手術の前に、ワイロのように医者に金を渡すシーンを映画やドラマなどでよく見かける。
こういう正規の診療費以外に医者に渡すお金のことを医者への「袖の下」「心づけ」とか呼んだりする。
これは普通のことなのだろうか。そうするのが常識なのだろうか。
それを検証してみたい。
医者への謝礼、袖の下、心づけは正しいことか?
ウチの父が手術を受けることになった。大動脈弁置換術という大手術である。
その際、ウチの老親がドラマで見たような謝礼を渡そうとしているのを、患者の長男の立場で見てしまってちょっと驚いた。複雑な感情が沸き起こった。
実際のところ、手術の内容を知れば知るほど、担当医師に謝礼を渡そうという老親の気持ちはわからないでもない。いや、よくわかる。
まず命の危険がある大手術だということだ。いったん心臓を止めて、手術後に蘇生させようというのだから。
患者側としては「最善を尽くしてお願いしたい」ところである。
どうか、どうかと手をすり合わせて、神にもすがる気持ちだ。
謝礼なんてあたりまえ、という気にもなる。それが人間だ。神仏の前にお供え物をするのと同じである。
会社の上司に贈る、お歳暮、お中元みたいなものだ。感覚的には会社の上司よりももっともっとお世話になるのだ。なにせ本当に命をあずけるのだから。
会社の上司にお歳暮を贈るのに、どうしてお医者様にお歳暮を贈らないということがあろうか。
5時間以上にわたる命の大手術である。普通の人の生涯の中で一度もこれほどの大事業を成し遂げることはないかもしれないほどのことを「やっていただく」のだ。
その大事業に患者が払う費用は約6万円ぽっちだそうだ。もちろん健康保険のおかげなのだが。
「私の命の価値は6万円ぽっちじゃありません」と大声で主張したくもなる。
これがアメリカなど自費医療費の国だったら、手術費何百万円もかかるだろう。
老親の気持ちはわかる。しかし…とバックパッカーの長男は思うのであった。
二重価格を容認しないバックパッカースタイル
私はバックパッカーとして諸国を旅してきた。発展途上国には外国人価格というものがあって、市場でもタクシーでも外国人だと見れば「ボッタクリ」をしてくる。
日本は物価が高いため、ぼったくられても日本の相場よりは安い。だから相手の言いなりにそのまま支払ってしまう旅人がいるが、私は基本的に現地の人と同じ価格で払うことを原則にしていた。
ボッタクリを容認しなかった。金持ちだから高額で、貧乏人には低額で、という二重価格を容認しなかった。
それを容認すると、いい商品は外国人に、不良品は国内人にという流れをまず作ることになる。
いかに貧乏バックパッカーとはいえ、カンボジアの貧民から見ればお金持ちには違いない。
ある商品があって私が商人だったら、外人に高く買ってもらいたい。これまで同様の安い価格で同国人に売りたくない。やむをえず同邦人に売るとしても、すこしでも外国人価格に近付けようとするだろう。
みんながみんなそうやったらどうなるのか?
このように旅人が二重価格を容認すると、現地の価格を吊り上げることになる。
小さなことに思えるかもしれないが、最終的には「外国人は上客、自国民は下客」「お金を持っている人だけが歓迎される人」という哲学に行きつく。
彼らの生き方のスタイルを変えてしまう。ひらたくいうと悪の手助けをすることになるのだ。
そう思ってボッタクリを容認しない旅をしてきた。
そのことを老親が医者に心づけを渡そうとしている姿を見て思い出してしまったのだ。
医者への袖の下の習慣はいまだに残っているのだろうか?
心づけを渡したい気持ちはわかるが、そもそも執刀医がそれを受け取るだろうか。
手術前の説明に、前夜を過ごす病室で、執刀医から明日の術式の説明があった。
そこに長男である私が呼ばれた。執刀医の説明は堂々としたものであり、こちらの不安を消してくれるものであった。
もし心づけを渡すのであれば、命が助かってから神仏に祈る人がいないように(喉元過ぎれば熱さを忘れる)手術の前の今がタイミングである。
しかし執刀医がもし心づけを受け取るつもりがあるならば、モノカキの長男なんて病室に呼んだりしないはずだ。老親だけと話した方が都合がいいはずである。振り込め詐欺の手法と同じことだ。老親だけを相手にするはず。
それをあえて息子を呼ぶということは、袖の下を受け取る気なんかないということではないか?
しかもそこに大学病院の研修生が同席した。もちろん研修医の勉強のためだが、袖の下を人前で受け取る者はいないのだから、病院側としても心づけを受け取る習慣とはきっぱりと決別しているということではないのか。
医者の堕落に手を貸すことにならないか?
さらにいれば袖の下を渡すことは、医者の堕落に手を貸すことにならないのか?
医者に受け取る気はなくても、自分よりもはるかに年長の人生の先輩(患者)からポケットの中にぐいぐい封筒を押し込まれたら後輩として拒絶できない場合もあるだろう。
しかしそういうことを続けると人間は確実に堕落する。
「なんだ、この患者は袖の下ナシか」
と心の奥底でガッカリするようになり、彼の堕落がはじまる。
そしていつか「謝礼ですか? 他の患者はフツーは払いますよ」と臆面もなく患者の前で言うことができるようになるのだ。
発展途上国のタクシー運転手もそういう経路をたどってボッタクリタクシーになるのである。
ちょっと吹っ掛けたらその通りに払うお金持ちの外国人がいて、それに味を占めて、やがてボッタクリが習慣になるのだ。
余計に払うやつがいるから、価格が吊り上がるのだ。
貧乏人に対して不利益を与えることにならないか?
さらにいえば袖の下を渡すことは、貧乏人に対して不利益を与えることにはならないだろうか。
旅人が二重価格を容認して現地価格を吊り上げることは、あきらかに現地住民に不利益を与える。
心づけとして現金をもらった患者にも、何ももらっていない患者にも、等しく全力を尽くして治療にあたるとしたら、受け取った現金の意味は何だろう。
そういうことを医者は考えないであろうか。
現ナマをポケットに突っ込んだ患者の必死な思いに、医者はどうやって応えればいいのだろう?
自己ベストの治療水準が変わらない以上、お金をもらった分の差をつけるためには、心づけのない人への治療水準を落とすしか方法がないのではないだろうか?
ブログで言えば「無料の方はここまでしか読めません、これ以上の記事が読みたい人は有料サイトへ登録してください」というようなものだ。朝日新聞デジタルなどがこの手法でやっている。記事のベスト水準が変わらない以上、有料と無料の差をつけるには、無料記事の質を落とすしか方法はない。
医者は聖者ではない。医者になるために奨学金や借金など莫大な学費を払って人生の収支をマイナスからスタートした人たちだ。たくさんお金を稼いで、膨大な学費を支払い、それからやっと人生の収支がプラスになる人たちだ。
心づけのない人の治療に手を抜くことにならなければいいが、そうならないとも限らないではないか。
その恐れはますます心づけの習慣を助長することになる。誰もがこぞって医者にワイロを渡すようになる。命を金で買えるかのような錯覚におちいる。
誰かがキッパリとやめなければ。
旅人全員がボッタクリを容認したら、私だってボッタクリ価格で支払わざるを得ない。対抗するすべはない。二重価格を容認しない仲間が他にもいるから闘うことができるのだ。
ウチの老親に、世の風紀を乱す側にまわっているという意識は全然ない。
命を助けてくれる人にお礼をするのは当たり前だというシンプルな感覚があるだけである。
気持ちはわかる。罪もない。ただ心に誠実なだけだ。
公立病院の医師は公務員。収賄罪、脱税に問われてもおかしくない
さらにいえば公立病院なら医師は公務員である。
袖の下を受け取ったら収賄で訴えられてもおかしくない。
医者への「袖の下」「心づけ」の習慣を考えてきたが、私立病院では許されて、公立病院では許されない習慣というのは、やっぱりおかしいのではないだろうか。同じ医者に対して失礼だと思う。
袖の下の習慣は私立病院を金まみれにすることに加担する。意識せずとも悪に加担している。
中世の教会では「免罪符」というものが売られていた。免罪符を売る方が悪いのか? いいや。買う方が悪いのである。そういうものを欲しがる庶民がいたから教会が心の弱さに付け込んだのだ。
動物の毛皮を売る方が悪いのか? 需要がなければだれもむやみに動物を殺したりはしない。やはり買う方が悪いのだ。象牙なんか買うやつが悪い。
もちろん「袖の下」は誰にも言えない裏金だから、脱税にだってなりうるはずである。脱税の罪は公立病院でも私立病院でも関係ない。
さらには心臓弁膜置換手術は大手術のため、総勢6人体制で行うという。それを執刀医(主担当)にだけ袖の下を渡すのはどうなのか。全員に渡さなければ、手術中に賄賂をもらえなかった人だけが、心を捻じ曲げてアカンことをしないとも限らないではないか。
さて、いろいろな問題があることがわかった。
二重価格を容認せず闘ってきたバックパッカーとしては「袖の下なんかやめとけ」といいたいのだが、おれだって命の大手術に対して謝礼ぐらい当然という感覚はわかる。
書いてきて手塚治虫『ブラックジャック』がむしょうに読みたくなった。このテーマは医者でもあった手塚先生が書き尽くしている。
ブラック・ジャック The Complete seventeen Volume set 全17巻 (漫画文庫・化粧箱セット) 新品価格 |
結局、命は金じゃ買えないってことなんだろう。