アランは肉体主義者。
(世界? っていうより西洋)三大幸福論のひとつ、アランの幸福論を読破しました。
この人、おれに似てるな、と思いました。コテコテの肉体主義者さんでした。
三島由紀夫が太宰治に対して「太宰のもっていた性格的欠陥は、少くともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった」といったそうですが、コレも同じですね。
アラン『幸福論』の内容、真髄
アランの幸福論は、その後、多くの人に影響を与えました。それゆえに今日の読者が読むと、どこかで聞いたようなことばかりが書いてあります。
「お金や名声などの外的要因ではなく、心の持ちようが幸福を生む」
「ポジティブシンキングで、理性的に、意志と努力で幸福をつくれ」
これが三大幸福論の正体です。ね? なんかこれまでに百回ぐらい聞いたことがあるような内容じゃありません?
ですから私がここでとりあげたいのは、上のようなありきたりな幸福論ではなく、アランの肉体重視の姿勢です。アランは、精神と肉体は密接につながっていると考えていました。これはたとえば、体を動かすことによって、心も明るく前向きになれる、というふうな知恵です。心の状態を変えたければ、まず肉体を動かせ、というわけです。キリスト教的思想だと、精神を重視するあまり、肉体を別個のものとして軽んじてしまう傾向があるのですが、アランはそうはなりませんでした。
これは三島が太宰に言ったことも同じ発想です。おそらくこのことさえも、学生時代に勉強もせずに運動ばかりやっていた体力派は、教えられるまでもなく経験知として知っていることではないでしょうか。
ただ、アランのいうのは、精神だけでなく肉体もきちんと使うことが大事だということであり、あくまでも精神が主、肉体は従です。そういうところはきちんと思想家の域にとどまっています。
私の肉体宣言は、精神よりもむしろ肉体の方が大事という、主客転倒したもので、そこが違います。最近では脳を鍛えるには運動しかない、という先生もいます。鍛えた脳を何に使うか、という問いかけはありません。鍛えた脳はもちろん肉体のためにフィードバックします。こちらの方が私の肉体宣言に近いですね。精神、そんなに必要でしょうか?
アラン『幸福論』の詳細
うまく説明がつかないので苛立っている。だが現実には、幸福になる理由や不幸になる理由にたいした意味はない。すべては身体の調子にかかっている。
情念というものは、体内の運動に左右される。血液の循環や神経と脳髄をめぐる液体の流れによる。
苦しんでいる人は、前の晩だったら不幸と考えたはずの凡庸な状態を、このうえない幸福のように渇望する。
礼拝は快楽。拝跪はくせになる。
ひざまずき怒りを追い出す姿勢をとれば、必ずやすらぎが得られる。情念を生むのは身体の変化や動揺であり、したがって適切な運動や動作で癒せるのではないか。姿勢や礼儀によって気分が変わるのは奇蹟ではない。
→イスラームの礼拝のポーズを知っていますか? わたしは信者じゃありませんが、よく同じポーズで背伸びをしています。とても気持ちがいいですよ。目が覚めたら拝跪背伸びのポーズをとりたくなります。ほとんど信者?
最初の舵の取り方で航海の行方が決することはない。運命を信じ込むのはメデューサの頭を見ることだ。
夢の達成そのものよりも、夢の途中の情熱の方にこそ価値がある。
忙しくしているからこそ、幸福でいられるのである。落胆して不幸な時でさえ、その不幸によって幸福になる。なぜなら不幸を退治する方法を追い求めるからだ。こうして追い求めることが、不幸をほんとうに退治する。
人間はみずから行動したいのであって、あたえられたものを耐え忍びたいのではない。人は心の奥底で自分の力だけを愛しているのだろう。
人を座り込ませるような富は退屈なものである。人が喜びとするのはもっと多くを目指し、もっと努力したくなるような富である。休むための富ではなく、行動するための富である。
傍観者でいるよりも、行動者たれ
音楽にしても自分でやるより聴くだけの方がいいという人はまずいまい。むずかしいほどおもしろいのである。何の努力もせずにもらえるとしたら誰も金メダルなんて欲しがらないだろうし、負ける恐れがないなら誰もトランプ遊びなどしないだろう。
→わたしの著書「市民ランナーという走り方」のあとがきにこう書いたのを思い出しました。「オリンピックの選手をテレビで眺めているよりも、たかが市民ランナーであっても自分が外に出て走った方がいいのです。自分がどう生きるか、自分がどう走るか、大切なのはそこなのですから。」アランのことを「わたしに似ている」と思った、というのが理解していただけたでしょうか?
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※雑誌『ランナーズ』の元ライターである本ブログの筆者の書籍『市民ランナーという走り方』(サブスリー・グランドスラム養成講座)。Amazon電子書籍版、ペーパーバック版(紙書籍)発売中。
「コーチのひとことで私のランニングは劇的に進化しました」エリートランナーがこう言っているのを聞くことがあります。市民ランナーはこのような奇跡を体験することはできないのでしょうか?
いいえ。できます。そのために書かれた本が本書『市民ランナーという走り方』。ランニングフォームをつくるための脳内イメージワードによって速く走れるようになるという新メソッドを本書では提唱しています。「言葉の力によって速くなる」という本書の新理論によって、あなたのランニングを進化させ、現状を打破し、自己ベスト更新、そして市民ランナーの三冠・グランドスラム(マラソン・サブスリー。100km・サブテン。富士登山競争のサミッター)を達成するのをサポートします。
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あなたはどうして走るのですか? あなたよりも速く走る人はいくらでもいるというのに。市民ランナーがなぜ走るのか、本書では一つの答えを提示しています。
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どんなレースに出ても自分よりも速くて強いランナーがいます。それが市民ランナーの現実です。勝てないのになお走るのはなぜでしょうか? どうせいつか死んでしまうからといって、今すぐに生きることを諦めるわけにはいきません。未完成で勝負して、未完成で引退して、未完成のまま死んでいくのが人生ではありませんか? あなたはどうして走るのですか?
星月夜を舞台に、宇宙を翔けるように、街灯に輝く夜の街を駆け抜けましょう。あなたが走れば、夜の街はイルミネーションを灯したように輝くのです。そして生きるよろこびに満ち溢れたあなたの走りを見て、自分もそんな風に生きたいと、あなたから勇気をもらって、どこかの誰かがあなたの足跡を追いかけて走り出すのです。歓喜を魔法のようにまき散らしながら、この世界を走りましょう。それが市民ランナーという走り方です。
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哲学は繰り返す。アランがはじめて言ったわけではない。
われわれが耐えなければならないのは現在だけである。過去も未来もわれわれを苦しめることはできない。なぜなら過去はもはや存在せず、未来はいまだ存在しないからだ。
似たような哲学の言葉があります。「死をなぜおそれるのか? あなたが生きているあいだ死は存在せず、あなたが死ぬやいなや何も感じなくなるというのに」
古代ギリシア哲学者の言葉です。このように哲学というのは繰り返すのです。西洋三大幸福論だからってアランがはじめて言ったわけではありません。似たようなものに、
幸福だから笑うのではない。笑うから幸福なのだ。
という文章がありました。これもよく聞く言葉ですね。文章となったものをアランの幸福論ではじめて読みましたが、おそらくこれもアランがはじめて言った言葉ではないと思います。紀元前のギリシア哲学者が同じようなことを言っているのだろうと思います。それが哲学というものです。
幸福論をいくら読んでも幸せになれるわけではない
怒りは筋肉が収縮した状態なのだから、運動や音楽がきく。これに対してどんな立派な理論も怒りの爆発には役に立たない。
戦争は熱狂や興奮に起因する。
実際に行動することの利点は、選ばなかった選択肢は忘れられることである。
礼儀とは外見の幸福にほかならず、それに周りが感応する。愚痴をこぼさない。
自分の不幸を絶対に人に言わないこと。なぜなら悲しみは毒のようなものだからだ。
悲観主義は気分に、楽観主義は意志による。ともかくも幸福になることを誓わなければいけない。
わたしの幸福論。不幸の中にも燃えるような幸福がある。
アランの『幸福論』は難しい哲学書ではありません。スラスラと読めます。でも読んで面白いかといったら別の話しです。幸福論を読んだからって幸福になれるわけではありません。
どちらかといえばわたしは『マノン・レスコー』のように、悲劇な不幸に突っ走る物語をおののきながら読んだときの方が、自分の幸福を感じることがあります。不幸なマノンやグリューに上から目線で同情し自分の幸福を噛みしめているわけではなく、彼らはきっと幸福な気持ちを瞬間燃えるように感じて生きたんだろうなあと感じるからです。不幸の物語の中に、彼らの幸福をめいっぱい感じます。
いっけんすると不幸の中にも燃えるような幸福がある。それが私アリクラハルトの幸福論です。他の生き方を選べない。一般的に不幸のように見えても、命と引きかえにできるような価値や幸福があることもあります。そういうものを探すことが、劇的に生きるということなのでしょう。