- アーサー・ヤノフ著『プライマルスクリーム(原書からの叫び)』
- 分離症とは、悪霊が取りついているような状態
- 苦痛が強く耐えられないと、感情を押し殺し、無感覚になってしまう
- 原初の満たされぬ欲求はほかのあらゆる人間活動に優先する。神経症とは感情の病気である。
- 神経症になったのは愛を獲得するため。
- 過食症は、食べることで原初の叫びを押し戻そうとしているから
- ありのままでいられないことは、自分の一部に対して死刑宣告すること
- 両親は世界。子どもの世界との関わり方を決定してしまう。
- 古い未解決な感情と向き合う。苦しんでいる自分を自分で感じ取る
- 行動の大半が生まれてまもないときに生じた出来事に根ざしている
- 今の快適さを受け入れると、苦しかったことを認めてもらう希望をあきらめなければならない。
- 内部に根ざしている圧力を外部からかかっているように感じて本心とは別の夢をいだく
- 愛とは、人をありのままにあらしめること。愛とは、たくさん抱かれ愛撫されること。
- 旅しても、自分探ししても、自分らしくなれない。それができるのは苦痛だけである。
- 自分らしく生きることのできなかった人間が、怒っている
- 自分以外の何ものかになるということは、死ぬことにほかならない。
- 嫉妬とは、自分の分け前をあたえられていないと感じること
- 自殺
- 苦痛を自分とは関係もない外部のドラマに象徴化するのが幻覚の正体
- 肥満は神経症。カロリーブックでは解決しない。
- 来世信仰を精神病と見なさないのは社会的に通用している考え方だから
- 愛してもらいたい本能とは、すなわち自分自身でありたいという本能。
アーサー・ヤノフ著『プライマルスクリーム(原書からの叫び)』
身もだえ、けいれんし、叫び声を上げた。感覚中枢が機能し始めた。
これが原書からの叫び、プライマルスクリームです。
このページではアーサー・ヤノフ著『プライマルスクリーム(原書からの叫び)』の書評をしています。赤字は本書の内容。黒字は私の書評です。
分離症とは、悪霊が取りついているような状態
幼児が、要求を無視されないと、自分の望みを諦めさせ、苦しみを押し殺してしまうまで、苦痛を味わう。幼児は欲求を満たせないし代用品も見つけられないので自分の感覚を意識から分離せざるを得ない。これが分裂症である。
分離症というのは悪霊が取りついているような状態のことです。
たえがたい苦痛を締め出すためにおこなわれる本能的な行動が分裂。分裂によって問題が解消されるわけではない。満たされぬ欲求は、心の奥底で消えず、関心の在りかを方向づけ、欲求を満たそうという動機になる。
本書の基本メソッドは、これです。心の闇には幼いころの傷があるという理屈です。
心の傷は苦痛をともなうので意識に登らぬように押し殺されている。押し隠した原初の欲求が、より大きな制御や開放を得られる方向に大人になってから向かう。
しかし原初の欲望そのものを解消せずに、代償に走っても、根本的には解決されません。
たとえばタバコ愛好家は乳首から無理やり引きはがされた傷、親に無視された子は話し好きになる場合がある。
苦痛が強く耐えられないと、感情を押し殺し、無感覚になってしまう
原初の苦痛があまりにも強く耐えられないので、満たされぬ肉体的な欲求と感情を押し殺してしまう。
無表情な子供になる場合があります。
生まれ落ちてずっと真剣な努力にケチのつけられどおしで、なにをしたところで両親の愛情をかちえることはできないのだと感じさせられると、子どもは誉め言葉を強く欲するようになる。
傷を解消する欲求をつよく刻み込む子もいます。
耳を貸す人が一人もいないことによって抑圧される。そうした拒否が話す欲求に転ずる場合もある。
自己表現欲求が強い子になる場合があります。
小さな時代に愛されていないという気持ちにまったく気づかぬまま、愛されていると感じ取るためにセックスに駆り立てられる。
愛情に満たされた子は小さい時の欲求を満たすためにセックスに頼る必要がない。
母親の無視がセックス依存症の原因かもしれません。
他人の肉体を利用して古い欲求を満たす。未解決の欲求、古い否定をぬぐいさる。要するに子供は両親好みの人間にならねばならないのである。
原初の満たされぬ欲求はほかのあらゆる人間活動に優先する。神経症とは感情の病気である。
バカにされて育った人は尊敬されることをのぞみ、自分の子には反抗をゆるさない場合がある。
感覚器に刺激を受けないと委縮してしまう。愛情が子供の苦痛を取り除く。
原初の満たされぬ欲求はほかのあらゆる人間活動に優先する。神経症とは感情の病気である。
生まれた時から良心の欲求を満たすための苦闘がはじまる。社会化されるとき、子どもは自分らしくあることを許されない。自然で原初的な欲求を否定され、傷つけられる。
「社会化される中で、どんな子も傷つくのだ。だからプライマル・セラピーは誰にでも通用する理論だ」というのがアーサーヤノフの主張です。
しかし私は別の考えをもっています。ラストにまとめて書き記します。
原初的な苦痛=ありのままの自分でいては愛してもらうわけにはいかないぞ。
抱かれず、無視され、あざけられ、無理じいされ、傷ついていく。自分は価値がない、不完全で望まれていない人間なのだという思い。
自分が何を要求されているかをすばやく読み取る。
両親のやり方で喋り、行動する。両親の期待している線にそってふるまう。活気をみなぎらすことも、哀しげな様子を見せることもなく、筋書き通りに行動し始める。
愛をえるために別人になって、本当の自分と、もう一人の自分に分離するというのです。
神経症になったのは愛を獲得するため。
神経症になったのは愛を獲得するため。愛が存在していれば、子どもはあるがままの姿をとるだろう。あるがままでは決して愛してもらえないという恐ろしいまでの絶望。自分の欲求は永遠に満たされないだろうという絶望。
幼いころの体験の決定的な力が人生観へ影響を及ぼし、心の闇から野獣のように吠えたてます。
これをヘルマン・ヘッセは『荒野のおおかみ』と呼びました。
なにをしたところで報われることはない、という思い。
それが生涯ずっとつづきます。
原始的大情景=傷が臨界をこえて非現実に生きる瞬間の出来事。個人的な具体的な出来事。
神経症的な闘争を通じて、希望を満たそうとたたかう。
愛は、人生観が変わるほどの破壊力を持つ。
愛されたい、生きのびたい、というのが原初の叫びです。それが満たされないと歪みます。
村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』のラストシーンを思い出しますね。
分裂して感情を完全にきりおとしてしまった。もはや心理的な痛みを感ずることができない。再び自分自身を解放するために、最初の苦痛を感じる必要がある。苦痛は心だけでなく肉体的内分泌的な反応である。
原初的な苦痛を隠して抑えておくために神経症になる。知覚と認識は現実から遊離する。原初の叫びは自分の欲求を満たすことができる対象に向かわせる。
大人になってから代償を見つける意味です。たとえば権力を志向するようになる、というような。
感情を取り出すタンクに蓋をしてしまう。苦痛だけでなくよろこびまで抑圧する。なおれば「感じること」ができるようになる。
原初の叫びを知覚できれば分離していたものが結合する。苦痛を声に出して叫ぶ。
冷たい人とつきあうのは、冷たい親を、温かみのある人間に象徴的に変えようとするため。しかし親は変えらえないから、闘争は続く。
親が変えられないというのは二重の意味。子どもはあまりに無力だから変えられないのが一つ。そして過去は変えられないというのが二つめ。
神経症の人は、生涯の初期に経験した緊張に耐えられなかった。私には何も起こりませんでした。それが起こったのは彼女のほうです。と分裂する。原初の叫びが満たされないのは、気分の悪い不自然な緊張だ。少しでも気分を良くしたいと望んで行っている行動が分裂なのだ。不安のおおもとは愛されていないという恐れにある。
荒々しい男になったのは、そういう親の期待があったからである場合がある。男らしさを止めさせるのは愛と承認をうしなうこと、原初的な絶望に直面しろというにひとしい。行動の大半は恐れの感情に根ざしているから。不安は結合されていない古い恐れ。恐れが不安に変わる。
過食症は、食べることで原初の叫びを押し戻そうとしているから
極度に体重オーバーの人は、深く隠された苦痛の持ち主。胃から上がってくる叫びを食物をつめこむことで押し戻そうとする。
満たされない原初の叫び=ストレスは、肉体にも影響を及ぼします。
追い詰められて顔がけいれんするとき、肉体は感情を押し殺しているのである。
緊張した筋肉系が神経症を永続させる。筋肉系、各種の器官、血液循環系にも影響する。よろこびとは緊張からの解放感。
ありのままでいられないことは、自分の一部に対して死刑宣告すること
当の本人が自分の自然な傾向を感じ取れないために、不自然な行動が規範になっている。自分自身の一部をしめだしている。自分の一部に対して死刑を宣告しなければならない。防御は、自分本来の自己を取り戻すまでつづく。生まれ落ちてすぐの剝奪と、その剥奪がその後の人生に与える影響。
馬鹿にされ続けていると、自分に何か欠点があるのだと考える。そして食べすぎ、マスターベーション、ドラッグなど代償にはしる。自分の頭の中に逃げ込み、自分に引きこもり神経症そのものになる。食餌や注射針と直接的な関係を持つ。
体全体が抱いてもらうことを必要としている。それが満足を得られる方向に(闇から)たえず力を及ぼす。
悪い習慣は、原初的な苦痛をおさえこもうとしている。凍結された苦痛。希望は永遠に消え去らない。神経症は感情のプロセスであり、その人の(今の)欲求を知るだけでは駄目だ。愛なしでは、生きていくために感情を殺し、無気力になる。機械仕掛けの人形のような生気のない重苦しい感じになる。
人は何歳になってもありのままの自分でいようとするのです。それが邪魔されたから叫びが抑圧されているのです。
両親は世界。子どもの世界との関わり方を決定してしまう。
有害な親子関係。子どもはまったく無力。両親にすっかり依存。両親は世界。子どもの世界との関わり方を決定してしまう。意識から締め出すほど強烈で圧倒的な反応。三歳までに受ける衝撃がなみはずれた影響を及ぼす。自己の抑制。
肉体の中心的な欲求は、触れられることである。
泣くに泣けないでいると、泣きたい気分になっていることすら気付かないようになる。涙を弱さのあかしとしてあざけるようになる。
欲求を殺すことで苦痛を締め出す。
ここで解説しているのはプライマル・セラピーですが、仏教徒が修行でやっていることはまさにこれではないかと思います。
原初の苦痛を締め出そうという修行。正しく苦痛を見ようという修行です。
疑似感情。ほんとうの感情は幼いころのトラウマ。古い感情に蓋をする行動をとらせる。疑似感情と本当の感情は緊張関係にある。
時期遅れの愛は役に立たぬ。分裂を解消できるのはやさしさではない。それができるのは原初の苦痛だけ。
古い未解決な感情と向き合う。苦しんでいる自分を自分で感じ取る
私が傷ついていることを悟られたくない。それを知られてサディストに快感をあたえるようなことはしたくない。
こわい! 優しくして。たすけて。憎い! 古い未解決な感情と向き合う。苦しんでいる自分を自分で感じ取ること。
愛を求めると拒否と苦痛に見舞われる。象徴的なものを求めるたえざる緊張、模索。
「知る」ことだけではじゅうぶんではない。全身にみじめさを感じている。
感情を締め出す以前に戻る。
原初の叫びは苦痛そのものです。傷をじゅうぶんに苦しんで、過去のものだと理解して、本当の気持ちから離れることがセラピーです。今の欲求ではないのだ、と理解しなければなりません。
行動の大半が生まれてまもないときに生じた出来事に根ざしている
自由を求める行動が抑圧されると反社会的な行動に駆り立てられることもある。
死んだような顔が生気を取り戻し、表情を見せる。
自分の行動の大半が生まれてまもないときに生じた出来事に根ざしていることにまったく気づいていなかった。
為末大『走りながら考える』の中に、残りの寿命が見えていたら、過去にやり切らなかったことをやり切るために時間を使う、という哲学が語られています。プライマル・セラピーと同じことを言っていると思います。
神経症は小さな時の友人にして保護者。人生があまりにも耐えがたくなったときに私たちの身代わりとなってまもってくれる。
感情を殺すことは呼吸を殺すこと。浅い呼吸になる。感情を吐き出すことは呼吸を吐きだすこと。深い呼吸。胃が震え、胸は波うっている。
分裂症は腹話術師の人形のように、口は動いているだけで感情とつながっていない。
闘争とは、感情の否定の場合がある。闘争を必要とせず、闘争にかかりっきりになるための障害をもうけておく必要のない正常な人間はものごとに専心できる。
分裂している人間は握手をするとき、よそを見ている。
素直な反応が受け入れられないことを知っているから、にせの反応をしたり、なにも感じていないふりをする。
人格はそれが伝達せずにはおれぬメッセージの方へ向かって歪む。
今の快適さを受け入れると、苦しかったことを認めてもらう希望をあきらめなければならない。
親に悲惨さを理解してもらいたい原初の欲望があると、今の快適さを受け入れると、悲惨さを認識してもらう希望をあきらめなければならない。愛する人を見つけると、もう幼いころ必要とした人たちは必要ないという意味を持つ。少年時代に二度と戻れないと感じることが恐ろしい。
親が子の欲望の前になすべきことを設けると、後年、自発的に行動することができず「なにをすべきか」たずねるようになる。
場合がある、ということだと私は思います。後述します。
悪いニュースを見る。人生を耐えうるものにするために、自分のみじめさを自分以外のものに投影せずにはいられない。
自分よりも悪い状況にいる人を見て留飲を下げる人は多くいます。
自分が愛され望まれているだろうとクリスマスパーティーにでかける神経症の人は、失望を味わう。
自分の欲求を抑えることは、他人の欲求に対する認識の否定に通ずる。
自他を認めるところまでいけないのが神経症です。じぶんのことばっかり、に見えるのです。
内部に根ざしている圧力を外部からかかっているように感じて本心とは別の夢をいだく
神経症は、自分を包み隠すために他人を利用する。身の回りを他人の褒めてもらうことを必要とする傾向がある。内部に根ざしている圧力を外部からかかっているように感じて忙しく過ごす。将来、うんと幸福になるんだ。という思いが生涯つづく。
生まれてからずっとやりたくないことをやってきたので、しなければならぬことを苦痛に感ずる。このうえ傷つかぬために、子どもは自分の感覚を鈍らせる。
治療後、神経症的な仕事をつづけるのが不可能になった。
自己を駆り立て、価値があるとか認められるとか愛されるとか最後には感じられるようになろうとつとめる。お祭りがあっても楽しめない。神経症は没頭せず、自分が愛されているかとか、意義をさがして楽しめない。
こんなことをして何になるんだろう、と目の前のお祭りに没頭できない人は、神経症である可能性があります。
愛とは、人をありのままにあらしめること。愛とは、たくさん抱かれ愛撫されること。
自分にとって本当に大切なことをするのではなく、重要さを感じたいばかりに、多くの人が神経症にかかっている。
叫ばないのは希望のため。叫んで誰も助けに来てくれなかったらすべてが失われる。叫ばぬことでこの認識をせずにすんでいる。
夢を口にできない人は、かなえられなかったら希望が失われてしまうからだと思います。
愛とは、人をありのままにあらしめること。愛とは、たくさん抱かれ愛撫されること。
これまでいいよどんできたものを、ついに口に出していった。
ふれあうことと暖かい肉体的な接触。気持ちよくしてもらうとき子どもは愛情を経験している。愛は自己を高め、苦痛は抑圧する。自由な表現。
私は肉体主義者ですが、それは同時にセックス第一主義者であることも意味します。
愛されていると感じることは、まず第一に、愛されていないという古い苦痛をそっくりそのまま感ずることを意味する。愛を感知できないから、言葉による証しをたえず必要とする。
愛情の中に探し求めているのは、一度として自分らしくあることを許されなかった自己である。
旅しても、自分探ししても、自分らしくなれない。それができるのは苦痛だけである。
愛してください。嘘の生活をしなくても済むように。人生を台無しにしないでください。
旅しても、自分探ししても、自分らしくなれない。それができるのは苦痛だけである。
愛が捧げられているときですら、闘争の方が大事で、愛をさける人がいる。母に拒絶された人は、冷たい女を選び、その女を変えて愛情ぶかい女にしようとする。
自分自身に不誠実になることに子どもは同意する。自分は愛されていないのだという思いを覆い隠すために、屈服し、犠牲になる。
自由を求めて泣き叫んだ。本当の欲求を。自分らしくあることを許してくれる特定な人を求める。
たとえば「会社で出世したい」とかその夢は、原書からの叫びにかなった本当の夢なのか、よく感じてみる必要がありそうですね。
理解すると突き上げてくる闇からの欲求がなくなるので正常になる。
マゾヒスティックな儀式は、サディスティックな母親への古い欲求。
感じるということはまず第一に自分の苦痛を全部感じ取れるということ。原初の苦痛は感じ取らなければならない。そののちに現在のすべてを受け入れることができる。
自分を感じられない人間が外側に探そうとしても見つけられない。
闘争は両親の愛情をうるために別の人間にならなくてはならないためである。
彼は毎晩、家をあけてバーへでかけていくが自分が苦痛にうちのめされていることには、まったく気づいていない。
本当に望んでいることが自分でわかっていないからです。
自分らしく生きることのできなかった人間が、怒っている
文明化の過程が、欲求不満と敵意をうえつけている。文明の民ということが別の人間の感情に支配されているということ。支配されていることが内面的な怒りの源になっている。
怒れる人間は愛されなかった人間。自分らしく生きることのできなかった人間。自己を否定した両親に対して自己否定を受け入れた自分自身に怒っている。要求が一義、怒りは二義。苦痛、傷、愛の要求が怒りとなる。愛の要求が得られぬために傷つき、傷となり、傷をいやすために怒りにかられている。
怒りもうつ病も傷に対する反応。拒否のそらおそろしい感情に耐えるよりは怒りを感ずるほうがやさしい。孤独感を憎悪にすりかえる。憎しみは要求を覆い隠すための覆いにすぎぬ。
怒りとは、自分の生命を叩き潰そうとしている人間に対する怒りである。本当の自己を絶滅させつつある。生きることを許してくれぬあなたを憎む。
自分以外の何ものかになるということは、死ぬことにほかならない。
自分自身になって、すべてをさらけだして全面的に拒否されることのないよう、分裂自己にしがみついてきたのである。しかし自分以外の何ものかになるということは、死ぬことにほかならない。
幼年時代に解決されなかったことは、解決されるまでほとんどすべてのことにしのびこんでくる。
怒りは感じても、対象が定まらないと、根強い怒りは消え去らない。いったん結合ができると怒りは消え去った。無力で受け身の自己、少女の感情が感じ取られるまで、ファイトクリニックではなにひとつ本当に解決はしない。
ファイトクリニックというのは、たとえば離婚危機の夫婦にわざとケンカさせて、そのことで危機を乗り越えようという手法です。それでは効果がないとプライマルスクリームはいいます。
筋肉が緊張していたのはあの二人に攻撃を加えないようにするためだったのだわ。
原因は過去に根を持つなにか。古い感情。闇からの感情。
「私がこんなに働いているのに、だれひとり私のことを思ってくれないし、私の努力も買ってくれない」そうした感情をいだきつづけてきた。だから待たされると怒った。手伝わないと怒った。
抑圧が他所にはけ口を求める。その結果、要求を奪われ、要求が満たされていないという思いを奪われてしまう。ふくれると親に「なんだ、その顔は。笑え」といわれがちだ。三重に抑圧を強いられ、自分の気持ちを隠すためにさらに殻にとじこもる。
両親に敵意を示すことが許されないので、それを兄弟にふりむける。
嫉妬とは、自分の分け前をあたえられていないと感じること
愛情はよいこにしているときの特別な贈り物だと考える。嫉妬とは自分の分け前をあたえられていないと感じていること。自分の分け前があるはずだ、と条件付きの贈り物だから考える。
自分のすべての感情を自分のものと呼べる人間ではなく、神経症的な人間になる。
愛されぬためでなく、愛情を誰にも注げないために苛立っている場合もある。
自殺
両親に拒否された彼女は、自分は醜く人好きのしない人間なのだと感じるようになった。こんなに無視されるのは何か悪いところがあるからに違いないと思い込んだ。その苦しい思いをごまかす手段に恋人を利用した。しかし彼に去られると……これまで受けてきた拒否によって生じた穴を埋めるのは不可能だと見て取った。そして自殺をはかった。
神経症は心理的な自殺である。愛してもらうため自分を諦めた人間にとって、その自己を文字通り殺すことはさほど大きな飛躍ではない。「ほかの人間」神経症が役に立たぬと自殺を考える。
別人になっても愛されないと「ほかの人間」神経症になるか、自殺する。
「ほかの人間」は他人があたえる支持の強さによって決定され、他人の承認にもとづいて行動する。
自殺は自分自身も、ほかの人間も愛されない時におこなわれる。
自分自身を殺す目的は生きるためである。自殺の試みは生命を求める叫びである。
苦痛を自分とは関係もない外部のドラマに象徴化するのが幻覚の正体
LSDは深遠で神秘的な一種の宗教、ひとつの世界観。精神を拡大するサイケデリックな薬物。内面空間への大旅行。リアリティの旅。
LSDは感情を刺激する。古い感情を刺激する。神経症患者は現実の感情を象徴化して白昼夢、悪夢だととらえてしまう。次から次へと感情にみちびかれ、しまいには気が狂うのではないかと思った。
正気を保ち真実を直視することをさけるために、狂気になった。真実をまったく理解しないで過ごす手段としてバラバラになったのである。身の回りに起こっていることの意味を歪めた。
特定の感じ取られていない苦痛をショーに切り替えるのが、幻覚。外部のドラマにする象徴化。緊張が自分とはなんの関係もないと納得させるための象徴化。それが幻覚。
分離が結合すると感情につながった。
肉体上の異常な変化は精神病の肉体化である。
ヘロインは感情を鈍らせる。
薬物をもちいる以外に自分の感情に近づく方法を知らない。問題は薬物ではなく彼らをゆがめたもの。
肥満は神経症。カロリーブックでは解決しない。
過食は薬物常用と同じ。食べ物を緊張緩和剤として使っているから。内部に住んでいる欲求不満の小さな子供、剥奪された小さな子供のために食べている。太って不格好で射ることが彼女の防御策だった。怒らないでお母さん、お父さんを奪ったりしないから。
食べ物は手に入るが恋は手に入らないから食べる。魅力的だと性行為につながる恐れから醜くなる。みたされない思いを感じたくないから食べてのみ込む。
肥満は神経症。カロリーブックでは解決しない。
私が社会に拒絶されるのは太っているせいで私自身ではないのだ、という希望がある。
太った自分に気づいて助けてくれるのを待ち望んでいた。過食の理由は人それぞれ。
過食者はダイエットに安住している限り、本物の問題と直面しないですむ。
来世信仰を精神病と見なさないのは社会的に通用している考え方だから
あらゆる夢、白昼夢、幻覚、妄想は私たちを守り機能できるようにするための盾にすぎない。当人を耐えがたい苦痛から守るため。過去と現在、内面と外面が区別できないために生じる。
叫びは爆発です。村上龍『限りなく透明に近いブルー』のラストシーンを彷彿とさせますね。
われわれは死の恐怖から来世の存在を信じている。来世信仰を精神病と見なさないのは社会的に通用している考え方だからである。しかし多くの人間が来世の存在を信じていないとしたら、精神病と見なされる。
世界から閉じこもる以外に、とるべき手段を何ひとつ持ち合わせていなかった。
真実との本物の接触は、つねに内面的な過程である。恐れているのは他人ではない。自分自身の恐れの感情をひきだす他人を恐れているのである。
原初的苦痛とは防御がくずれおち感情の世界に入り込んでいくことにほかならない。
憎悪は傷つけられることに対する恐れに過ぎない。
ほとんど感ずることもなく、たえず無意識のうちに過去を現在に投影している。
軽率な結婚。私たちは闘争と結婚する。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
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理解すれば、もはや束縛された成人として行動する必要がなくなる。
神経症とは感情の否定であり、感じることによってなおる。
現実の人間とは自分の欲求が満たされていると同時に、他人の欲求を満たしてやれる人間のこと。
制御は内面的な圧力を高め、最終的には破壊、爆発。
心身相間の症状。要求は身体全体に食い込んでいる。からだ全体で経験、追体験されねばならない。
幼児期に生じた欲求はいったん解消されてしまうと、大人になっている現在、それはもはや本物の欲求ではなくなるためである。
親は自分たちが人間をじょじょに殺しつつあることに気づかない。
欲求が満たされないと象徴的な価値。権力、威信、身分、成功を追い求める。よろこんで本当の欲求を捨て去る。象徴的な欲求が満たされても決して満足できない。なぜなら本物の欲求が息づいているためである。
現実的なものにじかに取り組むこと。
愛してもらいたい本能とは、すなわち自分自身でありたいという本能。
フロイトの理論では足りないというのが、プライマルスクリームの主張です。弁証法でいうところのアンチテーゼに位置しているわけです。
1970年に刊行された本ですので、このプライム・スクリーム理論を批判する理論も現在はあると思います。ジンテーゼに導く統一理論もあるでしょう。
私はこの本を読んで、二重うつしで人を見ることを学びました。人は現在かかえている問題だけでなく、過去の問題を解消しようと突き動かされているということを。
そう見るとすべての現在の人の行動が、過去ゆえの行動に見えてきます。すべての人に傷を見てしまうのです。
しかし私は思います。そもそも万人に通用する理論なんてものはありません。人の傷、人の真理は個人的、具体的なものです。プライマリー理論にぴったりと合致する人がいます。そしてそうでない人もまたいるのでしょう。
人の数だけ苦痛と解放の闘争があるのです。
自分でない自分であろうとすることこそ難しい。もっともやさしいこと、それは自分らしくあることである。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
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