- 前科あり? 松本零士氏が銀河鉄道999に果たした役割とは?
- 『終着駅』作品のエンディング
- 『宇宙戦艦ヤマト』著作権問題。原作者は誰だ?
- 松本零士は『銀河鉄道999』の原作者だと言えるのか?
- 漫画原作が終了していないのに、先に映画でエンディングをばらしてしまったというアニメ優先の作品だった。
- 星野鉄郎の悲惨な旅。短編旅もののパターン。襲われ気絶するパターンがあまりにも多い
- 「旅もの」のパターン。どう現地人と関わり合いをもたせるか、が腕の見せ所
- 「これは夢なんだ」気絶して場面転換する幻想の物語。
- 少年が大人になるための履修過程みたいなものを終了していく筋書き
- 時間に正確という銀河鉄道は口だけ。脱線、時間無視、ルート無視の例外ばかり。こんな列車に乗りたくない!!
前科あり? 松本零士氏が銀河鉄道999に果たした役割とは?
たった今、松本零士さんの漫画『銀河鉄道999』を読み終わりました。なんというか……とっても不思議な気持ちがしました。映画の方が漫画よりも完成度が高いので(笑)。
私は『銀河鉄道999』を映画で見ています。映画はほんとうに素晴らしい出来でした。そういう私が、松本漫画を読むと、なぜか物足りないのです。
これは最初に出会った神さまを信仰するというやつでしょうか? いいや決してそうではありません。あきらかに映画の方がストーリーの出来がいいのです。
通常、原作に対して、映画は大衆化されるために改悪されて出来が悪くなることが多いものです。しかし『銀河鉄道999』の場合は、明らかに映画の方が出来がいいのです。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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『終着駅』作品のエンディング
漫画版『銀河鉄道999』の場合、鉄郎は最後まで機械化人か生身の体か悩んでいます。見たら欲しくなるに違いない。永遠の命。すばらしい機械の身体。限りある命。ぼくのこの体……。
しかし限りある命だから人は一生という時間の中で精いっぱい頑張る。短い時間の中で何かをやりとげようとする。という映画と同じ哲学にたどり着き、最後の星に着く前に、機械の体なんてくそくらえ! と機械の体のカタログを投げ捨てます。
(終着駅に)もうすぐ到着してしまうのだ。たくさんあると思っていた時間も……今となればつかのまの夢のようなものだった。でももうここまで来てしまったのだ。終わりは近い。
映画では活躍しない車掌さんがなごりをおしみます。「お別れの時がまいりました。またのご利用を……お別れです。鉄郎さん。さびしいです……」
鉄郎は、たじろぐことはあっても、悩むことはあっても、歯をくいしばって歩き通す強い心をもった男の子だと機械化人に認められ、機械化母性をささえる機械のネジにされてしまう、というところは映画もマンガも同じです。
いいよわかったよ。なってやるよネジの体に。メーテルは命がけで一緒に旅をしてくれたんだ。
どんな体だという約束はなにもなかったのさ。僕は夢を追ってここへ来たんだ。何も後悔してはいない。自分で行こうと思ったところへ、自分の意志で来たのだから。
メーテルと父親ドクター・バン。ネジたちの裏切りで機械化母性が滅ぶところは同じです。
映画のラストシーンでは、地球に戻っていったん銀河鉄道の旅を終えた鉄郎が、生身の体を求めて旅立つメーテルを見送るところで終わっています。
しかしマンガ版では、メーテルは機械化母星に残って、鉄郎は999で旅を続ける、というエンディングです。999に乗る前に僕はメーテルが悪魔の子でも魔女でもかまわないと誓った。ぼくにとってのメーテルはずっと僕の前にすわって旅をしたメーテルだけだ。だから……だからぼくは見たくないよ。このシーンは漫画の方がよかったな。ありがとう、鉄郎……。そしてキスして別れます。
やっぱり私は鉄郎にはいったん旅を終えて銀河鉄道を降りて欲しかったと思います。旅は続く、ではなくて。でないと、車掌さんなどが「旅の終わり」旅情をさそってきたことが無駄になります。
やっぱり私は鉄郎には泣いてメーテルを追いかけてほしかったと思います。まだ子供なんだから心の中をむきだしにしてほしかったです。漫画版では涙ひとつ流さないのです。
時系列的に先行する映画の方がすばらしいエンディングだったというのはこういうところです。
これは映画監督の功績でしょうか? それとも脚本家の功績でしょうか? とすれば『銀河鉄道999』に松本零士さん(以下、敬称略)が占める役割とは?
私はそれがとても気になりました。
『宇宙戦艦ヤマト』著作権問題。原作者は誰だ?
松本零士さんといえば『宇宙戦艦ヤマト』著作権問題の前科? があります。
この宇宙戦艦ヤマト著作権問題というのは、1974年にアニメーションとして放映されたアニメーション『宇宙戦艦ヤマト』の原作者が誰かという裁判にもなった問題です。
『宇宙戦艦ヤマト』はアニメが有名ですが、漫画版もあります。書いているのは松本零士さん。
しかし現在では『宇宙戦艦ヤマト』の原作者・原案立案者といえるような人はプロデューサーだった西崎義展さんだとされています。
ディズニーの『シンデレラ』や『鉄腕アトム』や『ワンピース』の原作が書物・漫画だからといって、すべての映画が書物(漫画)原作だとは限らないのです。アニメ・オリジナル作品(企画)というものもたくさん存在します。
『宇宙戦艦ヤマト』のアニメーションは1974年10月から1975年3月まで放映されました。それに対して漫画連載は1974年11月から1975年4月まで連載だったようです。ギリギリ、アニメが先で漫画が後なんですね。これは大問題です。原作というのは先にあるのが当たり前ですから。
松本零士さんは後日、『宇宙戦艦ヤマト』はおれの作品だ、という訴訟を起こしますが、いろいろ関係者の取材など調べられた結果、大枠では西崎プロデューサーの作品だったと確定しています。
そもそもアニメの企画として西崎原案があったものを、松本零士や豊田有恒などのブレインが肉付けして現在のイメージが固まったものだそうです。それをアニメと同時期に漫画にしたのが漫画家の松本零士だったというわけです。メディア・ミックス戦略というやつです。
松本零士さんが関係者のひとりだったことは間違いないのですが、それを「おれのオリジナル作品だ」とまで言うのは言い過ぎだというわけです。
松本零士は『銀河鉄道999』の原作者だと言えるのか?
さてそんな前科? のある松本零士さんが『銀河鉄道999』の原作者だと本当に言えるのでしょうか? まさか『宇宙戦艦ヤマト』と同じパターンなのでは?
まずは『銀河鉄道999』の映画と漫画の時系列を調べてみましょう。
漫画『銀河鉄道999』は1977年から1981年9月にかけて連載されました。それに対してテレビアニメは1978年9月から1981年3月にかけて放映されました。『宇宙戦艦ヤマト』と決定的に違うのは『銀河鉄道999』は漫画作品の方が先にあるということですね。
次に映画を調べてみましょう。映画はほんとうに名作でした。見ていない人は(とくに男性は)必見です。
映画『銀河鉄道999』が1979年8月に公開。ゴダイゴの主題歌が有名なやつです。そして映画『さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅』は1981年8月公開です。松本さんは企画・原作・構成という名目で映画製作に携わっています。
こう見てみると『銀河鉄道999』の方は、松本零士さん原作ということで間違いないようですね。
漫画原作が終了していないのに、先に映画でエンディングをばらしてしまったというアニメ優先の作品だった。
漫画原作の終わり方は、映画『銀河鉄道999』(最初の方)とだいたい同じです。時系列でいうと映画の方が先に「同じエンディング」をむかえているということです。これは画期的なことだったのではないでしょうか?
『ワンピース』でいえば、まだ原作漫画が終了していないのに、映画が先に大秘宝ワンピースの謎と冒険のエンディングを公開してしまうということですから。
これは原作者の松本零士さんが「今後の展開」「謎の答え」「伏線回収の腹案」を映画関係者に話して、その通りに映画を製作したからだと考えられます。だから映画と漫画のエンディングが似通ったというか、もともと同じイメージのものだったということでしょう。
でも……映画の方が終わり方が圧倒的にすてきなんですよ。この功績は松本零士さんではなく、脚本家や監督のものではないでしょうかねえ?
去っていくメーテルに泣きながら駆けだしてすがる鉄郎……あの切ないシーンが漫画版にはまったく存在しないのです。漫画版の方はいいシーンを省略しすぎ……という気がします。
漫画の方が時系列的に後なんだから、話しを盛って映画以上にできなかったのかな? せめて映画のエンディングをそのまま踏襲すればよかったのに……と思ってしまうのです。漫画の原作の最終話が書かれたのは「さよなら銀河鉄道999」のエンディングよりも後なんですよ!!
そうしなかったのは、松本さんのセンスに映画のエンディングは合わなかったということなんでしょう。自分のセンスで漫画のエンディングをつくれてしまうのも、彼が原作者だからということに他ならないということです。
手塚治虫さんもアニメにこだわったことで有名ですが、松本零士さんも漫画よりもむしろアニメにこだわった人なのかもしれませんね。アニメがやりたいから漫画家になった、という人はときどきいますから。
星野鉄郎の悲惨な旅。短編旅もののパターン。襲われ気絶するパターンがあまりにも多い
漫画『銀河鉄道999』のエンディングが、最初に見た映画の方がよかったので、松本零士さんの実力を疑うようなまねをしてしまいましたが、彼がいなければ『銀河鉄道999』は存在しなかったのだということがわかりました。
さて『銀河鉄道999』といえば、旅ものの一話完結ストーリーです。この松本漫画を見ているうちにこれは『水戸黄門』だなあ、と思いました。なんとなくストーリーがパターン化できるのです。
どういうことが見ていきましょう。
「旅もの」のパターン。どう現地人と関わり合いをもたせるか、が腕の見せ所
銀河超特急999が、新しい星に到着する。興味を引く何かがあり「降りてみよう」となる。そして事件に巻き込まれるのがパターンです。そしてたいていメーテルと鉄郎は離れ離れになります。メーテルがお風呂に入っているあいだに好奇心や空腹などで鉄郎がお出かけします。鉄郎がトラブルメーカー役です。
『銀河鉄道999』は「旅もの」です。しかし「変わった星にたどり着きました」というだけではエクスペディアの観光案内になってしまいます。現地の人と関わり合いにならないかぎりは物語とはいえません。
その現地人との関わり方にも「パターン」が存在します。
二人が冒険・散策をしている最中に、異星人が絡んできます。因縁をつけてきたり、頼みごとをしてきたり、泥棒に遭ったり、テロに遭ったり、処刑されそうになったり、失言していきなり殴られたりします。
ほとんどヤンキーに絡まれるかのようです。
銀河鉄道の乗客は有名らしく、向こうはこっちを知っていてご招待を受けるパターン。異星人側からホテルに誰かが忍び込んでくるパターンもあります。
お金持ちの旅行者とうらやましがられて、強制的にトラブルに巻き込まれます。物売りに絡まれるパターン。人身御供にされたり、食人習慣に遭ったりします。向こうから話しかけられることが多いのが特徴です。銀河鉄道に乗りたい人、お金がほしい人、腹が減っている人が話しかけてきます。
鉄郎の生身の体を欲しがるパターンも多いです。事件に巻き込まれている人を助けてそこから冒険がはじまったりします。けっこうな確率で強盗に遭うのが特徴です。
治安維持法違反で現地の官憲に逮捕されたり、政府と人民の戦いに巻き込まれたり、その星でやらなければならないことがあったり、とにかくトラブルに巻き込まれます。
ふつうは「旅」をしているとトラブルというのは「例外」なのですが、『銀河鉄道999』の場合は、例外集のように例外のトラブルばかりが描かれます。鉄郎が何とか解決しようと頑張ります、メーテルがそれに協力します。
「これは夢なんだ」気絶して場面転換する幻想の物語。
このようにトラブルに巻き込まれる鉄郎(とメーテル)ですが、気絶しているあいだにすっかり別環境に放り込まれているパターンがとても目につきます。
よく気絶してその間に勝手に話が進んでいるパターンは非常に多いのですが、漫画連載のページ数の制限というよりは、作劇術だと思います。
気絶しているあいだにメーテルが問題を解決してくれていたり、鉄郎のやさしい心が認められて現地人の協力でトラブルが無事に解決していたりします。
気絶する直前に撃たれても未来の医療で治療されて現状復旧しています。
何も知らない鉄郎がトラブルに巻き込まれ、なんでも知ってるメーテルが星の不思議な生態の解説者というわけです。
少年が大人になるための履修過程みたいなものを終了していく筋書き
事件から鉄郎は何かを教えられて成長します。人の価値観の違いとか、勇気など人生における大切なものとか、永遠の命と限りある命についての哲学とか。
少年が大人になるための履修過程みたいなものを終了していく筋書きです。
異星人を眺めているだけで学ぶというパターンもあります。バカな人たちから学び、立派な人たちからも学びます。
時間に正確という銀河鉄道は口だけ。脱線、時間無視、ルート無視の例外ばかり。こんな列車に乗りたくない!!
発車時間に遅れると置いていかれてしまうことから、『銀河鉄道』は時間に厳格だというイメージがありました。
しかし銀河鉄道の時間に厳格なルールというのは、原作漫画では、ほとんど守られていません。車掌さんが「口で」ルール厳守というだけで、実際には999は脱線したり、脅迫されたり、強襲されたりします。まったくろくな電車じゃありません。
出発時間は無視しますし、いったん出発したのに思い直して戻ってきたり、例外的に鉄郎を待ったり、正規のルートを変更したり、無視したりします。バラバラにされたのに異星人の好意で現状復旧してもらったり、こんな電車で旅したくねえよ(笑)。
このように漫画原作では例外の事件ばかりが描かれます。物語っていうのはこういうものなんですね。例外集、トラブル集といったほうがいいでしょう。例外を描くのが物語なのです。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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