手塚治虫の原作漫画『ブラック・ジャック』を息子の手塚眞がアニメ監督しているんだが……
手塚治虫の原作漫画『ブラック・ジャック』を息子の手塚眞がアニメ監督しています。そのアニメ版を見ていました。
わたしは原作漫画を全部読んでいるので、ストーリーをあらかじめ知っていました。
原作漫画『ブラック・ジャック』には、患者が死んでしまうシーンがよく出てきます。天才外科医ブラック・ジャックがどんなに手を尽くしても助けられない患者がけっこうよく出てくるのです。
そこで医者が苦悩したり、患者が潔く死を受け入れたりするのが、原作漫画『ブラック・ジャック』の魅力のひとつです。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
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なんで原作のストーリーを変えるのか? 天才の仕事を寄ってたかって凡人がダメにする。
ところが息子の手塚眞が監督しているアニメ版『ブラック・ジャック』を見ていると、けっこうな確率で原作では死んでしまう患者を生き残る設定に変えてしまっていることに気づきます。
なんでしょうか……なんで原作のストーリーを変えるんでしょうか。原作を変えることで自分に才能があることを見せたいのでしょうか? むしろ凡人ぶりをさらけ出していますけど?
コンプライアンス問題?
ねえ、知らなかった? 人間って、死ぬものなんですよ。
人が死ぬと「そんな残酷なストーリーを見せるな」とテレビ局に苦情が殺到するのでしょうか?
あのね、どんなに苦情をいったって、人間って、死ぬものなんですよ。
なんだか……天才の仕事を凡人たちがよってたかって駄目にしているように見えます。こういうことはよくあるんですよ。
人は死ぬもの。それを隠す意味がわからない。
そもそも私たちは芸術作品の中で、平凡な日常の中では知りえなかった真実や、ありふれたことではない深いことが知りたいのです。
だからあたりまえの平々凡々な日常を見せられてもおもしろくないのです。それは個人の日常で経験していることで、なにも作品を観る必要はありません。
そりゃあ誰だって死ぬのは嫌ですよ。だから必死に生きのびようとします。原作漫画『ブラック・ジャック』にはそういう人の姿がたくさん描かれていました。
でもなかには死んでしまう人もいます。それが真実です。医者がすべての患者を救えるんだったら、死ぬ人なんかいません。
わたしたちは芸術作品の中に、ほとんどの人には不可能なカッコイイ生きざま、そして死にざまを見たいのではないかと思います。
人の心に残って死ぬというのがどういうことなのか、芸術作品の中で知りたいんですよ。
むざむざと生きのびて老醜をさらすのが普通の人間の生き方です。あなたの身の回りにもこういう人たちだらけではありませんか?
別に批判していませんよ、それが普通です。
でもそれを作品で見たいとは思わない。その過程はもうわかりきっていて、それを作品で描いて何の意味があるというのでしょう。
メメント・モリ。死は使いようによっては人生を充実させてくれるもの。
現代この社会では死は注意深く人目から避けられています。あたかもそんなものないかのように。
でも知らなかったですか? 死は厳然としてあるんですよ。
死によって人生を最適化する知恵のように、死は使いようによっては人生を充実させてくれるのです。
DIE WITH ZERO。貯金を残さずゼロで死ぬ方法。死から逆算して人生を最適化する。
わざわざ名作とされた原作(死ぬ主人公のストーリー)を変えて、生きのびさせてしまう意味がわかりません。
わたしたちはブラックジャックの神業メスさばきが見たいんじゃないんですよ。そんなものはどうせウソですし。「ああ、天才外科医が人の命を救ってくれてよかった」とホッとしたいわけでもありません。
そうではなく、人の生死、それに伴う感情、ひとりひとりの決意や潔さや醜さ、人生の重みが見たいんですよ。日常生活では見られない「人の死にざま」をみることができるのが芸術作品のはずです。
それをあえて隠そうとするとは……どういう意図があるんでしょう?
凡才が天才の作品を破壊してしまったようにしか見えませんが。
『ゲッターロボ』のムサシの死にざまが好例。
すごく古い作品で例を出すと『ゲッターロボ』のムサシの死にざまが原作漫画とアニメ版ではあまりにも違いました。ここでいっているのはアレと同じことです。
天才・永井豪の原作漫画のムサシの覚悟の死にざまはものすごくカッコよくて深く考えさせられたのに、アニメ版の死にざまはただ無様でカッコワルイ奴になってしまいました。そして何も知恵や気持ちを深めてくれませんでした。
鉄腕アトムの最終回も「死の回」でしたね。そういえば。
凡才が天才の作品を破壊してしまったようにしか見えませんでした。
天才は殺し、凡才は生かす。天才は真実をあばき、凡才は真実をあつかえない。
どうしてすばらしいお手本が目の前にあるのに、後に続くものが凡作しかつくれないのでしょうか。
天才は真実をあばき、凡才は真実を扱えない、とでもいったらいいのかもしれません。
凡人にはよく見えないものをまざまざと見せつけてくれる人を芸術家といいます。うまく言葉にできないことを言葉にしてくれるような人がアーティストです。
彼らは危険な存在で、ときには嫌悪感すら感じるでしょう。それは「真実を目の前にまざまざと見せつけるから」です。
そういう意味で手塚眞は芸術家ではないのでしょう。真実を扱えない人物だという気がしました。
日常生活では見ることができない「覚悟の死」「カッコいい死にざま」が見たかったのに、凡人の手によって改変され、日常にありふれた「生きのびる選択」「その後に続く平凡な日常」になってしまいました。
手塚治虫本人が見たら激怒したか、あるいは泣いたんじゃないでしょうか。
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星月夜を舞台に、宇宙を翔けるように、街灯に輝く夜の街を駆け抜けましょう。あなたが走れば、夜の街はイルミネーションを灯したように輝くのです。そして生きるよろこびに満ち溢れたあなたの走りを見て、自分もそんな風に生きたいと、あなたから勇気をもらって、どこかの誰かがあなたの足跡を追いかけて走り出すのです。歓喜を魔法のようにまき散らしながら、この世界を走りましょう。それが市民ランナーという走り方です。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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