先日、アニメ『名探偵コナン』を見ていたら、怪盗キッドが『オシャレ泥棒』と同じ逃げ方をしていました。人々のあいだに紛れ込んで捜査から逃れるという逃亡方法です。
かつて感動した本、中森明夫『オシャレ泥棒』のことを私はなつかしく思いだしたのでした。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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中森明夫『オシャレ泥棒』
今となっては古びてしまっている当時は最先端のファッション用語が散りばめられているので、描写としては古くなってしまっています。アニエスベーなんかが最新のパリのファッションとして紹介されています。
それでもなおエンディングの感動はいささかも減るものではありません。
描写こそ古びてしまっていますが、私はおそるべき名作だと思っています。
どこにでもありがちの本でないことだけは確かです。
物語のあらすじを述べることについて
物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちらをご覧ください。
私は反あらすじ派です。作品のあらすじ、主題はあんがい単純なものです。要約すればたった数行で作者の言いたかった趣旨は尽きてしまいます。世の中にはたくさんの物語がありますが、主役のキャラクター、ストーリーは違っても、要約した趣旨は同じようなものだったりします。
たいていの物語は、主人公が何かを追いかけるか、何かから逃げる話しですよね? 生まれ、よろこび、苦しみ、死んでいく話のはずです。あらすじは短くすればするほど、どの物語も同じものになってしまいます。だったら何のためにたくさんの物語があるのでしょうか。
あらすじや要約した主題からは何も生まれません。観念的な言葉で語らず、血の通った物語にしたことで、作品は生命を得て、主題以上のものになるのです。
作品のあらすじを知って、それで読んだ気にならないでください。作品の命はそこにはないのです。
人間描写のおもしろさ、つまり小説力があれば、どんなあらすじだって面白く書けるし、それがなければ、どんなあらすじだってつまらない作品にしかなりません。
しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することを私はオススメしています。
作品のあらすじや主題の紹介は、そのように活用してください。
語れボタン! 最後のボタン!
可愛いには“愛がある”というカワイイがイノチだと思っていた通称ミニーが、男の子のような通称ミッキーと出会うところから物語ははじまります。
ミッキー「私たちもうカワイイだけじゃすまされないよ」
ミニー「この世にカワイイ以上のものってある?」
ミッキー「それを探しに行くのさ。もう愛だけじゃだめなんだ。カワイイを超えたもの、“愛”以上のものを探しに」
こうして二人のオシャレ泥棒の冒険ははじまったのでした。
「オタク」という言葉の生みの親
『オシャレ泥棒』は1988年の作品です。作者の中森明夫は「オタク」という言葉の生みの親だとされています。どうりで言葉のセンスが卓越しているわけです。
『オシャレ泥棒』は作品のラストの凄さとは別に、端々に散りばめられた言葉のセンスが光る作品です。
ミッキーとミニーの愛以上のモノをさがす冒険はつづきます。
カワイイを超えたモノ、愛以上のモノをさがして
「改心しちゃうワルモノってカッコワルイな。最後まで“ワル”に徹してほしいわ」
「ヒミツってすごい言葉。それは「ツ」って言い終えた時にすぼめたクチビルがキスのカタチをしているからなんだ。瞬間なカンジがする」
「キスキスと二個キスをしたら、あいだに一個「スキ」が入っていた……人には“トキメキ神経”ってのがあると思うんだ」
現代ではあらゆる事象が“ファッション”の問題を避けて通ることはできません。オシャレ泥棒は捜査当局の美意識に対して挑戦状をつきつけているのです。
どうせ読者には見えないんだから、ワシらは『見るからに古株の刑事然としたくたびれはてた格好』とか『いかにもその年頃の男特有の風采のあがらない身なり』といった“あいまいな描写”を着ておけばいいんだ。
ヌードモデルは裸を着ているんだ。消費社会では最終的に各個人が商品となるのです。渋谷の街を歩いてごらんなさい。商品を着た商品たちが商品を見て商品を食べ商品を買い商品たちどうし声を掛け合っている。
この世のすべてのカワイイを奪い取るんだよ。そうしたら、そのとき、何が残るか。たぶんカワイイを超えたモノ、愛以上のモノが見つかるハズさ。
世界中の人が向いてないって言ったって、私はこのお仕事をやめるわけにはいかないのよ
「スキッ」ってホント、コトバの凶器だなあ。
この世のすべてのシッポにクルもの! 自分の「動物の部分」に感じられるモノを私達探さなくちゃね。
スタイリストこそが、あらゆる世界で必要とされていると思うのです。
「みんな、私たちとおんなし女のコ達だよ」二人の初心者マークのおばあちゃんは、大ベテランの女のコ達の群れに取り囲まれて……
世界中の人が向いてないって言ったって、私はこのお仕事をやめるわけにはいかないのよ。その光のために自分を捧げたいと思ったら、そのコの中には神さまが宿っているんじゃないかしら。私はずっとその心のそばにいようと決心したのです。女のコたちの心に触れていることができさえすれば、あとはもうなにもいらないんです……その姿が月明かりに照らされシルエットになって浮かび上がるのが見えました。ミッキー達はそのお店からは何一つ盗らず、そっとそこから出ていきました。
警官たちはまるでカワイイを取り締まっているみたい。
世界の果ての愛以上の場所
見渡す限り一面のゴミの山だった。まるでここは世界の果てだよ。
スッポンポンの素っ裸。もうオシャレも何もあったもんじゃない。
ゴミの海に溺れたテディ・ベアはすすり泣くような声で語り始めた。
「でもいいんだ。ボクは幸せだった。ありがとう。生まれてきてよかった」
まるで『トイ・ストーリー3』(2010年)のような展開です。
モノたちの語る物語たちの墓場。ここには“カワイイ”もなければ“愛”もない。ただ“死”があるだけだ。
女のコは、ある日永久に動くことを止めて、誰もが最後にはここにやってくるんだよ。永遠に終わんないと思っていた夏休みにも、やがて最後の日がやってくるようにね。
新しいモノってすぐに古くなるよ。そして自分たち自身が古くなって、ゴミになって捨てられちゃう日が来るなんて気づきもしなかったんだ。
「……こわい」
そのコワイはカワイイと聞こえた。
ないからこそ信じるんだ。それはもはや“愛を超えた愛”だ
命がけのことってあるよ。それは、生きること!
生きるってことは命がけの飛躍の連続さ。私たちは誰もが常に断崖絶壁の突端で目隠しをしてダンスしてる。
この地上に永遠の生命を持つ者がいるとすれば、その目から見れば、私たちの一生はまるで一瞬のきらめきにすぎないかもしれない。
まるで、『ドラゴンクエスト・ダイの大冒険』(1996年)のポップのような名ゼリフをミッキーは吐くのです。
真のたたかいとは負けるとわかっていながらもなお、そのたたかいを戦い抜くことなんだ。
決して勝てぬたたかい、真のたたかいを戦うために、人は愛という武器を発明したんじゃないのかな。愛なんてないのさ。もともとなかったのさ。言葉があるからあるように思っていただけさ。でも、ないものを信じるんだ。戦うためにね。
ないからこそ信じるんだ。それはもはや“愛を超えた愛”だ。
地獄の果てまで私を連れ去るがいい。そこは恐らくは永遠の無だ。
瞬間さ、この瞬間だけが生きているんだ。神さまなんていらない。私は神様に背を向けて、この瞬間を抱きしめていよう。
私たちはもう一度、最後の戦いに出発しなくては……。カワイイを超えたもの、世界のあらゆる“凛々”なるモノを探しにいかなくては。
本当の最終章 すべて少女に帰るまで
少女たち——
なぜ目覚めなかったのか?
目覚めるチャンスはいくらでもあったのに。
目覚めなさい! 目覚めなさい、少女達!
世界をつくっているのは言葉なんです。言葉こそ世界であり、言葉を支配したものこそが世界を支配するのです。言葉のスタイリング、つまりは文体です。
なにしろ彼女たちが盗んだもっとも大きなものは僕の心だったんだ、だから僕は……
とフィリックス警部は『ルパン三世カリオストロの城』(1979年)みたいなことを言います。
そして問題のラストシーンです。
「それはそれはすごい数の女の子たちの集団でした。まるでこの世のすべての女のコ達が集まったかのようでした。
女のコたちは救助したミッキーとミニーを「わっ」と取り囲むと、あっという間に二人を自分たちの集団に紛れ込まれてしまいました。
二人は完全に女の子たちの集団に交じりあってしまいました。いや、女のコ達の中へ「帰っていった」といったほうが正確かもしれません」
「オシャレ泥棒をつかまえようと思ったら、この世のすべての女のコ達を逮捕しなければならないだろう」
中森明夫は「僕は君達が好きだ」と書いて『オシャレ泥棒』を終わらせています。村上春樹『風の歌を聴け』(1979年)の叫びのようですね。
「僕は・君たちが・好きだ」
目覚めた女のコたちがオシャレ泥棒を気持ちをひとつにして助けてくれた
これが私が感動した名作『オシャレ泥棒』のおおまかなストーリーです。
『名探偵コナン』で人々に紛れ込む怪盗キッドですが、もしかしたら『オシャレ泥棒』の真似をしたのかもしれない思いました。
なんでも「推理のトリック」に著作権はないそうです。トリックは他の作品から取り放題なのだそうです。だったらオシャレ泥棒から取っていても不思議はありません。
バットマン映画の『ジョーカー』(2019年)にも、ジョーカーがピエロの格好をした大衆の中に紛れ込んで追手の警察から逃れるというシーンがありました。
もしかしたら犯人が人々のあいだに紛れてわからなくなってしまうというネタは、中森明夫『オシャレ泥棒』が元祖ではないかもしれませんね。
わたしが知らないだけで、もしかしたら、有名な原典があるのかもしれない。案外『聖書』が元ネタだったりして。ありそうじゃない? 迫害された使徒が信徒の中にまぎれて消えた、とか。
でもここでよく考えてください。
『名探偵コナン』よりも『オシャレ泥棒』や『ジョーカー』の方がすぐれているのは、大衆がみずから彼らの格好をしているという点です。
怪盗キッドは見物人のあいだに逃げ去っただけですが、ジョーカーやミッキーは、彼らの格好を真似た人々のあいだに紛れ込んだのです。コスプレされるほど大衆から支持されているということです。
さらに『ジョーカー』よりも『オシャレ泥棒』がすぐれているのは、『ジョーカー』はコスプレイヤーに自分から紛れ込んだだけでしたが、ミッキーとミニーは隠れたのではなく、女のコたちが自発的に彼女たちを助けて隠してくれたのでした。
自分たちのキモチを表現してくれるヒロインとして、同世代の女のコたちが、ひとりひとりが集まって、気持ちをひとつに、オシャレ泥棒を守ってくれたのです。
今、読み返しても、おそるべき名作だと思います。
未読の方は、どうぞ読んでみてください。力いっぱいオススメします。
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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
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