人間本来の人道的な性質(ヒューマニズム)と、社会的正義(法や規則)が対立した場合、あなただったらどちらに従いますか?
自分の心に従いますか? それとも社会のルールに従いますか?
このページでは、家族の正義と社会的正義が対立した場合を描いた二つの作品を通して、良心と社会のルールが対立した場合、私たちはどのような態度をとればいいのかを考えていきます。

映画『セブン・シスターズ』とは【映画評】
映画『セブン・シスターズ』は、架空の未来を描いたディストピア映画です。
人口爆発、食糧難などで人類がヤバい状況にある、設定なので、社会のルールとして「一人っ子政策」が徹底されています。
法は平等をたっとびます。ある家族が一人っ子で我慢しているのに、別の家族だけ7人も子供を育てては、示しがつきません。誰も社会のルールに従わなくなってしまいます。
実際、すこしまえの中国では一人っ子政策があったわけですし、人類全体が食糧難で沈むよりは……という理屈には説得力があります。
むちゃくちゃなルールだとは言えないのです。
しかしある家族に一卵性の七つ子が生まれてしまいました。本来であれば、6人は育ててはならないのですが、闇医者に金を払って7人の姉妹全員を生きのびさせることに成功します。
一卵性だったために7人を「一人の人間」として育てることにしたのです。
秘密がばれると7人は「社会のルール違反者」として殺されてしまいます。
しかし7人姉妹は生きるために、一緒に戦うのです。
人類全体のためにルールを徹底しようという論理と、どうして生きのびちゃいけないんだ納得できないという人間の生命の論理が、戦いながらぶつかりあいます。
どちらも正当なことを言っているように見えます。
明らかにどちらかが理不尽な、単純な勧善懲悪劇ではありません。
けっきょく7人姉妹の秘密がばれたのは、姉妹のひとりが裏切ったからでした。
しかし裏切ったのも、人間の生命力ヒューマニズムのゆえの悲しい決断でした。
そして映画『セブン・シスターズ』の物語上の結論は、一人っ子政策という法の正論ではなく、人間の生きる力・ヒューマニズムが勝利をおさめるというストーリーです。
ギリシア悲劇ソフォクレス『アンディゴネー』とは【書評】
古代ギリシア悲劇『アンディゴネー』は、エディプス王の娘の話しです。
作者のソフォクレスは「エディプスコンプレックス(母を愛し父を憎むという少年期の心理)」の名前の由来となった『オイディプス王』の作者でもあります。
『アンディゴネー』もまた、自分の心に従いますか? それとも社会のルールに従いますか? というストーリー展開になっています。
国家反逆者として死んだ兄弟を埋葬するというアンディゴネーと、国家反逆者を丁重に葬るなんて許さないという王との論理の対決が展開されていきます。
やはり、どちらも正論を言っています。両者とも間違ったことは言っていないのです。
王の理屈は、ちゃんとしています。
近代の国家でも、反逆者はさらし首とか、遺体は野犬に食わせるとか、家族に埋葬を許さないなんて探せばいくらでも事例はあります。
しかしアンティゴネーは王権を恐れません。王権よりも神のルールを恐れています。
古代ギリシアでは、遺体の埋葬は神聖な行事だったようです。
最古のギリシア古典イリアスでも戦死者の遺体を奪い合っています。死んだパトロクロスやアキレウスの遺体を両軍で奪い合います。
奪われては不名誉であるし、見方の軍勢で丁重に埋葬するためです。
いちばん有名なのは敵将ヘクトルの遺体を、トロイヤの父王が深夜、アキレウスのところに忍び泣きにもらい受けに行くシーンです。それほど遺体の埋葬は神聖な行事だったのですね。

王権に逆らって兄弟を埋葬したアンティゴネーは、地下牢に繋がれてしまいます。
やはり地上の権力には逆らえないのかと思っていると、大どんでん返しが待っています。
アンディゴネーは自分の心を貫いて兄弟を埋葬した後牢屋の中で自殺し、その婚約者である王子が悲しみのあまり後追い自殺し、その母親である妃が悲しみのあまり後追い自殺して、王は身も世もあらず後悔するという話しです。
結局、ストーリー上は、家族を埋葬する人間の良心に従ったアンディゴネーが勝ち、社会のルールを守ろうとした王がおのれの対応を後悔して終わります。
社会の秩序と、人の情では、人の情が勝つのが芸術の王道
『セブン・シスターズ』も、『アンディゴネー』も論争テーマは同じです。
自分の心に従いますか? それとも社会のルールに従いますか?
2017年の公開の映画と紀元前442年ごろの作品が、同じテーマを語り合っているわけです。
人間、昔からそんなに賢くなっていないと思いませんか?
結論が違えば、物語も進化したと思えるかもしれませんが、両作品ともに勝つのは社会のルールではなく、人情でした。
そう考えるとソフォクレスの凄さが際立ちます。年代を考えると非常によくできた作品ですよね。
物語だって進化するはずなのに……。
王に「犯人を見つけないと拷問してやる」と言われ「俺がもう一回ここへ来るのを、あんたが目にすることはないね(わざわざ拷問されにまた来るわけねーだろバーカ)」と呟くアンディゴネーの兄弟の死骸の番人などは、シェイクスピアの道化を連想させます。
ソフォクレスの技は、すごいものだと思いますね。
ハッピーエンドは物語が進化したと言えるのか?
『セブン・シスターズ』は近代映画ですから、まあいちおうハッピーエンドらしく終わります。
死んでしまった姉妹たちは甦りませんが、いちおう希望を提示して終わります。
人間の生命力ヒューマニズムが勝ち、一人っ子政策で殺されるはずだった赤ん坊たちは命を救われる、という希望が。
近代映画の黄金律として、なにせ映画はハッピーエンドですよね。
脚本家のメソッドとしても、最後はハッピーエンドにしないと、お客様を満足させることができないとされています。
バッドエンドだと「後味がわるい」と苦情が来るのだそうです。
ところがギリシア悲劇というぐらいですから、『アンティゴネー』は悲劇で終わります。完全な悲劇です。希望も救いもありません。
しかしそれだけに考えさせられます。
最後に希望があると、ちょっとそこで安心してしまいます。「ああ、よかった」で思考停止してしまいます。
しかし悲劇は、終わってからが始まりです。
非常に考えさせられるのです。
何とか救う方法はなかったものか、と。もっといい方法があったんじゃないか、と。
完全な悲劇は、近代作品ではあまり見ることができません。
とくに映画ではまず見られないストーリー展開です。
私にはそれが新鮮でした。
ところで、自分の心に従いますか? それとも社会のルールに従いますか? という対立の構図はちっとも進化していなかった二作品ですが、『セブン・シスターズ』はハッピーエンドの近代作品、『アンティゴネー』は救いのない悲劇です。
これは物語が進化したと言えるのでしょうか?
もしかしたら物語は退化してしまったのかもしれませんね。
あなたはどう思いますか?
いつかそういう場面が来たら、勇気をもって私は自分の心に従いたいと思っています。
あなたはどうでしょうか?


