「生きている歓び」は肉体を使うことでしか感じられない
とあるビルディングの7階で働いている。私はエレベーターは使わない。マラソンランナーであるため、脚には自信がある。
仕事中にはなるべく自分の体を使うことにしている。およそ「生きている歓び」というものは肉体を使うことでしか感じられないと思っている。事務仕事に生き甲斐が無いのは、汗水たらして肉体を酷使する歓びからほど遠いところに存在しているからだと思っている。
体を使おうじゃないか。生きる歓びを感じるためにも!
オフィス・ジムではエレベーターではなく階段を使う
世の中にはお金を払ってスポーツジムで体を使う人もいる。それを思えば、労働の中で体を使う場面があることはありがたいことだ。それはまるでスポーツジムに通っているのと同じことではないか。しかもお金を払わずに貰って!
これをオフィス・ジムと命名しよう。
仕事中にスポーツジムにいるかのように体をつかうとすれば、一番いいのはエレベーターを使わずに階段を利用することである。
疲労したのは肉体か、それとも精神か
とある日、このようなことがあった。わがオフィス・ジムの一階に書類を届ける用事があったので、喜び勇んで階段で1階まで行って書類を届けて7階の自席まで戻った。ところが戻ってすぐに書類に不備があることがわかり、やり直しのために「引き取りに来てくれ」という電話があったのだ。
いつものように階段で往復して不備書類を引き取った。これで往復二回、連続で28段分の階段を昇り降りしたことになる。すると何だがどっと疲れた。ものすごく疲れた。
どうしてこんなに疲れたのか、その理由を考えた。
体力がないせいではない。私は南アルプス全山縦走をするような登山家である。それがたかだか7×4=28段分の階段昇降運動でどっと疲れるというのは合点がいかないことである。
私は思った。
私は疲れを感じている。しかしそれは肉体の疲労感なのか。疲れたのは肉体ではなくて精神の方ではないのか。
すべては無駄だった。その徒労感に人は耐えられない
書類を届けたのに、戻ってきた。かつて7階にあった書類は、今もまだ7階にあるままだ。
この二往復は完全に無駄だったことになる。仕事はすこしも進んでいない。
やったことは完全に無意味だったわけである。その徒労感に、私は疲労してしまったのではないだろうか。何よりも肉体ではなく精神が。
人間は徒労感に弱いものだ。賽の河原の赤子の苦しみ。小石を積み上げては鬼に崩され、また積み重ねては鬼に崩される。陰湿ないじめみたいだ。大人のおれでも泣きたくなる。邪魔すんなよ、すこしも積み上がらないじゃないか。
人間は徒労感に耐えられない。
アウシュビッツだかシベリア強制収容所だかには、午前中に穴を掘らせ、午後に穴を元通りに埋めさせるという拷問があったという。何も積みあがらない徒労感。無意味さ。
この刑罰・拷問を考えた人は、人は徒労感に堪えられないことをよく知っていた人だ。こんなことを他人に毎日強制されたら、ひょっとしたら自殺したくなるかもしれない。
同じコースを地球一周以上走れたのは、徒労と思わなかったから
地球一周以上走っている。マラソンを走ったら私は全盛期の間寛平よりも速い。
間寛平が凄いのは本当に地球一周しちゃったからである。私はいつも同じところを走っている。私が達成したのは地球一周以上という距離だけである。比叡山の千日回峰行者よりもはるかに長い距離を走ってきた。
血尿がでるほど練習したって世界記録を更新できるわけじゃないってことははじめからわかっていた。それにも関わらずどうして地球一周以上走ることができたのか。
私がそれを徒労とは思っていなかったからだ。
サブスリーという関門突破ゲームをクリアしたかったし、グランドスラムという大ボスを倒してゲームをクリアしたかった。マラソンの自己ベストタイムを毎年更新していたし、自分の限界を見極めたかった。
何よりも走ると脳内モルヒネがドバっと出て気持ちがよかった。痩せて体調がよくなったし、執筆や読書とランニングは相性がよかった。走ることそのものにご褒美があった。だから日々同じ時間に同じコースを走り続けることができたのである。いつかは飛ぶように走れるんじゃないかと夢見た。この先に何かがあると信じていた。同じことの繰り返しだったが、徒労と感じていなかったのである。
ひるがえって地球一周するほどの健脚ランナーが、どうして往復28階分の階段で疲労感をおぼえるのか。それはすべてが無駄だったという徒労感に他ならない。
『シーシュポスの神話』まだおれにはやることがある
ノーベル文学賞作家アルベール・カミュの短編『シーシュポスの神話』をご存知だろうか。シーシュポスの神話というのはギリシア神話のエピソードのひとつで、神を欺いたシーシュポスは罰として巨岩を山頂に押し上げるという罪を受けることになった。新田次郎『強力伝』のように一度山頂に運んで終了ならばたいした罰ではないが、この罰の恐ろしいところは山頂に押し上げた大岩はすぐに元の場所に転落してしまい、シーシュポスは再び同じ行為を永遠に繰り返さなければならないというところにある。無意味さ、徒労感こそが神の罰の正体なのだ。
カミュの短編が評価を受けているのは、このシーシュポスの神話エピソードに彼独自の意味付けをしたことによる。「さすがは神の罰。無意味さ、徒労感に耐えられそうもない」と考えるのが普通の人間であるがカミュのシーシュポスはこの無意味さ、徒労は生きることそのものも同じではないかと見た。
そしてその徒労の行為に満足感をおぼえる。人生を肯定するわけである。カミュのシーシュポスは谷底に転落していく大岩を汗をぬぐいながら眺めてニヤリと笑ったであろう。これでよし。まだおれにはやることがある、と。
そのコペルニクス的な発想の転換がノーベル文学賞級だったわけである。
強く、おのれの運命に立ち向かう。それはシーシュポスだけでなく、おれたちすべての人間のさだめなのだ。