「旅に出たくなる小説」「仕事を辞めたくなる小説」というものがある。
「旅に出たくなる小説」というものがあるように、「仕事を辞めたくなる小説」というものがあります。
ここでは文豪サマセット・モームの『エドワード・バーナードの転落』の魅力に迫ります。しばし『エドワード・バーナードの堕落』と訳されることもある本書ですが、エドワードは本当に転落、堕落したのでしょうか?
作者モームはエドワードの生き方を転落、堕落だと考えていたのでしょうか? そこに迫ります。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
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物語、小説における語り手は「心が動く側」にセットするのが鉄則
人の心が誰かの心に影響を及ぼす。それが小説です。小説では、たいてい影響される側が「語り手」になるのが鉄則です。なぜならヒーローは、「語り手」の心に何かを投げかけて影響を及ぼす存在だからです。
ヒーローは語り手ではありません。語り手にするとヒーロー度が下がります。なぜなら心の中に入っていける側には「謎」「秘密」がないからです。ヒーローの心中はあくまでも「謎」にしておくほうが効果的なのです。
その「謎」が解明されて、理解、共感を得たときに語り手に影響をあたえて、語り手の生き方を変える。それが物語というものです。
それがヒーローの仕事です。「ヒーローの異次元の価値観」が、凡人の語り手の心を揺さぶりかけてくるのです。
旅と読書は似ている。旅人は小説の語り手のようなもの
相方の心に揺さぶられて語り手の生き方が変わる。これは海外旅行にも似ています。
語り手である旅人が、異国のカルチャーにショックを受けて、生き方を変える。それこそまさに海外旅行のだいご味ではないでしょうか。
語り手は自ら感動し、影響される側です。語り手の感動が、読者の感動になるのです。物語を盛り上げるためのピエロ役。それが語り手です。
ヒーローの側はまるで異国のように謎と魅力に満ちて「何か」を投げかけてくるだけです。語り手は異国や相手にラブレターのような「何か」を必死に刻もうとしますが、ほとんどそれはかないません。
なぜ帰ってこないのかという謎で読者をひっぱる冒頭
サマセットモーム「エドワード・バーナードの転落」でも、このスタイルがとられています。
語り手の名前はベイトマン・ハンター。ヒロインの名前はイザベル・ロングスタフ。そしてヒーロー(アンチヒーロー)の名前がエドワード・バーナードです。短編なので、登場人物がすくなくて、わかりやすい物語となっています。
発展しつつある大都市シカゴで生きる男ベイトマンは、タヒチから親友エドワードを連れ戻すことに失敗しました。エドワードはイザベルの婚約者でしたが、タヒチに行ったきりシカゴに帰ってこなかった謎の男です。
エドワードは父の破産で一文無しになってしまったために、タヒチで商売をやっている知り合いの元で働くことになったのでした。見習い期間が終わればタヒチでふさわしい地位につけてあげようという約束もありました。
帰国したらイザベルと結婚し、シカゴで成功するはずでした。それなのに、帰ってこないのはなぜか? この謎で作者は物語をひっぱっていきます。
タヒチと聞いて、あの男のことを連想しないわけにはいきません。『月と六ペンス』の主人公ストリックランドは画家になりタヒチで生涯最高の絵を描き上げてそれを燃やしてしまうのでした。
傑作が燃えて灰になっても、傑作を生み出した元ネタ、すばらしい世界は今も目の前にある。
エドワードもストリックランドのような男なのでしょうか。
帰ってこない男はタヒチで何をしているのか? それを知るための旅
小説『エドワード・バーナードの転落』は三つのセリフに要約することができます。
「いつシカゴへ帰るんだ?」
「たぶんもう帰らないだろう」
「かわいそうな、エドワード」
最初イザベルはエドワードがホームシックで帰ってきてしまうのではないかと心配していました。この機会にアメリカ流のビジネスを世界の果ての島に導入するやり方をしっかりと学んできてほしかったのです。ところが約束の2年が過ぎても、エドワードはシカゴに帰ってきません。イザベルは逆にいつエドワードがシカゴ帰ってくるのか心配することになるのでした。
エドワードのことを知る語り部のベイトマンは、仕事の都合でタヒチに寄ることになりました。そこでエドワードのもとを訪ねて、イザベルの待つシカゴに帰国するように説得する役を買って出たのでした。
タヒチに行くと、エドワードは会社を辞めていました。一年も前にクビになっていたというのです。謎が深まります。
エドワードを探して教えられた場所に行ってみると、エドワードは誰にでもできるようなつまらない仕事をしていました。昔の友達と再会したというのに、しがない仕事を恥じる様子もありません。
シカゴ時代に比べると、エドワードは快活で無頓着で、のんびりしていました。人が変わってしまったかのようです。
人懐っこくて会話好きなのに、婚約者イザベルのことも、その他の話題と同じような風にしか話さないのがベイトマンには不可解でした。
そしてタヒチの友人として紹介されたのは、詐欺の罪で7年の懲役を受けていたアーノルド・ジャクソンでした。シカゴでは親族の恥とされていた人物です。しかもアーノルドは現地妻をもっていました。
こんな男とつきあっているなんて! とベイトマンは憤慨します。アーノルドはシカゴの価値観では許されない人物でした。その男アーノルドに「生き方を習った」とエドワードは言います。そしてシカゴにはいつ帰るのかわからないとさえ言います。
エドワードは変わってしまいました。何が彼を変えたのでしょうか。どうして変わってしまったのでしょうか。
アーノルドの家のパーティーで、腰巻だけの半裸で、エドワードは生きているのが楽しくてしょうがないというふうに水遊びをします。その楽天ぶりにベイトマンはあきれてしまいます。自分はスーツ姿の正装なのに、前科者の主人は日焼けした半裸に花の環を頭に載せているのです。どっちがピエロかわかりません。ふざけている、とベイトマンは怒りを覚えます。
美しい太陽と海。南洋の島の木々。満月の道と輝く星。アーノルドは島の浜辺で波乱に富む一生を送った白人の放浪者の話を語って聞かせます。読者はここでモームの他の南洋もの『赤毛』や『雨』などを思い出してしまいます。
「もう帰らないかもしれない」自分の魂を見つけた男
いつシカゴに帰るのかと聞くと、エドワードはもう帰らないかもしれないと言います。ベイトマンは憤慨して「ここは男の生きるところじゃない。こんな人生は君には向いていない」と諭します。「懸命に働いて、自己の立場と身分に伴う責任を果たすんだ。自分が計画したことを成し遂げたという達成感で報いられるシカゴの生活に戻るべきだ」そうエドワードに力説します。しかし言葉はエドワードに届きません。
のんびりして気楽なタヒチの生活をエドワードは気に入っていたのです。
エドワードは、楽しみのための読書、楽しみのための会話をすることをここで学びました。それらを楽しむためには余暇がいります。
シカゴではいつも忙しすぎました。会社に急ぎ、夜まで必死に働き、急いで帰宅して夕食を取り、劇場に行きます。それが人がこの世に生まれてきた目標なのでしょうか。それでもし財産を築けないなら、あくせくすることに価値があるでしょうか。
エドワードは言います。
自分に魂があるというのを、この島で発見するまでは知らなかった。シカゴで語った魂のことは聾唖者が音楽を論じ合うようなものだった、と。
イザベルはどうなるんだ、とベイトマンが聞くと、
「僕は期待に添えなかった。貧乏で、しかもそれに満足している。僕は彼女に値しない」
半裸のパレオ姿で、エドワードは答えました。頭にバラの花輪を乗せて。ふざけた格好だとベイトマンは憤慨します。
仕事に失敗したのが恥ずかしくて帰国しないのかと思っていたら、夢にも思わなかった事態に遭遇しました。君の才能、若さ、チャンスを無駄にするなんて。タヒチで自殺に等しい無駄な人生を送るのか?
ベイトマンの必死の言葉もエドワードには届きません。エドワードの言葉がベイトマンに届かないように。
「無限の顔を持つ海と空。爽やかな夜明けと美しい日没。芳醇な夜。愛する家族と書物。幸福で素朴で平和な一生。僕は自分の魂を手に入れたと思う。僕は成功したのだ」
モームが夢にみた「もうひとりの自分」
「婚約はエドワードにやる気を出させるためだったの」と自分に嘘をついてイザベルは婚約を破棄します。イソップ物語「酸っぱいブドウ」みたいな自己肯定化です。そしてベイトマンの求婚に応じるのでした。イザベルとベイトマンはシカゴで生きる人間です。エドワードはタヒチで生きる道を選びました。
シカゴで成功し、金持ちになる夢を二人は脳裏に描きます。会社で成功し、アンティーク家具で飾った館に住む夢です。美術館や晩餐会の夢でした。「可哀そうなエドワード」イザベルのため息で物語は終わります。
サマセットモームが作品タイトルを「転落」としたのは、大多数の人にはエドワードの心境が理解できないことを知っていたからだろうと思います。ほとんどの人はタヒチで暮らしません。シカゴで暮らすのです。ほとんどの人は海と空を選びません。美術館や晩餐会を選ぶのです。
エドワードの生き方は、生涯を旅に費やし、世界中をめぐり、南太平洋の島々を船で渡った作者サマセット・モームが、激務の中で夢みた「もうひとりの自分」だったのではないでしょうか。あるいは実際にエドワードのような白人を見て「自分もそっち側に行きたい」と熱望したことが作品を書かせたのだと思います。
サマセット・モーム『人間の絆』人生という絨毯にカッコいい模様を描こうぜ!
この社会においてノーマルなのはベイトマンです。エドワードは異端です。でも、エドワードは、人間のクズなのでしょうか。本書のタイトルは『エドワード・バーナードの転落』ですが、エドワードは本当に転落してしまったのでしょうか?
作者モームは、エドワードのことを本当に転落したと思っていたのでしょうか?
それとも皮肉なアンチテーゼでしょうか?
少数者の理想を体現しているアンチヒーロー
モームはエドワードのことを「転落」したとは思っていないはずです。むしろ自分の魂と生き方を見つけて大切なもののために他の何かを犠牲にすることができる一種のアンチヒーローとして描いているはずです。少数者のヒーロー。エドワードは少数派の理想を生きている男なのです。
「転落」「堕落」としたのは、普通の生き方目線からの表現です。しかし落ちぶれていったものを憐れむだけの小説ではありません。転落したはずのエドワードが爽やかで、輝いてみえるのはなぜでしょうか。この小説を読んで、ベイトマンではなく、エドワードのような生き方をしたいと思った読者もいるはずです。
なによりも作者モーム自身がそうだったのではないかと思うのです。そうでなければ、このように小説が輝くはずがありません。
ただしそれは少数派、一部の人だけであることを作者は知り抜いていて、本当は『エドワード・バーナードの「変身」「悟り」』と書いてもいいところを、あえて転落・堕落という表現を使ったのでしょう。
たとえ世界を得ても、自分自身を失ったら何になろうか。エドワードの生き方はそう訴えかけてくるのです。
勝つのは一人。でも人生に心から満足できるのは一人だけではない
生き方は一つではありません。
世界チャンピオンだけがヒーローでしょうか?
勝つのは一人です。でも人生に心から満足できるのは一人だけではありません。
敗れて転落してもなお心から人生に満足することができるアンチヒーローが世の中には絶対に必要なはずです。
ベイトマンがエドワードの生き方を変えられなかったように、エドワードもベイトマンの生き方を変えることはできませんでした。
もっともそんなことを望んでもいません。エドワードは人に範を垂れようとしたわけではなく、自分の生き方を選択したにすぎないからです。
エドワードはベイトマンにとってのヒーローにはなりませんでした。しかしごく一部の読者のヒーローとなったのです。
あなたはどちらに憧れましたか? 大都市シカゴで成功を夢見るベイトマンでしょうか。南洋の島タヒチでのんびりと自然と暮らすエドワードでしょうか。
遊民主義。美しいもの、豊かなものは、天地(あめつち)が人にもたらしてくれる
きっと誰かがエドワードを必要としています。わたし自身、各国を放浪した経験がなければ、おそらく肌感覚として理解できなかっただろうと思います。
諸国を放浪して回っていると、何もしないで寝転がっている人「遊民」を少なからず見かけます。
東南アジアでは、スーツ姿で仕事をしている人が貧しく見えました。働かざるを得ないから働いているまずしい人という風に見えたのです。
そして公園で寝転がっている遊民が実に豊かに見えたものでした。もちろん気候がいいからそう見えるのですが、別に働かなくてもいいから働かない、という感じです。どっちが豊かに見えたかは言うまでもありません。決まりきった時間に決まりきった場所に行って決まりきったことをしなければならないのは、一番貧しい生活なのかもしれません。
わたし自身、エドワードのように「あっちがわ」遊民の側に行きたいと熱望したのです。遊民の豊かさとは金銭的なものでは決してありません。しばりのない豊かな時間こそが遊民の宝ものです。
美しいもの、豊かなものは、天地(あめつち)が人にもたらしてくれるのです。
こういう小説を読むと、また再び放浪の旅に出たくなります。仕事のために戻ってくる旅ではなく、もしかしたら帰ってこないかもしれない永遠の旅に。
生きることそのものが放浪の旅なのです。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちらをご覧ください。
私は反あらすじ派です。作品のあらすじ、主題はあんがい単純なものです。要約すればたった数行で作者の言いたかった趣旨は尽きてしまいます。世の中にはたくさんの物語がありますが、主役のキャラクター、ストーリーは違っても、要約した趣旨は同じようなものだったりします。
たいていの物語は、主人公が何かを追いかけるか、何かから逃げる話しですよね? 生まれ、よろこび、苦しみ、死んでいく話のはずです。あらすじは短くすればするほど、どの物語も同じものになってしまいます。だったら何のためにたくさんの物語があるのでしょうか。
あらすじや要約した主題からは何も生まれません。観念的な言葉で語らず、血の通った物語にしたことで、作品は生命を得て、主題以上のものになるのです。
作品のあらすじを知って、それで読んだ気にならないでください。作品の命はそこにはないのです。
人間描写のおもしろさ、つまり小説力があれば、どんなあらすじだって面白く書けるし、それがなければ、どんなあらすじだってつまらない作品にしかなりません。
しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することを私はオススメしています。
作品のあらすじや主題の紹介は、そのように活用してください。
※※他のサマセット・モーム作品についての書評も書いています。よかったらこちらもご覧ください。