばいいのです。