アランは肉体主義者。
(世界? っていうより西洋)三大幸福論のひとつ、アランの幸福論を読破しました。
この人、おれに似てるな、と思いました。コテコテの肉体主義者さんでした。
三島由紀夫が太宰治に対して「太宰のもっていた性格的欠陥は、少くともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった」といったそうですが、コレも同じですね。
アラン『幸福論』の内容、真髄、抜粋
うまく説明がつかないので苛立っている。だが現実には、幸福になる理由や不幸になる理由にたいした意味はない。すべては身体の調子にかかっている。
情念というものは、体内の運動に左右される。血液の循環や神経と脳髄をめぐる液体の流れによる。
苦しんでいる人は、前の晩だったら不幸と考えたはずの凡庸な状態を、このうえない幸福のように渇望する。
礼拝は快楽。拝跪はくせになる。
ひざまずき怒りを追い出す姿勢をとれば、必ずやすらぎが得られる。情念を生むのは身体の変化や動揺であり、したがって適切な運動や動作で癒せるのではないか。姿勢や礼儀によって気分が変わるのは奇蹟ではない。
→イスラームの礼拝のポーズを知っていますか? わたしは信者じゃありませんが、よく同じポーズで背伸びをしています。とても気持ちがいいですよ。目が覚めたら拝跪背伸びのポーズをとりたくなります。ほとんど信者?
最初の舵の取り方で航海の行方が決することはない。運命を信じ込むのはメデューサの頭を見ることだ。
夢の達成そのものよりも、夢の途中の情熱の方にこそ価値がある。
忙しくしているからこそ、幸福でいられるのである。落胆して不幸な時でさえ、その不幸によって幸福になる。なぜなら不幸を退治する方法を追い求めるからだ。こうして追い求めることが、不幸をほんとうに退治する。
人間はみずから行動したいのであって、あたえられたものを耐え忍びたいのではない。人は心の奥底で自分の力だけを愛しているのだろう。
人を座り込ませるような富は退屈なものである。人が喜びとするのはもっと多くを目指し、もっと努力したくなるような富である。休むための富ではなく、行動するための富である。
傍観者でいるよりも、行動者たれ
音楽にしても自分でやるより聴くだけの方がいいという人はまずいまい。むずかしいほどおもしろいのである。何の努力もせずにもらえるとしたら誰も金メダルなんて欲しがらないだろうし、負ける恐れがないなら誰もトランプ遊びなどしないだろう。
→わたしの著書「市民ランナーという走り方」のあとがきにこう書いたのを思い出しました。「オリンピックの選手をテレビで眺めているよりも、たかが市民ランナーであっても自分が外に出て走った方がいいのです。自分がどう生きるか、自分がどう走るか、大切なのはそこなのですから。」アランのことを「わたしに似ている」と思った、というのが理解していただけたでしょうか?
※雑誌『ランナーズ』のライターにして、市民ランナーの三冠王グランドスラムの達成者の筆者が走魂を込めた書籍『市民ランナーという走り方』(サブスリー・グランドスラム養成講座)。Amazon電子書籍版、ペーパーバック版(紙書籍)発売中。
言葉の力で速く走れるようになる、というのが本書の特徴です。走っている時の入力ワードを変えるだけで速く走れるようになります。言葉のイメージ喚起力で、フォームが効率化・最適化されて、同じトレーニング量でも速く効率的に走ることができるようになります。踵着地とフォアフット着地、ピッチ走法とストライド走法、どちらが正解か? 本書では明確に答えています。あなたはどうして走るのですか? あなたよりも速く走る人はいくらでもいるというのに。市民ランナーがなぜ走るのか、本書では一つの答えを提示しています。
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哲学は繰り返す。アランがはじめて言ったわけではない。
われわれが耐えなければならないのは現在だけである。過去も未来もわれわれを苦しめることはできない。なぜなら過去はもはや存在せず、未来はいまだ存在しないからだ。
似たような哲学の言葉があります。「死をなぜおそれるのか? あなたが生きているあいだ死は存在せず、あなたが死ぬやいなや何も感じなくなるというのに」
古代ギリシア哲学者の言葉です。このように哲学というのは繰り返すのです。西洋三大幸福論だからってアランがはじめて言ったわけではありません。似たようなものに、
幸福だから笑うのではない。笑うから幸福なのだ。
という文章がありました。これもよく聞く言葉ですね。文章となったものをアランの幸福論ではじめて読みましたが、おそらくこれもアランがはじめて言った言葉ではないと思います。紀元前のギリシア哲学者が同じようなことを言っているのだろうと思います。それが哲学というものです。
幸福論をいくら読んでも幸せになれるわけではない
怒りは筋肉が収縮した状態なのだから、運動や音楽がきく。これに対してどんな立派な理論も怒りの爆発には役に立たない。
戦争は熱狂や興奮に起因する。
実際に行動することの利点は、選ばなかった選択肢は忘れられることである。
礼儀とは外見の幸福にほからなず、それに周りが感応する。愚痴をこぼさない。
自分の不幸を絶対に人に言わないこと。なぜなら悲しみは毒のようなものだからだ。
悲観主義は気分に、楽観主義は意志による。ともかくも幸福になることを誓わなければいけない。
わたしの幸福論。不幸の中にも燃えるような幸福がある。
アランの『幸福論』は難しい哲学書ではありません。スラスラと読めます。でも読んで面白いかといったら別の話しです。幸福論を読んだからって幸福になれるわけではありません。
どちらかといえばわたしは『マノン・レスコー』のように、悲劇な不幸に突っ走る物語をおののきながら読んだときの方が、自分の幸福を感じることがあります。不幸なマノンやグリューに上から目線で同情し自分の幸福を噛みしめているわけではなく、彼らはきっと幸福な気持ちを瞬間燃えるように感じて生きたんだろうなあと感じるからです。不幸の物語の中に、彼らの幸福をめいっぱい感じます。
いっけんすると不幸の中にも燃えるような幸福がある。それが私アリクラハルトの幸福論です。他の生き方を選べない。一般的に不幸のように見えても、命と引きかえにできるような価値や幸福があることもあります。そういうものを探すことが、劇的に生きるということなのでしょう。