ヨーロッパ人は貿易と布教をワンセットで考えていた
日本にいると疑問に浮かばないことであっても、旅をすると不思議に思うことがある。
マレーシア旅行ではふたつ疑問に思ったことがある。
①ボルネオ島の石油は大日本帝国海軍の軍艦に役に立たなかったのか?
②400年もマレーシアを支配していたキリスト教国家は、なぜイスラム教をキリスト教に改宗させなかったのか?
今回は、②を考えたい。
この疑問はマレーシアのマラッカを訪問した時に強く感じたことだった。
私たち日本人が社会科の教科書で習ったことは、簡潔に言うとこういうことだった。
戦国時代にヨーロッパの白人が日本にやってきてキリスト教を伝えて、貿易が始まった。
黒船さえないこの時代、極東の島に舟を出すということは命がけだった。
船は座礁し、暴風雨にマストは折れ、潮に流されて遭難した。
当時の船乗りがGPSを知ったら、神の御業に思えたことであろう。
ちなみに1543年の鉄砲伝来は遭難船による偶然であったが、1549年のフランシスコ・ザビエルによるキリスト教伝来は宣教師の信念による必然であった。
国王と教会の利益は一致していた。西欧キリスト教国家としては、貿易もしたいが、キリスト教もひろめたかった。キリスト教に改宗させることが功徳となるため、信じる正しい教えを伝道するため、その使命感で宣教師は命を投げ出すことができた。そのようにして宣教師は海に出たのである。
国家の目的と一致した個人は「支援」してもらえる。フランシスコ・ザビエルに海外布教を依頼したのはポルトガル王である。
キリスト教化しつつ、その後、ゆるやかに植民地化されることを豊臣秀吉も徳川幕府も恐れていた。宣教師は侵略の先兵であったのだ。キリシタンが一向一揆のような抵抗勢力となりバックにスペイン王やポルトガル王がついたら日本に勝ち目はない。
だから1587伴天連追放令によってキリスト教が禁止され、日本はキリスト教国にはならなかった。ならなかったばかりか鎖国体制をとって貿易そのものが制限されてしまった。
マレーシアをイスラム教からキリスト教に改宗させなかったのは何故か?
マレーシアを植民地支配していたヨーロッパの国々が、マレー人をイスラム教からキリスト教に改宗させなかったのは何故なのか?
この疑問を最初に抱いたのはマラッカを訪問した時のことである。
黒船(蒸気船)さえなかった時代に船出するということは、命を失う危険のあることであり、航路は陸沿いに沿岸航海することがほとんどだった。陸地という目印がないと航海できなかったのだ。
海路の拠点となる条件を備えたマラッカは、多くの人が行きかう交通結節点となり、貿易の拠点となる。イスラム商人との交易があり、彼らの宗教が入ってきて、その関係性の中で、1414年にイスラム化した。マレー人の国の国教がイスラム教になっただけで、アラブ人の国が立ったわけではない。
イスラム教は砂漠の宗教のような気がするが、熱帯雨林の東南アジアがイスラム化しているのは、こういう理由である。イスラム教徒数を国別でみると実はインドネシア人のイスラム教徒が一番多いのだ。
しかしその後、ヨーロッパ人の大航海・植民地主義により、マラッカは1511年ポルトガル領になった。植民地となり1641年にオランダに奪われるまで130年続いている。オランダ領は1824年イギリス領になるまで183年続いているのだ。イギリス領は1941年に日本軍に駆逐されるまで117年も続いているのだ。合計430年である。
えっ? 長っ!!
ヨーロッパ人の支配が430年も続いているのに、なぜマレーシアはキリスト教国じゃなくてイスラム教国なのだろう?
ポルトガルも、オランダも、イギリスも、ざっくりいうとキリスト教圏の国である。すくなくともイスラム圏ではない。
キリスト教の国が430年も続けてマレーシアを支配しているのに、キリスト教が国教となっていない。これはとてつもなく不思議なことではないだろうか?
誰も疑問に思わないのだろうか? 解説する日本語サイトが見当たらない不思議
なぜヨーロッパ人はマレー人をイスラム教徒からキリスト教徒に改宗させなかったのだろうか?
その理由が知りたくてググってみたが、明快な回答を得られなかった。
なぜそのことを前面に押し出して解説する日本語のサイトがないのだろう。日本人は誰もこのことを疑問に思わないのだろうか?
小西行長や蒲生氏郷や黒田官兵衛がキリシタン大名になったのは、1549年にフランシスコ・ザビエルがマラッカから中国を経由して命がけで日本に渡来し、布教したからである。大名たちがキリスト教の信者になったのは、海外の知識を得られ、貿易面でも優遇されるメリットがあったためだと言われている。やはり布教と貿易はワンセットであったのだ。
フランシスコ・ザビエルはもちろんマラッカでも布教している。日本では仏教からキリスト教に改宗させる活動をしているのだ。当然、マラッカではイスラム教からキリスト教に改宗させる活動をしたはずである。
なのになぜ国教がイスラム教なのだろう。ザビエルは布教に失敗したのだろうか?
そうかもしれない。しかし日本とマラッカでは決定的に状況が違うところがある。
たしかに日本では諸々の事情があって最終的に布教には失敗した。しかし失敗した最大の原因は為政者のトップ(豊臣秀吉)がキリスト教を信じていなかったからだ。一言でいえば、そうなる。
しかしマラッカの為政者のトップ(ポルトガル人の総督)はキリスト教を信じていたはずだ。マレー人のキリスト教化は彼の最重要の仕事のひとつだったはずだ。なのに、なぜ?
そういう時代が400年も続いているのに、なんでキリスト教が根付かず、イスラム教が国教となるほど残ったのか? それが私には謎なのだ。
1941-1945年に日本軍がイギリスを打ち破ってマラッカを実行支配した時代だって、神道に改宗させたという話しは聞いたことがないが、すくなからず国家神道の宗教観の下で支配が行われた。東洋人は白人には従うしかないという神話を打ち破ったことは一種の布教ではなかったか。
政治というのはそれほどに凄い力を持っているのだ。
私の仮説。そもそも布教をしなかったのではないか
なぜポルトガル、オランダ、イギリス人はマレー人のイスラム教徒をキリスト教徒に改宗できなかったのか?
私の疑問を解説をしてくれるサイトがないばかりか、疑問を呈するサイトさえ見つからない状況のため、自ら仮説を立てるしかなかった。(私は日本語しか読めないので日本語のサイトに限定。当然マレー語のサイトにはこのことを解説したサイトがたくさんあるはずである)
その仮説をここに公表しようと思う。同じ疑問をもった人だけ楽しんで読んでくださればけっこう。
日本で仏教がひろがったのは、聖徳太子と蘇我氏が物部氏を破って仏教を認め、聖武天皇や朝廷が仏教を公認したためである。布教を後押ししたのは政治なのだ。
キリスト教が世界宗教になったのは、ローマ皇帝がキリスト教を国教として公認したためである。
政治なのだ。
日本でキリスト教がひろがらなかったのは、豊臣や徳川の政治がキリスト教を民衆支配の邪魔な教えと考えたためである。民衆も為政者も同じ宗教を信じていた方が都合がいいに決まっている。秀吉も家康も積極的に神社仏閣に寄進している。
しかしマラッカでは民衆と為政者は異教徒どうしであった。本来なら民衆をキリスト教に改宗させる政治を行ったはずだ。しかし政治が改宗に実績・痕跡を残せなかったは、本気でやる気がなかったからではないかと考えるしかない。
政治には改宗させる力がないという「島原の乱」的な発想をする人がいるかもしれないが、私はそうは思わない。江戸時代には国家としてはもうキリシタンは存在しないに等しいほど少数派になってしまっているではないか。どの宗教を信じるかということは、ほとんど政治なのだ。
1492年にキリスト教徒としてはじめてクリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を「発見」している。ちなみにクリストファーというのは「キリストを運ぶもの」という意味であり「Theキリスト教徒」であることを意味している。
しかし彼の航海はほぼ「布教」ではなく「利益主義」によって成し遂げられた。
膨大な航海費用はスペインの王室の援助によって賄われた。国家の目的と一致した個人は「支援」してもらえる。しかし王とコロンブス両者が望んでいたのは「実利」だけだった。スペイン王室とコロンブスが結んだ契約の内容が今に伝わっているが、両者の「実利」のことしか書いていない。キリスト教の布教のことは何も書いてないのである。これはちょっと不思議なことではあるまいか。
ここからが私の仮説であるが、マラッカからザビエルが命がけで日本に布教に来た1549年。もうこのころにはキリスト教への盲信「キリスト教がすべて」という時代は終わっていたのかもしれない。
科学の時代がやってきていたからだ。
ルネッサンスの代表選手、レオナルドダヴィンチは1519年に死去している。ダビンチは科学の人だった。
1543年コペルニクスの地動説が発表されたことで聖書の神話には鉄槌が加えられた。神と人間が宇宙の中心という物語に疑問が生じたからだ。
「聖書には真実だけが書いてある」ということが崩れると「聖書を信仰することの正しさ」にも崩れが生じる。
1545にザビエルがマラッカで布教した頃、マラッカはキリスト教国であるポルトガルが支配していたが、総督が開明派であった場合、「実利」のみとって、政治に宗教を絡ませなかった可能性がある。
改宗を強要して地元民ともめることは「実利」にとって不利益なことだってある。
改宗の布教活動をしたフランシスコ・ザビエルに、マラッカ総督は黙認するのみで、政治として協力はしなかったのだろう。キリスト教化政策はとらなかったということだ。もしかするとマラッカ総督は熱心なキリスト教徒ではなかったのかもしれない。
そうでなければマレー人がイスラム教徒であることの不思議が説明できない。
その後のオランダ、イギリスの430年の長きにわたる支配のあいだ中ずっとキリスト教化政策はとられなかった。時代を経るごとに宗教への信仰は、科学への信仰に取って代わられていったからだ。
キリスト教化政策をとらなかった。
あくまでもこれは私の仮説である。先に述べた通り、このことを明確に説明している日本語サイトが存在しないからだ。
科学の時代に信仰がゆるぎ、宗教よりも実利の時代が来た
宗教改革というもうひとつの要素も見逃せない。
「カトリックなんて信じられない」と免罪符にプロテストしたマルティン・ルターが教会を破門になったのが、1521年のことである。
この頃には「キリスト教への完全なる帰依」は、失われつつあったと見た方が良さそうだ。破門されたルターの意見に同調する者たちがたくさんいたからである。ルターはかくまわれ、生き延びた。100年前なら拷問されて処刑されていたはずである。
しかし「聖書に書かれていないことは認めることができない」という言葉が残っているほどルターは徹底的にキリスト教徒であった。
この時代は中世さながらにキリスト教を信仰する者(ルターやザビエル)と、中世とは違いカトリック教会を無視できる者(ルターやマラッカ総督)とが混在していたのだろう。
とくにマレーシアに進出したポルトガル、オランダ、イギリスは利益(貿易)を最優先させて、宗教のことは無視できた人たちだったのだろう。
これは意識革命といってもいいほどの出来事である。万有引力を発見した科学者アイザック・ニュートン(1643-1727)ですら、世界を6000年前に誕生したと見積もっていたのだ。聖書の登場人物の年齢を足したらそうなったからだ。それほど聖書を信じていた。ちなみに現代の科学では地球は46億歳だといわれている。
ニュートンですら信じていた教えから脱することができたとすれば、それは意識の革命である。そしてマレーシアでは実利のみ追求し、キリスト教布教・改宗のことは無視・放置することができた。人々の意識革命の結果によって。
これが私の仮説である。
太陽が敵で、夜が癒しとなる砂漠。熱帯雨林。
世界の国旗には「三日月」「星」をモチーフにした国がたくさんある。マレーシアやトルコ、シンガポールなどがそうだ。イスラムの国々である。
それに対して「太陽」をモチーフにした国の代表が我が国ニッポンである。日の丸が「昼間」を表すのならば、「三日月」や「星」は「夜」を表現している。
寒い国が太陽を愛するように、灼熱の国では月と星を愛するのだ。
灼熱の砂漠から生まれたイスラム教では、太陽は「敵」なのだ。砂漠で1日過ごしてみればそのことを実感する。肌をじりじり焼く太陽。大地を乾かし草木を枯らす太陽。過ごしにくい昼間。
人間としてほっと一息つけるのは「夜」である。過ごしやすいのは夜なのだ。
ところでそれは赤道直下の熱帯雨林の国々も同じである。
昼間よりも夜の方が活動に適している。活動するには昼間は暑すぎる。今はエアコンがあるからまだマシだが、エアコン以前は昼間の太陽は過ごしにくさを演出する憎まれっ子だったに違いない。
昼間はどこか日陰にひそんでいて、夜になると出歩くという夜派の人たちがマレーシアには数多く存在する。
イスラム教は夜と親和性がある。女性が被るヒジャブは美女のかんばせを隠す効果だけではない、日差しを避けるのに最適のアイテムだ。
月と星を愛する夜派の人々だというところに、砂漠の民と、熱帯雨林の人々には共通項がある気がしてならない。
マレーシアの国旗を見るたびに、そう思うのだ。