ここでは哲学者NO2プラトンの著作の書評をしています。
『饗宴』ひたすら少年愛を賛美する本
プラトン「饗宴」は、現代風にいえば飲み会での下ネタ話でもりあがる、という対話篇です。宴会に集まった人々が、愛の神エロースについて語りあうのですが、ひたすら少年愛を賛美する本でした。女性との性愛は肉欲だけだが、少年との性愛は精神的なもので男女のまぐわいより上質なものだと書いてあります。
少年にとって年上男性との性愛関係は社会への登竜門であり、年上男性が少年を愛し訓育することは社会に対する奉仕であるかのように書いてあります。
字で読む分には何ともありませんが、絵で想像すると気持ち悪いのは、私がノンケだからでしょう。
『パイドン』イデア説。人間にとっての真理であれば、それでいいのでは?
いよいよ難解になってまいりました。イデア説が姿を見せるからですね。
いやそれは「概念だろ」とアリストテレス的に突っ込みつつ、アカデメイアの学生の気持ちで読み進めました。
向いていないんだよなあ、私にはこの考え方。肉体から離れようとするから。そんな場所に何もないと思うもの。
感覚は正確ではないと主張するんだけど、……人間がルールなんだからさ。人間が基準なんだからさ。人間のくせに、人間を基準にしない思想ってどうなのよ? 神の目線で真理じゃなくても、人間にとっての真理であれば、それでいいのでは?
人間が人間に伝える書物なのだから、そこに立脚すればいいのに。と思います。
今この場所この瞬間を旅先のように生きる。集団よりも個を優先する生き方【トウガラシ実存主義】
プラトンはこういいます。金銭の獲得のために戦争が生じる、と。金銭獲得を肉体に強いられるからです。肉体への配慮の奴隷となっている、と。肉体が原因で本当の真、善、美を知れないのだ、と。
キリスト教の本質は、この肉体この意識のまま死者が復活すること、そして永遠の命を得ることができるということ
師のソクラテスが昂然と死に望むためには、死後の世界(イデア界)があることにしなければならなかったわけです。それゆえ魂の不死をむりやり証明しようとしているのでは?
カラマーゾフの兄弟『大審問官』。神は存在するのか? 前提を疑え!
この時代にも、ギリシアの神々の神話とは別に、人間の思想、哲学という学問がありました。その中には死とは人間の消滅であり、魂なんてものはないという唯物論てきな考え方はありました。ソクラテスはそれに異をとなえようと弁論術を駆使します。
魂は調和の種族。肉体が滅ぶと調和が崩れて魂も亡びるという理屈でした。
キリスト教だったら神の王国というところへ、プラトンだったらイデア界というところへ、ソクラテスは肉体とは別に魂だけになって旅立ちます。ここでの主張は滅び去るのは肉体だけだ、と元祖哲学者なのにひじょうに宗教じみています。それでも潔く死をえらぶソクラテスの姿には胸を撃たれますが。
死を先延ばしにしても何の得にもならない。生きることに執着してもう何も残っていないのにそれを惜しむようなことをしては、笑いものになるのが関の山だ。
これが私たちの友人で、語りえる限りでもっとも善く、もっとも叡智に富み、もっとも正しくあった人の最期でした。
プラトンはそのように語りました。その正しくあった人こそソクラテスなわけでした。ソクラテス自身は著作を残さず、すべてプラトンの眼と筆を通じて伝わっています。
プラトンはよほどソクラテスの死に衝撃を受けたんだろうなあ、と感じました。自我が不安やストレスから身を守るためにつくる心の防壁、理論武装を防衛機制といいます。
その防衛機制がプラトンをして大哲学者たらしめたのかもしれません。