ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』のあらすじ、感想、書評
私は「私的世界十大小説」という書物を出版しています。これ以上、自分の人生に影響をあたえるような作品はもう出てこないないだろう、という確信のもとに書物を出版しているのですが、『アルジャーノンに花束を』はそのトップテンランキングに入れてもいいかと思うような名作でした。いやあ、あるものなんですね。ときどき主人公のチャーリー・ゴードンの告白を自分の告白のように読んでいる自分がいました。
あらすじは「白痴が手術で天才になり、周囲が見えると同時に嫌われ、また白痴に戻っていく」というだけのものですが、そこに描かれているテーマは「いわくいいがたし」としか言いようのないものです。うまく説明することができません。
それでもなんとか自分の感じたものを、言葉にして表現してみましょう。
『アルジャーノンに花束を』のテーマ、内容、魅力
アルジャーノンは人工的にかしこくなったりこうな白いねずみです。
チャーリー・ゴートン三十二歳。十五でウォレン養護学校に入れられる白痴。妹が生まれて母に捨てられた。
パン屋。みんなぼくのなかよしのともだちでじょーだんいったりしてわらったりする。
→『アルジャーノンに花束を』は主人公チャーリーの告白文(レポート)という体裁をとっているため、白痴時代の文章は白痴らしく書かれています。日本語の場合、やたらとひらがなをつかうなどテクニックがつかえますが、原文(英語)の場合はどうしたのでしょうか。わざとスペルミスをするなどしたと思われます。LとRを間違えるとかね。
ロビンソンクルーソーを読み終えた。これでおしまいだという。なぜだろう。
→知恵の萌芽は「なぜ」からでした。ちなみに私はこの『ロビンソン・クルーソー』を私的世界十大小説にカウントしています。
人生を買うという行為だけで終わらせないために。『ロビンソン・クルーソー』
ぼくのともだちはみんなぼくのことがすきでいじわるなんかしたことないですよ。
→この認識は間違っていたことが後で判明します。世界観というものは本人の認識そのものなのです。
なぜこの人をほうっておかないの?
粉ねり機の係に昇進した。
誰かの足がいつも突き出されるのでぼくは転んでばかりいた。ぼくがころぶたびにどっと笑った。ジョウがまた押し倒した。ほんとにおかしいやつ。みんなげらげら笑った。
→知性を得たチャーリーは、自分がいじめられていたことを知ります。自我を得たチャーリーはそれが許せません。
ジョウやフランクたちがぼくを連れ歩いたのはぼくを笑いものにするためだったなんてちっとも知らなかった。ようやくわかった。ぼくははずかしい。みんながぼくを笑っていたことがわかってよかったと思う。ひとはばかな人間がみんなと同じようにできないとおかしいと思うのだろう。
利口だからってぼくをからかっていいってことはないんだ。もうみんなに笑われるのはたくさんだ。うんざりだ。とつぜんすべてが爆発した。知らないほうがよかったのかもしれない。でも知ってしまった。ぼくにはそれがたえられない。
→知性と同時に羞恥心、プライドといったものがめばえます。これを「よし」としているのか「悪し」としているのか、よくわからないのが本書の難しさなのです。
パン屋の人たちは変わってしまった。ぼくを無視するだけではない。敵意を感じる。やりきれないのは、みんながぼくに腹を立てているために前のように楽しみがなくなったことである。みんなはぼくが期待していたようにぼくを誇りにおもってはくれない……少しも。
とつぜんぼくは思い出す。母の名前がローズで、父の名前がマットだということを。妹のノーマはどうしているだろう? マットの顔をいま見てみたい。あのとき彼が何を考えていたか知りたいと思う。
ぼくをこれほどまごつかせるのは、ぼくにこういう経験が皆無だからだ。他人の対する振舞い方をひとはどうやって学ぶのだろうか? 女の扱い方を男はどうやって学ぶのだろうか? 書物はたいして役に立たない。
ジャコモ・カサノバ『回想録』世界一モテる男に学ぶ男の生き方、人生の楽しみ方
僕は一個の人間だ。メスに身をゆだねる前はぼくは他の誰かだった。ぼくはだれかを愛さなければならない。
あなたのかわりにあたしが決めることはできないわ。あなたがこれから一生子供のままでいたいというなら話しは別だけど。あなた自身で答えを見つけなきゃいけない。
ちがう。すばらしいのはあなただ。ぼくの目に手をふれて、見えるようにしてくれた。
→チャーリーは手術によって白痴から知性あふれる存在になりました。しかしこれはチャーリーだけでなく人間はみんなそうなのではないでしょうか。
私を含めてほとんどの人間は、幼い頃はサルみたいなバカなガキだったのが、勉強して賢くなっていったはずだと思います。それはつまり誰しもチャーリーのようだと言えないでしょうか?
もうあなたはあたしの知能程度を越えてしまったのよ。もしあなたが知能的に成熟したら、あたしたち、お互いに意思の疎通ができなくなるわ。情緒的に成熟したら、あたしを必要とさえしなくなるわ。
→ぶっちゃけ周囲の人間がバカに見える経験を、私はしたことがあります。あなたもありませんか?
ぼくは人間だ……男だ。本だのテープだの電気迷路なんかとばかり暮らしているわけにはいかないんだ。体の中の何かがぼくを燃えがらさせるんだ。その何かが、あなたのことを考えさせるんだ。
→本書は「人間関係」を描いていますが、その一大要素として「セックス」を描いています。私も100%同意します。
× × × × × ×
主人公ツバサは小劇団の役者です。
「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」
恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。
「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」
アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。
「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」
ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。
「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」
惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。
「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」
劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。
「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」
ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」
尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。
「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」
そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。
「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」
そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。
「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」
そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。
「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
× × × × × ×
今では彼らがなんとちがって見えることだろう。そして教授連を知性ある巨人と思い込んでいた自分のなんたる愚かさよ。彼らはただの人なのだ。そして世間にそれを気づかれるのを恐れている。
セックスにかかわる恐怖や障害は、性的に遅れていることを示している。
→勉強のできないバカな不良がセックスや異性交遊を軽々とこなしているのに、インテリであればあるほどそういうことがしたいのにできない、というのはよくあることですね。
パン屋の仕事をクビになった。彼らがこれほどまでに私を憎悪するとは、私がいったい何をしたというのか?
粉ねり機の操作だとか品物の配達なんて仕事は利口な若者のすることじゃない。いまじゃみんなおまえさんを死ぬほど怖がっている。わたしも自分の家族のことを考えにゃならん。
みんなを説得させてください。みんなにわかってもらうようにしますから。
けっきょくは自分が傷つくだけだよ。
彼らにとって私が目に触れるのは耐えがたいことなのだ。私はみんなを不快にさせている。
あんたたち二人ともぼくを避けている。なぜだ?
なぜって? 行ってやろうか。なぜかっつうとな、おめえが、とつぜん、おえらいさんの、物知りの、利口ものになっちまったからよ。おめえは自分がここにいるおれたちよりえらいと思ってるんだろう? なら、どっかほかへ行きな。
→下に見ていたものが急に上になって、コンプレックスで痛いのでした。だからチャーリーを受け入れられなくなっていたのです。
おめえはいろんな思いつきだか何だかここへ持ち込んできてよ。おれたちみんなをこけにしやがった。
→たとえば職場の業務改善提案なんかもこういうののひとつですよね。たいてい周りの人を下に見ているとか、コケにしているとか思われて、提案はろくな結果になりません。黙っていた方がいいってことになりがちです。白痴時代のチャーリーのように。
友だちになってくれと頼んでいるんじゃない。ただここで働かせてくれといっているんです。
→嫌われるとスジを通した道理も通らなくなりますよね。
私を嘲笑することができる限り、私をさかなにして優越感にひたっていられる。しかし今では白痴に劣等感を感じさせられている。私のめざましい知的成長が彼らを委縮させ、彼らの無能さを際立たせているのだということが私にもわかりはじめた。私は彼らを裏切ったのであり、彼らはそのために私を憎んでいるのである。
→親はチャーリーが賢くなることを望んでいましたが、友だちは違いました。どちらの希望に沿えばいいのでしょう。それとも誰かの希望に沿うことなんて無視すべきなんでしょうか。
生まれつき目の見えない人間が、光を見る機会を与えられたようなものなんだ。それが罪深いことだなんてありえない。
アダムとイブが知恵の木の実を食べたのは悪いことだった。
ジョン・ミルトン『失楽園』を、現代サラリーマン劇に書き換えてみた
もはや言うべきことは何もない。誰一人私の目を覗き込もうとするものはいない。敵意がひしひしと感じられる。以前、彼らは私を嘲笑し、私の無知や愚鈍を軽蔑した。そしていまは私に知能や知性がそなわったゆえに私を憎んでいる。なぜだ? いったい彼らは私にどうしろというのか?
→チャーリーの告白を私が自分のもののように感じたというのは、全般に言えることですが、とくにこの告白のことです。
この知性が、私と私の愛していた人々とのあいだに楔を打ち込み、私を店から追放した。アルジャーノンを他のねずみのところに戻したら、彼らもアルジャーノンに背を向けるだろうか?
あなたは前とは違ってしまった。変ったわ。他人に対するあなたの態度よ。自分は同じ人種じゃないとでも……。口を挟まないで! 以前のあなたには何かがあった。温かさ、率直さ、思いやり、そのためにみんながあなたを好きになって、あなたをそばにおいておきたいという気になった。それが今はあなたの知性と教養のおかげですっかり変わって……。
私は黙って聞いてはいられなかった。きみは何を期待しているんだ? しっぽを振って、自分を蹴とばす足をなめる従順な犬でいろというのか? ぼくはもうこれまでずっと世間の人たちがお恵みくださっていたクツを我慢することもなくなったんだ。連中は独善的で恩着せがましくて、自分が優越感にひたって自分の無能さに安住するために僕を利用したんだ。
あなたがあんなふうに苛立たしそうな目であたしを見つめると、ああ、あなたはあたしを笑っているんだなって思うの。あたしが何かを言うと、なんだ子供っぽいことを言っているなという顔をしてあなたがいらいらしているのがわかるの。
→かしこい人あるある、だと思うんですよね。こういうの。とくに同性で自分が必死に克服、卒業した青臭い感傷をもっている奴を見ると、いらいらしちゃう(笑)。
私と一緒にいることによって苦しむのはまっぴらだというのは当然であろう。もはやわれわれに共通するものは何もない。
自分が人並みの男のように振舞えるかどうか、人生を共に過ごしてくれと頼めるかどうかを知ることが、とつぜん私にとっては重要になったのである。私はこれもしたいのだ。放出とくつろぎを得たい。
→天才になったチャーリーにとっても肉体関係は重要なのでした。当然の描写だと思います。
ようやくわかったよ。ここにいる誰が間抜けかってことがね。このおれさ! おまえのようなやつにがまんしてるんだから。
利口になりたいという私の異常なモチベーションは人々をまず驚かすのだがそれが何から発しているのかということがようやくわかった。それはローズ・ゴードンが日夜願い続けていたことなのだ。ノーマが生まれ、彼女にも正常な子供を産めるのだと実証されると、彼女は私を造り変えようという努力をやめた。一方私は利口になりたいという気持ちを持ち続けていた。走すれば彼女は私を愛してくれるからだ。
→チャーリーが賢くなりたかったのは、母の願いだったからです。
きみは彼に劣等感を感じさせる、彼にはそれががまんならんのだ。
ぼくは人間だ、ひとりの人間なんだ。両親も記憶も過去もあるんだ。手術室に運ばれる前だって僕は存在していたんだ!
ノーマという花が我が家の庭園に咲いた時に、私は雑草となりさがって、人に見られないところ、部屋の隅とか暗い所だけに存在することを許されたのだった。
あの子は家から遠ざけた方がいいんです。
ノーマを授かったから、あの子はもういらないってわけか!
あたしの娘をあの子のために犠牲にしたくない。
母の態度を妹が生まれる前のようにさせるのはお前の手にあまることなんだと説明してやりたいと思う。
→『アルジャーノンに花束を』は心理劇です。幻視のなかで白痴のチャーリーを天才のチャーリーが外から見たり、天才で嫌われるチャーリーを白痴のチャーリーが見つめ返して来たりしながら物語が展開します。
その包丁をしまえ!
娘の生活をめちゃくちゃにはさせないわ。
あんな子、死んだ方がましよ。このさき人並みの暮らしはぜったいできやしないんだから。
知ることが彼にとってなんだというのだ? 黙って立ち去ろう、正体を明かさずに。
私が生きているということ、私が一人前の人間であることを彼は認めねばならないのだ。彼の満足の笑みを、彼の商人を、私は欲しがっているのだ。
私は彼の息子ではない。あれは別のチャーリーだった。知能と知識は私を変えてしまった。なぜなら私の成長は彼を矮小なものにしてしまうのだから。
→母と違ってチャーリーをかばってくれた床屋の父親には最後まで正体を明かしませんでした。白痴の自分をすでに認めてくれていた父親には天才の自分を見せる必要はなかったのかもしれません。
彼女を変える努力はしないと約束した。いっしょにいるには愉快な相手だ。自由奔放な精神の持ち主である。
曲を捧げたが気に入ったようには見えない。一人の女に、自分の望むすべては期待できないという証左にすぎない。
「結婚は人生の墓場だ」は男女の脳差の断絶に絶望した者が言った言葉
アルジャーノンがフェイに嚙みついた。
実験動物を焼却炉で処理する。アルジャーノンはやめてくれ。その……もし……そのときは……つまり彼をこの中に放り込まないでもらいたい。ぼくにくれないか。ぼくが自分で始末するから。
→つくられた天才、という意味ではアルジャーノンとチャーリーは同種族だからですね。
正常な子供はすぐに成長してしまって、わたしたちを必要としなくなります。自力でやるようになって、彼らを愛していた人間、世話をしてくれた人のことなんか忘れてしまいます。でもこの子たちは、わたしたちがあたえることのできるものをすべて必要としているんですよ。
→よく成人したダウン症の子供をずっと面倒見続けている親に出会いますが、こういうことなのでしょうね。
きみは自分を何様だと思っているんだ。あんな態度をとれた義理か? わたしはこの齢になるまで、あんな我慢のならぬ無礼な態度は見たことがない。
いつからモルモットが感謝するように定められたのですか? ぼくはあんたたちに奉仕した、そしていまはあんたたちの誤りを突き止めようとしている。それがどうすりゃ借りがあるなんていえるんだ?
ぼくは発見した。誰もチャーリイ・ゴードンのことなんかどうでもいいんだとね。白痴であろうが、天才であろうが。だとしたら、どういう違いがあるっていうんですか?
→結局、かしこくなろう戦略は何の意味もありませんでした。すくなくともチャーリーにとっては……と断言できたら『アルジャーノンに花束を』の解題は簡単なのですが、そう一筋縄ではいかないところが難しいのです。
この実験はきみを人気者にするためじゃない。きみの知性を高めるために計画されたものだ。きみの人格に起こることにはなんの制御も加えなかった。きみは好ましい知的障害の若者から、傲慢で自己中心的で反社会的な手に負えないしろものになってしまった。
教授、あんたは知能は高くなっても檻の中に閉じ込めておけて、あんたが求めている名誉を獲得するのに必要ならば展示に供せられるようなやつを望んでいたってことです。障害は、ぼくが人間だったってことだ。
知識を求める心が、愛情を求める心を排除してしまうことがあまりにも多いんです。愛情をあたえたり受け入れたりする能力がなければ。
→覚えるべき知識が世の中にはあまりにも多く、これを極めようとすると、友だちと遊んでいる暇なんかありません。たとえば友達のいない受験生が合格し、友だちがいっぱいの受験生が不合格になれば、生き方を考え直す人もいるでしょう。そういうところをダニエル・キイスは言いたかったのかもしれません。
ぼくの知能が低かったときは、友だちが大勢いた。今は一人もいない。ぼくに何かをしてくれようという友達はどこにもいないし、ぼくが何かをしてやろうという友達もいない。これが正しいと言えますかね。
おれ、何かまちがったこと言った?
おれ、行くところがないんだよ。だからおまえにどいていてもらいたい。おれは諦めないぞ。いかに孤独であろうが、彼らがくれたものを守って、世界のため、おまえのような人たちのために、貢献したいんだ。
→賢くなるのは悪くない、ということもちゃんと表現されています。しかし副作用、弊害の方が大きいのではないか? というのが本書の特徴です。凡百の本は「みんな学ぼう。賢くなろう」と主張しているはずです。本書の主張はとても珍しいものです。
自分がどんな人間になっていたか分かった。傲慢で、自己中心的なしろもの。チャーリイとは違って、友だちもつくれなければ、他人のことや他人の問題を考えてやることもできない。そして自分だけにしか興味を持たない。自分を見下ろして、自分がじっさいどんな人間になったかを知った。私は恥ずかしかった。
一昨日アルジャーノンが死んだ。まるで眠りながら走っているようだった。
母親にとってもっとも重要なのはいつも他人がどう思うかということ。彼女自身より家族よりまず外聞なのだ。人生には、他人がお前をどう思うかなんてことより大事なことがあるんだとときどきマットは言いきかせていた。だがそんなことを言っても無駄だった。
私が学んだすべて……マスターした言語のすべてをもってしても、ポーチに立ってこちらを見つめている彼女に向かって言えたのは「マアアアア」という一言だけだった。
→言語化する能力がどれほど大切かわかりますか? 私はマラソンの本を書いているのですが、その本には挿絵など一切登場しません。言葉のイメージ喚起力で速く走れるようになる方法という新メソッドを提唱しています。いわば言語能力の限界に挑戦しているのです。
× × × × × ×
※雑誌『ランナーズ』の元ライターである本ブログの筆者の書籍『市民ランナーという走り方』(サブスリー・グランドスラム養成講座)。Amazon電子書籍版、ペーパーバック版(紙書籍)発売中。
「コーチのひとことで私のランニングは劇的に進化しました」エリートランナーがこう言っているのを聞くことがあります。市民ランナーはこのような奇跡を体験することはできないのでしょうか?
いいえ。できます。そのために書かれた本が本書『市民ランナーという走り方』。ランニングフォームをつくるための脳内イメージワードによって速く走れるようになるという新メソッドを本書では提唱しています。「言葉の力によって速くなる」という本書の新理論によって、あなたのランニングを進化させ、現状を打破し、自己ベスト更新、そして市民ランナーの三冠・グランドスラム(マラソン・サブスリー。100km・サブテン。富士登山競争のサミッター)を達成するのをサポートします。
●言葉の力で速くなる「動的バランス走法」「ヘルメスの靴」「アトムのジェット走法」「かかと落としを効果的に決める走法」
●絶対にやってはいけない「スクワット走法」とはどんなフォーム?
●ピッチ走法よりもストライド走法! ハサミは両方に開かれる走法。
●スピードで遊ぶ。スピードを楽しむ。オオカミランニングのすすめ。
●腹圧をかける走法。呼吸の限界がスピードの限界。背の低い、太った人のように走る。
●マラソンの極意「複数のフォームを使い回せ」とは?
●究極の走り方「あなたの走り方は、あなたの肉体に聞け」
本書を読めば、言葉のもつイメージ喚起力で、フォームが効率化・最適化されて、同じトレーニング量でも速く走ることができるようになります。
あなたはどうして走るのですか? あなたよりも速く走る人はいくらでもいるというのに。市民ランナーがなぜ走るのか、本書では一つの答えを提示しています。
× × × × × ×
どんなレースに出ても自分よりも速くて強いランナーがいます。それが市民ランナーの現実です。勝てないのになお走るのはなぜでしょうか? どうせいつか死んでしまうからといって、今すぐに生きることを諦めるわけにはいきません。未完成で勝負して、未完成で引退して、未完成のまま死んでいくのが人生ではありませんか? あなたはどうして走るのですか?
星月夜を舞台に、宇宙を翔けるように、街灯に輝く夜の街を駆け抜けましょう。あなたが走れば、夜の街はイルミネーションを灯したように輝くのです。そして生きるよろこびに満ち溢れたあなたの走りを見て、自分もそんな風に生きたいと、あなたから勇気をもらって、どこかの誰かがあなたの足跡を追いかけて走り出すのです。歓喜を魔法のようにまき散らしながら、この世界を走りましょう。それが市民ランナーという走り方です。
× × × × × ×
ぼくは変わった。いまじゃ正常なんだよ。わからないかい? ぼくの知能はもう低くない。白痴じゃない。みんなと同じだ。お客さんが来たときにぼくを地下室に隠さなくたっていいんだよ。何か言ってよ。
→味方だった父には正体を明かさなかったのに、養護学校に突き出した母親には正体を明かします。いや、父は気づかなかったのに、母は正体に気づきます。
自分のことを知らなくちゃならない。間に合ううちに、自分を理解しておかなくちゃならない。自分を理解しなければぼくは完全な人間にはなれないんだよ。いまぼくを助けられるのはこの世界であんただけなんだ。
これまでの歳月、悪夢はすでに十分な苦痛を与えているのだ。母が笑うのを見たかった。私が母を幸福にできる人間になったのだということを知ってもらいたかった。
→母親に認めてもらいたかったという一念は一生を支配するほど強烈でした。
歳月が妹を変えたかもしれないなどとは思いも及ばなかった。彼女はもう私の記憶の中にある自分勝手な子ではない。彼女は成長し、心の温かな、思いやりのある、情深い女になっていた。
ぜんぜん覚えてないわ。ああ、チャーリイ、あたし、あなたにそんな意地悪なことしたの?
あたしあなたが憎かった。父さんも母さんもいつだってあなたばかりかまっていたから。白痴の妹とか、うすのろゴードン一家とか。
→妹も兄を理由にいじめられていました。それゆえ兄につらく当たったのでした。
よその子たちと張り合っていくのは辛かっただろうね。
あいつをここから追い出して。自分の妹をみだらな目つきで見るなんて許せないのよ。
妹は今、なぜ私が家を出されたのか諒解した。ノーマを守ったローズを憎んではならない。彼女の見方を理解してやらなければならない。私が彼女を許さなければ、私が得るものは何もないだろう。
ぼくは自分の時間を他人と分け合う余裕はないんだ。自分のためにしか残されていないんだ。読んだり書いたり考えたりする時間が少ししか残されていないからだ。
→それほど願っても、チャーリーは後退し、やがて白痴に戻っていきます。
おそらく、あなたを訪ねることもないわね。あなたがいったんウォレンに入ってしまったら、あなたを忘れるように努めるわ。
どうしてぼくはいつも人生を窓からのぞいているのだろう。もう過去のことは思い出したくない。
みんなはぼくをかもにして、ぼくを笑いものにした。だからこそ、ぼくにとっては学ぶことが重要だったんだ。そうすれば人がぼくを好いてくれると思った。友達ができると思った。こいつはお笑いだねえ。
→学べば友だちにもっと好かれるというのはまったくの無駄骨でした。
高いIQをもつよりもっと大事なことがあるのよ。
自分のことや人生のことなんかをむりやり考えさせられるようなことはなんにもしたくないんだ。ほっといてくれ。ぼくはもうぼくじゃないんだ。ぼくはばらばらに崩れていくんだ。だからきみにここにいてもらいたくないんだ。
アルジャーノンは特別なねずみでした。
チャーリイもしだれかがおまえを困らせたりだましたりしたらおれかジョウかフランクを呼べ。おれたちがかたをつけてやるからな。おまえには友だちがいるってことを忘れるなよ。ありがとうギンピイ。ともだちがいるのはいいものだな。
→天才時代は劣等感を刺激されるために嫌っていたチャーリーのことを、白痴にもどったら急に友達あつかいしてかばってくれる友人たちを、いったいどう評価すればいいのでしょうか。いいやつだ、と素直に言えません。だからといって悪い奴でもないのでしょうが……。こういうところが『アルジャーノンに花束を』の評価を難しくしています。何が正しいのか、はっきりわからないのです。作者の意図が読めません。意図を読めないようにするのが作者の意図なのかもしれませんが……。
ひとがせんせいのことをわらてもそんなにおこりんぼにならないように。そーすれば先生にわもっとたくさん友だちができるから。ひとにわらわせておけば友だちをつくるのはかんたんです。ぼくわこれからいくところで友だちをいっぱいつくるつもりです。
どうかついでがあったらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやてください。
→何とも言えない強烈な読後感が残りました。繰り返しますが、何が正しいのか、はっきりわからないのです。作者の意図が読めません。意図を読めないようにするのが作者の意図なのかもしれませんが……。
しばらく時間がたったらまた読み返してみたいと思えるような心に残った一冊でした。
× × × × × ×
(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
× × × × × ×