『サロメ』の圧倒的な比喩力に驚嘆したが……
大昔にアニメで見た覚えがありました。おさな心に強烈な印象を残した作品でした。
オスカー・ワイルドの原作だったのですね。わたしは昔ワイルド『サロメ』の圧倒的な比喩力に驚嘆したことがあり、『サロメ』こそがワイルドの最高傑作だろうと思っていたのですが、考えが変わりました。
この『ナイチンゲールと薔薇』こそ世紀末デカダンス作家、オスカー・ワイルドの最高傑作ではないかと思います。
『ナイチンゲールとばら』のあらすじ・詳細
こちらのアニメでは学生にシルビオ、女性にユリアという名前がついていますが、ワイルドの原作には名前はありません。ただの「学生」です。
アニメでは青い薔薇さんが軽~く登場していますが、自然界に青い薔薇はないといわれています。現在ではせいぜい紫色の薔薇があるぐらいです。花弁に青色色素がないからだそうです。
深い海のように青いと青い薔薇はいいますが、深い海はまっくらで色なんてありませんぜ。しっかり勉強しなはれ脚本家!
ワイルドの原作では青い薔薇ではなく、黄色い薔薇が登場します。19世紀末にすでに青い薔薇なんて存在しないことを知っていたのでしょう。
赤い薔薇をもってきてくださったら、あなたと踊ってあげるわと彼女はいったんだ。
ああ、幸福というものは何て些細なことできまるものなんだろう。
ぼくは賢者たちの書いたものは全部読んでしまったし、哲学の極意もみんな習得した。だがそれでも一輪の薔薇がないために、ぼくの生涯はみじめなものになってしまうのだ。
原作では、いつも愛の歌を歌っていたナイチンゲールは、とうとう本物の愛を見つけたと思って学生に陰ながら協力することにします。
アニメでは、ナイチンゲールはシルビオが大好き(友達)ということになっていますが、原作では「みずからの愛の探求」のために協力するのです。
赤い薔薇がほしければ、月の光を浴びながら、小鳥が歌を歌い、心臓を薔薇の棘に捧げて、血で薔薇を赤く染めなければならないのでした。
愛は真珠やざくろ石でも買えなければ、市場に展示されてもいないもの。
一輪の薔薇のために払うには、死は大きすぎる代償ですわ。でも、愛は生命よりもすばらしいものです。それに人間の心臓にくらべたら、小鳥の心臓なんてものの数にも入らないのじゃないかしら。
哲学がいくら賢くても、愛の方が賢いし、権力がいくら強くても、愛の方が強い。
学生はナイチンゲールが何を言っているのかわからなかった。何しろ本に書いてあることしか知らないのだから。
一晩中ナイチンゲールは歌った。そして棘がだんだん深く胸に突き刺さり、生き血が全身から減っていくのだった。月が耳をかたむけている。その歌はいちだんと激しくなっていった。男と乙女の魂に生まれた情熱を歌ったからである。苦痛は途方もなく激しく、ナイチンゲールの歌はますます狂おしいばかりのものになっていった。というのも、死によって完成される愛を、墓の中でも死滅することのない愛を歌っていたからだ。
深紅の薔薇が咲くと同時にナイチンゲールは命を落とします。学生はその薔薇をもぎ取って惚れている教授の娘のところにもっていきました。赤い薔薇をもってきたらぼくと踊ってくれると言われましたね?
しかし娘は他の男に本物の宝石を贈られていました。金持ちの男でした。女は薔薇よりも宝石を選んだのです。
学生は怒って薔薇を放り投げました。薔薇は荷馬車に轢かれてしまいました。
学生にとって、愛は実用的でなく、役にたたないもので、再び本の世界に戻っていくのでした。
『幸福な王子』小鳥が命を落としてしまう似たような構成の物語
オスカー・ワイルドの原作では、小鳥と学生は友だちではありません。会話もしません。ウォルト・ディズニー以前の人物なので、そう簡単に動物と人間を会話させるわけにはいかなかったのでしょう。
同じように小鳥が命を落としてしまうオスカー・ワイルドの物語に『幸福な王子』というものもあります。
「幸福な王子」では彫像の王子さまとツバメは会話をしています。人間はタブーだけど、彫像ならOKだったのは、やはりキリスト教のタブーだったのかもしれません。キリスト教では人間は神の似姿として特別な地位をあたえられています。けっして獣と人間は対等ではありません。
オスカー・ワイルドの原作では、アニメのように小鳥と学生は友だちではありません。会話もしません。アニメ版だとナイチンゲールは友情のために命を捧げたかのように見えてしまいます。ところが原作小説ではただ形而上の愛のために小鳥は命を捧げるのでした。
同じように小鳥が命を落としてしまうオスカー・ワイルドの物語に『幸福な王子』があります。『幸福な王子』でも、愛のために小鳥(ツバメ)は働いて最後は死んでしまいます。『幸福な王子』の愛はキリスト教の大きな愛のために、『ナイチンゲールと薔薇』では男女の愛のために。物語のラストで『幸福な王子』が不幸の中にも救いが見られるのに対して、『ナイチンゲールと薔薇』では荒涼とした寒々しい終わり方をしています。ふたつの作品のエンディングの違いは作者オスカーワイルドのふたつの愛に対する考え方を表明しているといってもいいでしょう。しかしだからといって作品として『幸福な王子』がすぐれていて『ナイチンゲールと薔薇』が劣っているかというとそんなことはありません。『幸福な王子』のツバメは越冬できずに弱って凍死(餓死)してしまうのですが、『ナイチンゲールと薔薇』のナイチンゲールはみずから心臓を薔薇の棘に刺しつらぬき痛みの中で歌うのです。心臓の血の赤が薔薇の赤色になるというイメージが、痛みをともなう強烈な読後感として残ります。小さな小鳥に何がそこまでさせたのでしょうか? それこそが愛なのでしょう。
『ナイチンゲールと薔薇』こそが、十九世紀末のデカダンス作家の最高傑作だとわたしは思います。哲学がいくら賢くても、愛の方が賢いし、権力がいくら強くても、愛の方が強い。ただそう語られても何も心に残りませんが、ナイチンゲールが心臓を自ら刺し貫く痛々しいイメージに言葉が重なって、強烈な印象が読後に残ります。
しかし主人公の「学生」は、愛の強さも賢さも理解することはできませんでした。そして本の世界に戻ってしまいます。愛とは誰でも到達できるものではないことをオスカーワイルドは表現したのだと思います。
私も同じことを感じています。こうして私的世界十大小説を紹介していますが、この世でもっともおもしろいこと、もっとも学ぶべきことは本の中にあるのではなく、ナイチンゲールと薔薇のなかにあるのだと思っています。それは誰かに紹介してもらうものではなく、自分で見つけるしかありません。みずからの血を流してもいいと思えるものを。
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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
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※オスカー・ワイルド『獄中記』の書評です。