靖国神社の「みたままつり」東京の七月盆の謎
いつまでも東京近郊に住んでいるわけじゃないので(常に終の棲家を探しています)、ここ数年のうちに東京近郊のイベントは味わい尽くしておきたいと思っています。
そのような方針のもと、靖国神社の「みたままつり」に行ってきました。
ご存知のとおり靖国神社というのはサルタヒコとかヒトコトヌシとか「なんで拝まなきゃわからない神さま」ではなく、日本国の建国に尽くした英霊が祀られています。そういう意味では参拝しやすい場所です。ありがとうございます、と素直に頭を下げることができました。
日本の神さま。この神社に何でその神様が祀られているのかが不明な謎
大平洋戦争で死んだ兵士たちは「靖国で会おう」と約束して死んでいきました。その英霊たちがお盆に帰ってくるというのが「みたままつり」ですね。
ん? お盆? お盆って8/13-8/16じゃありません?
なんで七月に盆のお祭り(みたままつり)をしているのでしょうか?
東京の七月盆。名をとるか実をとるか二つの選択肢があった
靖国神社の「みたままつり」が開催されるのは7/13-7/16だそうです。これはれっきとした「お盆」のお祭りです。その証拠に参道のど真ん中で盆踊り(東京音頭など)を踊っていました。
私は知らなかったのですが、なんと東京ではお盆を七月にやるのだそうです。これを東京の七月盆というそうです。みなさん、知っていましたか? まだまだ知らないことたくさんあるなあ、東京!(私は千葉県人です)。
なんで東京では七月にお盆をやることになったかというと明治時代のはじめにこれまでの太陰暦(太陰太陽暦)から国際標準の太陽暦になったから。暦が変わったのです。
これによって約一カ月、日付が前倒しになりました。今日までの8月15日を明日からは7月15日と呼ばなければならなくなったのです。面倒なので本稿ではちょうど一カ月、月日が前倒しになったことにして稿を進めます。ご了承ねがいます。
これによっていろいろな混乱が生じました。そのうちのひとつに「お盆」があります。
お盆というのは昔から「7月15日」にやるものとされていました。でも実際には今でいう8月15日に行っていたのです。さて、こうなったときに名をとるか実をとるか、どちらを取りますか? ここで二派に分かれました。
「お盆は7月15日なんだから新暦になっても7月15日にやるべきだ」という「ルールはルールだ」勢力。明文化されているものに弱いタイプですね。東京はこちらの勢力でした。お盆=7月、という名をとったのです。それに対して、大半の地方では、
「ご先祖様が戻ってくる日がお盆。それは旧暦7月15日なんだから新暦8月15日にお盆の行事を行うべきだ」という実をとったのです。これには農繁期も関係していたようです。新暦7月15日よりも古からの慣習どおり8月15日の方が営農に都合がよかったことも影響して大半の地域では「お盆=8月」という実をとりました。東京は田んぼがあまり関係なかったのと、新政府の権力が大きかったのが理由で名をとって七月盆となったのでした。
七夕伝説も被害者。梅雨の真っ最中で織姫・彦星は見られなくなった
太陰暦が太陽暦に代わった影響は他にもあります。たとえば七夕。
昔から七夕というのは昔から7月7日に行うものと決まっています。昔からというのは旧暦7月7日という意味ですね。旧暦7月7日というのは、新暦でいう8月7日のことです。実をとるのであれば、七夕というのは新暦8月7日に行うのが正しいのです。
関東地方目線でいうと8月7日はもう梅雨も終わっていますが、7月7日は思いきり梅雨の真っただ中です。
七夕といえば夜空の銀河をまたいで織姫(ベガ)と彦星(アルタイル)を眺めるのがロマンでした。しかしそういうロマンは新暦になって見にくくなっているのです。だって夜空には梅雨雲がかかっていて星空なんか見えないじゃん。
「東京の七月盆」のケースから類推すると、名をとって7月7日に七夕を行う勢力と、実をとって8月7日に七夕を行う勢力に分かれてもよさそうなものですが、七夕の場合はほぼ日本中で7月7日に行っているのではないかと思います。中国の物語にすぎない七夕伝説と、仏教に由来するご先祖様の里帰りであるお盆にくらべると、重みが違ったのでしょう。七夕なんてはっきりいってどっちでもよかったんだと思いますね。
このことから「名をとるか実をとるかどっちでもいい場合」には、日本人は名をとる傾向があるということもできるでしょう。
太陰暦が太陽暦に変わったことで失ったもの
太陰暦が太陽暦に変わったことで、これ以外にも失ったものはたくさんあります。
日本の俳句の季語、季節感なんかもその一つだろうと思います。
「昔の俳句の季語って、現代の季節感覚と合わないなあ」と思ったことがある人はいませんか? それも太陰暦が太陽暦に変わったことで失ったもののひとつです。
江戸時代の俳句の上での如月(2月)というのは、今の弥生(3月)のことなのですから。「如月になって花が咲いた。暖かくなった。春が近づいてきた」みたいな季節感覚なんですよ太陰暦の人たちの詩は。「いや2月なんで真冬だろ! どういう季節感してるんだ!」と太陽暦の私たちはツッコミたくなりますが、一カ月季節がずれているんだからしかたありません。
農業をやっていると農事暦という田んぼ専用の暦があるのですが、それらの暦のもっていた感覚も、一カ月ほどずれてしまいました。
このことに対処するには「言葉の定義を変える」という裏ワザがありました。つまり新暦の3月のことを如月と呼ぶことに言葉の定義を変更すれば、農事暦や季語に違和感を感じなくて済んだはずだと思います。
もっとも松尾芭蕉が「奥の細道」でうたった奥州の季節感は、しょせんは九州地方の季節感覚とは1か月ぐらいずれているので、あまり意味がないかもしれません。
もしかして人は汎用性のある文章なんて書けないのかもしれない。
東京の人は4月に桜が咲くと思っているでしょうけど、青森では5月に桜が咲くんですよ。
だから園芸の本などを日本全国で売ろうとすると、とても難しいことになるのです。だって花の咲く時期が北海道と沖縄ではぜんぜん違いますからね。
テレビで箱根駅伝のことを「新春スペシャル」と銘打っているのも似た話しです。
太陰暦と太陽暦は一カ月ほどずれています。旧暦の1月は新暦の2月ごろです。2月上旬は「立春」ですね。つまり春の始まりです。だから1月の頭を新春と呼んだのですね。あくまでも旧暦の言い方です。
なぜお正月を新春と呼ぶのか? 冬だから寒いのではなく、もっとも寒い時期のことを冬と呼ぶ
太陰暦では月の満ち欠けをもとに「月」を決めた
私が勉強させてもらった本に『逆説の日本史』(井沢元彦)という本があります。
井沢さんは本書の中で、明智光秀が織田信長を襲った本能寺の変は「月のない暗い夜」だったと断言しています。なんでそんなことがわかるかというと、本能寺の変があったのが旧暦1582年6月2日早朝だとわかっているからです。
太陰暦では月の満ち欠けをもとに「月」が決められます。1日は暗く、15日が満月で、30日は暗くなります。だから太陰暦の6月2日は「月のない暗い夜」だったに決まっているんですね。
このような月を眺めて何かを知るという感覚も、太陰暦から太陽暦になって私たちは失ってしまいました。
始めから学ぶのだけが歴史じゃない。『逆説の日本史』(井沢元彦著)
朱子学の毒? 中華圏では新正月よりも旧正月を盛大に祝う
太陰暦には大きな欠点があります。それは季節がずれていくというものです。季節というのは太陽が決めているので太陽を基準にしている限り、季節がずれていくことはありません。だから明治新政府は太陽暦を採用したわけです。
しかし旧暦のことを忘れられない人たちもいます。名より実をとった人たちですね。
たとえば中華圏では太陽暦の1月1日よりも2月上旬あたりを「旧正月」(太陰暦の昔の正月)といって、はるかに盛大にお祭りしています。
先祖はこの日(今でいう2月上旬)にお祝いしてきたのだから、私たちもこの日にお祝いするというわけでしょう。
このあたりの感覚は「先祖(祖法)をどれだけ大切にするか」によるのではないかと思います。井沢元彦さんなら「朱子学の毒」と切り捨てそうですが。
靖国神社の「みたままつり」が7月におこなわれるのは、東京の七月盆が原因でした。
地方から東京に出てきた人は、地元(7月)と故郷(8月)に二回お盆のお祭りができるということです。そういう実利もあって是正されないんでしょうね。
人類の歴史はこれからも続きます。太陰暦でやってきた1500年の暦感覚とは離れてしまいますが、ここらで太陽暦に切り替えて新時代の季節感覚をつくっていくというのが建設的な意見なのかもしれません。地球温暖化などの影響でそもそも昔ながらの季節感覚なんてなくなっちゃうかもしれませんしね。