「瀬田の唐橋に我が風林火山の旗を立てよ」
今夜は、瀬田の唐橋の下に宿泊です。
かの武田信玄は「瀬田の唐橋に我が風林火山の旗を立てよ」と遺言したと伝えられます。
琵琶湖というのは京都の水がめで、多くの河川が流れ込みますが、流れ出ているのは瀬田川のみです。
その瀬田川にかかる唯一の橋が瀬田の唐橋でした。
迂回せずに陸路で京都に入るためにはどうしても渡らなければならない橋であり、それゆえ「唐橋を制する者は天下を制す」と言われたのです。
どうして唐橋が唯一の橋だったかというと、ちょうどいいところに中の島があるために、橋を二分できたということが大きな理由だろうと思います。
当時の建築技術ではあまりにも長大な橋は難しかったでしょうから。
しかし武田信玄はついに瀬田の唐橋を見ることはありませんでした。
三方ヶ原で徳川家康を破ったのち、三河の地(愛知県東部)で世を去ります。
平将門を討った藤原秀郷の大ムカデ退治の伝説もある瀬田の唐橋下で今夜は泊まらせてもらいます。
武田信玄がついに見ることができなかった瀬田の唐橋と月が美しい夜でした。
いや本当に信玄に見せてやりたかったです。
月夜の瀬田の唐橋は、まるで源氏物語のワンシーンのように幻想的でした。
世の中が平和で国境(関所)がなくなって本当によかった。
朝鮮戦争と朝鮮半島の南北統一に関する個人的見解
武田信玄の戦争も、後世の視点から見れば、結局は「日本国」として統一されていくわけですから、そんなに無理して争わなくてもよかったのに、と思ってしまいます。
結局は山梨県と長野県、岐阜県、新潟県で争っただけです。
当時の国境と思い込んでいたのは、まあヤクザの縄張り争いみたいなものでした。
そのために命を落とした人が大勢います。
このゴールデンウィークの旅の間に、車載テレビで南北朝鮮が停戦協定を終戦協定にしようというニュースを見ました。
そうあってほしいと思います。
現代人が戦国時代を見る時、同じ国同士がそこまでして争わなくてもよかったのにと感じるように、南北朝鮮もひとつの国になればいいと心から思っています。
当時、国と思っていたものは、統一の視点から見ると、県境にしか見えません。
38度線も未来はそう見えると思います。っていうか、絶対にそうなると思います。
だから戦争はやめてください。無駄死にです。
今は絶対に社会経済体制も違うし、相いれない国だと思い込んでいますが、当時の織田信長と武田信玄も同じように思っていたはずです。
瀬田の唐橋下から月と川の流れを眺めながら、そんなことを考えていました。
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