自由イコール幸せ、自由は幸福の象徴か?
このページではオルダス・ハクスリー著『すばらしい新世界』という書籍を通じて、幸福とは何かをみなさんと一緒に学んでいきたいと思っています。
また明示されていないラストについても解説します【ネタバレあり】。
野蛮人ジョンは新世界のつくられた安直な幸福の中に生きることができませんでした。他の世界を知っていたからです。生まれ育った場所が違ったからです。
たしかに自由だったのはジョンでしょう。しかし、幸せだったのは、新世界の住人か、野蛮人ジョンか、どちらでしょうか。
自由は、ほんとうにしあわせの象徴なのでしょうか?
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
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【書評】『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー
作品世界に描かれる楽園とはこのようなものである。
最終戦争の後、人類は過ちを繰り返さないように、新世界を建設した。神や過去の歴史などは抹殺した。その代わりに大量生産、大量消費がルールとなっている。
子どもは培養瓶から取り出されるため親子関係は存在しない。フリーセックスなので夫婦、恋人関係も存在しない。
蚊やハエの絶滅した世界なので、病気になることはなく、60歳でコロリと死ぬまで老醜をさらすことはない。
らんちき騒ぎを好むような若者特有の嗜好は生涯変わることはなく、性欲も若いままに続く。
人々は孤独になることはなく、常に誰かと一緒にいる。
万が一、意に添わないことがあったとしても古代インドの神の飲料の名を持つ「ソーマ」を飲めば、問題は解決してしまう。
ソーマは幸福感をもたらす副作用のないドラッグである。
幸福とは、せんじ詰めれば、脳内に幸福ホルモンが満たされた状態なのだから、幸福ホルモンを摂取すれば無条件で幸福になれる。だからソーマを飲めば、とにかく脳内に幸福を感じるホルモンと同じものが満たされて、人は幸福の中に眠りこけてしまう。
たとえば原爆など、いきすぎた科学は人類を不幸にするだけだと考えられているので、一定のところで科学の発展は止められている。
遺伝子操作で人間は職業別に階級分けされているが、洗脳により不満を持つことはない。なによりもソーマさえあれば……。
『すばらしい新世界』はユートピア小説
ディストピア小説(暗黒郷、反ユートピア)小説とされているが、それほど反ユートピアと思えない。すばらしい新世界のどこが暗黒郷、反ユートピアなのか?
現代人の感覚を保存している「野蛮人ジョン」が感じる疑問がそのままこの疑問に対する答えである。
結局、ジョンは神を要求し、母を要求し、不幸になる権利を要求するだけなのだ。ふるさと、を要求しているようなものである。幼い頃に見た世界を——
老いもなく、孤独もなく、禁欲の必要もない、不幸感をソーマで消せる世界に対して、ジョンはそれしか要求のしようがなかったのだ。
私などは「いいではないか」と思ってしまう。すばらしい新世界ではないか?
これからも科学技術が際限なく発展し続けたら、人類はあと千年もたないのではないか?
西暦3020年を人類は無事に迎えられるだろうか?
これに対して、同時に読んだジョージ・オーウェルの『1984年』は、正真正銘の反ユートピア小説だった。
『1984年』も最終戦争の後の世界を描いている。
やはり歴史は改ざん、抹消されていて、現体制だけが正しいものとされている。常に監視されている世界で、主人公は網にかかって拷問されて、思想転向させられるのだ。
同じディストピア小説でも、『1984年』は暗すぎて通読できなかった。途中で気が滅入っていやになってしまったのだ。いかに斬新な未来像を提示していようとも、気が滅入るような地獄世界の描写など読みたくない。
楽しむために、生きているのだから。
しかし『すばらしい新世界』は楽しく通読できた。作品の大半を占める世界観が気が滅入るような暗い世界ではないからだ。
むしろ『すばらしい新世界』はユートピア小説なのではないか、とさえ思う。この小説を反ユートピアとしか見られない人は、今の自分、今の世界が大好きで、それを否定されたくない人でしかないのではないだろうか? ジョンが「ふるさと」を要求したように。
物語は進化する。現代読者は単純な勧善懲悪ストーリーでは満足しない
作品は歴史を重ねて進化します。
たとえば昔の「ヒーローもの」は、誰が見ても悪を相手に、誰が見ても善が戦うという単純なものでした。たとえば『マジンガーZ』では私利私欲のために世界征服をたくらむ悪の帝王の野望を打ち砕くべく正義のヒーローが戦うというような単純な勧善懲悪ストーリーでした。
しかし『宇宙戦艦ヤマト』ぐらいからでしょうか。敵には敵の正義があるってことになってきました。ガミラス軍が侵略戦争を仕掛けたのも自らの生存権のためにやむを得ずだった、というように。戦艦大和がモデルなので、現実の戦争を作品に取り入れたために、アメリカ軍にはアメリカ軍の正義があるかもしれないが、日本軍にも日本軍の正義があったのだ、というふうに思えるようになってストーリーに深みが出てきました。
これが『機動戦士ガンダム』ぐらいになるともうジオン軍と連邦軍のどっちが正義かわかりません。サイド3の独立を認めてやればよかったんじゃないか?
そのような意味で、同じディストピア小説でも『1984年』の架空世界は、あきらかに悪の世界が支配しています。それに正義が負けて呑み込まれてしまうというストーリー展開をしていきます。そういうところが通読できなかった理由の一つでもあります。新世界の世界観に共感できないと、面白くないのです。勧善懲悪ストーリーと同じです。底が浅く、しかも良心の主人公サイドがラストで潰されてしまうわけですから後味が悪いのです。
それに対して『すばらしい新世界』が描く新世界には一定の「すばらしさ」があります。現代よりも、こっちの新世界の方がいいじゃないかと思わせる魅力があるのです。野生児ジョンと新世界は対立するのですが、ジョンの理屈よりも、新世界の理屈の方が説得力のある幸福論に聞こえます。
不幸になる自由を要求する
『すばらしい世界』は単純にユートピア小説だったんじゃないか。
私はそう書きました。
しかしその世界と対決する現代人の感覚をもっている「野蛮人ジョン」は、神を要求し、母を要求し、不幸になる権利を要求します。
「老いて醜くなり、無力になる権利はもちろん、梅毒や癌にかかる権利、食料不足に陥る権利、虱にたかられる権利、あしたどうなるかわらかないという不安をつねに抱えて生きる権利、腸チフスになる権利、あらゆる種類の言語に絶する苦痛に苛まれる権利も。そのすべてを要求します」
ジョンが要求したものは、要するに「不幸」です。「昔からあったもの」です。
逆にいえば、これらはもうこの「すばらしい新世界」にはないのです。
私の人生を変えた本『サド侯爵夫人』にも似たようなセリフがあります。
ルネ「人に笑われ蔑まれるためのお金は、びた一文もお使いにならなかった」
原初の闇から発する言葉には力があります。人間の根源から発した問いや要求には人の心を震わせる力があります。
ましてや私たち読者は、ジョンと同じ境遇です。母がいて、家族があり、病気や貧困の不安を抱えて生きています。
ジョンの肯定に私たちは感動します。
しかし、それは「自分を肯定したい気持ち」からかもしれません。
××はレベルが上がった(まとめ)
野蛮人ジョンは新世界のつくられた安直な幸福の中に生きることができませんでした。
他の世界を知っていたからです。生まれ育った場所が違ったからです。
ジョンは荒野の修行僧のような暮らしをはじめます。
知っていますが? ジョンというのはイエスを洗礼した預言者ヨハネの英語読みです。
キリスト教が世界一の信者数を誇る不滅の宗教であるのはなぜなのか?
しかし「すばらしい新世界」の同一、均質な人たちは、自分たちとまるで違うジョンに過剰な干渉をよせ、彼の修行を邪魔します。
そしてとうとうジョンは、自分がしょっちゅう唱えていたシェイクスピア作品のオセロやロミオのように、自殺してしまいました。
「すばらしい新世界」の住人は自殺なんかしません。自殺する理由がないからです。シェイクスピア作品なんて読みもしないし、知りもしないからです。
自殺する自由、自分の命を好きなように使っていい自由を、野蛮人ジョンだけが持っていたのです。
たしかに自由だったのはジョンでしょう。しかし、幸せだったのは、新世界の住人か、野蛮人ジョンか、どちらでしょうか。