「見分けがつかないね」シリーズその2
妻と会話していたら、見分けがつかないね、という話しになりました。
ウイリアム・テルとロビン・フッドの見分けがつかないね
それは昔ブログに書いたよ。ウイリアム・テルはスイス人でボウガン使い。ロビン・フッドはイギリス人で弓の名手だ。リンゴを射抜くのはウイリアム・テルだよ。
詳しくは、こちらをお読みください。
ロビン・フッドとピーター・パンの相似点。ウイリアム・テルとの違い
さて、今回は見分けがつかないね第二段です。
今回、違いをはっきりとさせようというのは「カサノヴァ、ドンファン、ジゴロ」です。女たらし、スケこまし、というイメージの三者ですが、実在の人物でしょうか。そうだとしたら何人でしょうか。どのようなエピソードの持ち主なのでしょうか。そしてどうして「女たらし」の代名詞になってしまったのでしょうか?
カサノヴァの正体は自伝作家。イタリア(ベネチア)の色男
まずはカサノヴァ。自伝作家です。『カサノヴァ回想録(わが生涯の物語)』という自伝を出版しています。その本に1000人の女性とベッドをともにしたと書かれていることから「女たらし」とされているのです。
18世紀のヴェネツィア人です。ルネサンス以降の人物で、自伝も女のことばかり書いてあるエロ本ではなく政治家として、ビジネスマンとして、哲学者として、など多面体の側面を持つカサノヴァの魅力がじゅうぶんに描かれ、読み物として面白いものになっています。
1000人斬りは自称なので本当かどうかわかりませんが、モテたのは本当のようです。いわゆる男にも女にもモテるというタイプの才人でした。
ドン・ファンの正体。著作権フリーの架空のスペイン人
モーツアルトの『ドン・ジョヴァンニ』で有名なドン・ファンは、17世紀スペインの架空の人物です。もともとはあるプレイボーイの貴族が、どこぞの貴族の娘を誘惑し、その父親を殺害したという単純な物語だったようです。カサノヴァの千人斬りには遠く及ばず、たった一人しか斬っていません。あ、二人か、正確には。
後世の芸術家が作品に、誘惑者、色男を登場させたくなったときに、とても都合のいいキャラクターだったので使われはじめ、やがて著作権フリーのように色事師=ドン・ファンというようなイメージが定着してしまいました。
危険な誘惑者というイメージだと思います。ヒモのイメージのジゴロとは別ですね。
女性キャラクターでいえば、マノンやカルメンやマルグリッドのようなファムファタール系のキャラクターを他の作家が著作権を無視して勝手につかっているうちに、やがて伝説の女になってしまったというような感じでしょうか。
マノンやカルメンがドン・ファンのように時空を超えた伝説になれなかったのは、原作中で死んでしまうからという理由のほかに、やはり性差が大きいと思います。
どうしても女性は育てる性で男性はばら撒く性なので、ひとつの物語の中で永遠のヒロインとなるのに女性は向いていますが、時空を超えた伝説になるにはやはり男性の方が立場的に有利だったのだろうと推察します。
ジゴロの正体。ジゴロはフランス人?
ジゴロというのはフランス語の言葉、概念です。「女性に経済的に面倒を見てもらっている男」「ひも」のことをフランス語でジゴロというのです。その言葉が国をこえて流通してしまったのがジゴロの正体です。ジゴロは概念であり、もはや人物ですらありません。
なんで英語ではなくフランス語が流通したかといえば、やはりフランス人の方が「スケこまし」っぽい感じがしてしっくりくるからでしょう。漫画がmangaとして流通しているのも日本の漫画のレベルの高さが業界を代表するものだからです。
ジゴロは、あえていえばフランス人ということになります。フランス語ですから。
カサノヴァは在原業平、ドン・ファンは光源氏、ジゴロはホストクラブの男妾
見てきたように、カサノヴァはイタリア人、ドン・ファンはスペイン人、ジゴロはフランス人でした。カサノヴァは実在の人物、ドン・ファンは架空の人物、ジゴロはただの言葉でした。
日本でいえばカサノヴァは在原業平、ドン・ファンは光源氏、ジゴロは「ヒモ」「スケこまし」といったところでしょうか。
こうやって調べてみるとおもしろいものを感じます。カサノヴァのように、日本には個人名が何かの概念を代表する代名詞になっているケースは比較的少ないような気がします。
「泣いて馬謖を斬る」のような個人名が入っていることわざ、故事成語は諸外国の方がずっと多いのではないでしょうか?
「判官贔屓(敗者・弱者びいき)」は役職名で個人名ではありませんし、「本能寺の変(下克上)」は地名ですしね。昔の偉い人はみんな天皇家の関係者だから、不敬の気持ちが働いたせいでしょうかね?
カサノヴァとドン・ファンとジゴロの違いがわかってすっきりしました。
今後も「見分けがつかないね」はシリーズ化していきたいと思います。