どうもハルトです。みなさん今日も楽しい旅を続けていますか?
渡辺? 渡部? 渡邉? 渡邊?
職場の同僚の渡邉の漢字を渡邊と間違えて書いたらすごく怒られた。オレの名前を憶えていない。そんなにオレは存在感がないのか、と。うざったいなあ。ワタナベのベの字にそこまで厳密にこだわっているのは本人だけじゃないだろうか。
名前の表記にこれほどこだわる民族は日本人だけではないかと思う。あなたの周りにいませんか。「私は渡辺でも渡部でも渡邊でもありません。渡邉です」っていう面倒くさいワタナベ。
人の名前を書き間違えるなんて失礼だと思い込んでいるから起こるのだろう。
taxi? taksi? 言葉は音、わかればいい
でもきっとダグラス・マッカーサーさんをDouglas MacArthurとキチンと書けなくても、日本人ほどダグラスは怒らないだろう。Dagras Mackartherと書いても「あ。おれだ。ダグラス・マッカーサー」と気さくに返事をしてくれそうな気がする。
日本の英語教育ではタクシーのことはtaxiと書かないとスペルミスで点数をもらえないが、実は世界のかなり多くの国でタクシーの表記はtaksiであった。
問題ない。taksiでもちゃんとタクシーと読める。要するに「音で意味が分かれば」いいのだろう。表音文字の世界では細かいスペルミスなんかにこだわるのは、小さなことなのだ。包丁のことは英語でキッチンナイフというが、正確にKitchen knifeと書ける人が世界中にどれだけいるだろうか。knifeなんてクナイフとしか読めない。モンゴル帝国の夏の都ザナドゥをXanaduと書ける英語圏以外の人間がどれだけいるだろう。
こういうスペルミスを零点評価してきた日本の英語教育は正しかったのか? どうでもいいスペルを覚えることに汲々として、肝心の英語はさっぱり喋れない人ばかりじゃないか?
日本語は表意文字であるためにこだわりが残っているのであろうが、本家本元の中国の漢字が省略しまくった簡体字を使っていることを思えば、この際、渡辺でも渡部でも渡邊でも渡邉でもどの文字だっていいじゃないかと思う。小さなことにこだわるなよ。ワタナベ。
言ったことは叶う、強く願ったことは叶う、というのは言霊信仰
それとも名前の漢字の間違いを許せないというのは、もしかして「言霊信仰」のせいかな。
「強く願ったことはかなう」とか「夢をかなえたかったら、その夢を声に出して大きな声で人に言う。そうすれば後に引けないし、その夢を助けてくれる人が現れるから、夢は声にすればかなうんだ」みたいなことを書物にして平気で出版している人がいるが、彼らは「言霊教」の信者、宗教家の方々です。それは真実というよりは信仰です。宗教を敵に回してはなりません。
やっぱりワタナベさんの漢字を間違って、相手に怒られたら、おとなしく謝って訂正しましょう。なにせ相手は宗教家なのですから。ケンカはできませんよね。