2019年9月。台風15号が千葉県を襲った。被害を受けた方、お気の毒です。しかし「もう限界だ」とか「生きるか死ぬかの状況だ」とか軽々しく言うのは待ってもらいたいと思う。そんな最上級の形容詞を使ってしまったら、もっと大きな本当の危機がおとずれたときにどう表現すればいいのだろうか。
ここでは先祖に比べて現代人が弱っちくなっているのではないか、ということについて述べたいと思います。
復旧を祈る気持ちはあるが、書きたいのはそのことではない
南房総を愛している。
はじめて車中泊したのは南房総である。車中泊にハマったのも南房総のおかげであり、将来は南房総に住みたいとさえ考えている。
婚姻届けは南房総市役所に提出した。居住地ではないというのに南房総市に婚姻届けを出したのは二人の思い出の地だからであり、ただただ南房総を愛しているからである。
その南房総市をはじめとする千葉県南部の一帯が、2019年9月現在、台風のために停電等で大変な状態が続いているという。仕事さえなければ給水ボランティアに駆けつけたい気持ちだ。
ところがここで書こうというのは「お気の毒様です。一日も早い復旧をお祈りしております」というありきたりの内容ではない。
そういう慰めの文書が読みたければ、他の多くの方がそういう記事を書いているはずなので、そちらをお読みください。
エジソン以前は電灯なんて地球上になかったのだ
千葉県南部地域では台風15号の被害で停電していると聞く。停電すると照明はつかないし、テレビは見られないし、スマホの充電もできないし、エアコンも使えない。
水道のモーターを回せないから水圧がかけられず、給水もままならない。
そりゃあ不便だろう。
でも、でもね。
テレビで「もう我慢の限界」とか「生きるか死ぬかギリギリのところ」のようなコメントをする被災者には、違和感を禁じえない。
電灯なんてエジソンが発明する以前にはなかったのだ。
江戸時代の終わりまで人間はエアコンもテレビもスマホもなしで生きてきたのだ。
人類はずっと電気なしでこの地球の上で生き延びてきたのである。
そういう先祖をもちながら「もう生きていけない」だなんて、あまりにも軟弱すぎやしないか。
スマホがないと生きていけないだなんて、ご先祖様に失礼だ
現代人はどうして、たかが電気がないぐらいで「生存するのがやっと」みたいな言葉を平気で吐くのだろう。
エアコンなんてなくたって死にやしないよ。ちょっと寝苦しいかもしれないが。
テレビやスマホなんて、なければないで立派にやっていけるさ。
スマホがなければ人間らしい暮らしとは言えないだなんて、ご先祖様に失礼ではないか。
停電ぐらいで「我慢の限界」とか「死活問題」とか平気で使う言語感覚に違和感を覚えるのだ、おれは。
アウトドアのスキルを今こそ発揮すべき時だ
キャンプや車中泊のスキルを持った人は、今こそ日ごろの技術を発揮する時である。
登山者であれば、停電ぐらいなんてことないはずだ。ヘッドライトがあれば本ぐらいは読めるし、早寝早立ちは登山の基本だ。
暗くなったら眠り、明るくなったら起きればいい。
テントがあれば公園に張ればいい。部屋の中よりは涼しいかもしれない。
ロウソクがあれば照明には十分だ。ランタンがあれば辺り一帯照らしてくれるだろう。
水がないのだけは困るだろうけれど、それだっていくらでもなんとかなる。
車中泊のスキルがあれば、いっそ半月ぐらい、千葉県外で暮らすことも可能である。
おいしい湧き水を汲ませてくれる場所なんていくらでもある。
水道水でよければ道の駅からもらってしまえばいい。被災者なんだ、トイレも堂々と借りればいい。
エアコンがなくて暑かったら、今こそ「避暑地」という言葉を思い出す時だ。
富士五湖とか軽井沢あたりの高原の駐車場でのんびり暮らせばいい。車中泊なら無料だ。
食事だって金さえあれば何とかなる。
日本中すべてが被災地になったわけじゃない。千葉県の南部地域だけの話しだ。
家が壊れたりとか、雨に襲われたりとか、泣きたくなる気持ちはわかる。
でも元気を出せよ。もう限界だなんて。
あなたはまだまだ限界じゃないよ。まだまだやれるさ。
言葉に対する感覚の問題として
地震や台風のあとの火災や停電を「天災じゃなくて人災だ」と不満を言う人も多い。
損害賠償は人間からしか取れないからあえてそういうのだろう。
私はこの言葉づかいも好きではない。
むしろ夜空を見上げて「いつもより星がきれいです」ぐらいの余裕を見せてほしいものだと思っている。
先祖の生活を思えば、なんとかなるはずだ。
縄文時代の人は電気なんかなかったのだ。いや、江戸時代の人も電気なんてなかったのだ。
暗くなったら眠り、明るくなったら起きる。何千年もそうやって生きてきたのだ。
スマホが使えないぐらいで「暮らしていけない」なんて言葉を易々とつかわないでもらいたい。
真実とは自然のこと。世界の真実とは何か、真剣に向き合えば、アウトドアは必然。
アウトドアは志向ではない。アウトドアは人が命とは何か、生きるとは何か、この世界の真実とは何か、そういう疑問に真剣に向き合おうとしたら必然である。真実は自然の中にしかないのだから。
人間よ自然に帰れ、だ。もっと強くなろう。
「オオカミが来たぞ」少年のように、本当の悲惨がおとずれたときに信用されない存在とならないためにも、最上級の形容詞はまだとっておいた方がいい。
今はまだ使うべき時ではない。決して最上の悲惨ではないはずだ。
エアコンが使えないぐらいで「もう限界」のはずがない。
そんなことで死んだら、ご先祖様に恥ずかしくてあわせる顔がない、ぐらいの感覚がほしい。
「絶対に許せない」とか簡単に言うな。
人間、臨終(いまわ)の際(きわ)には、たいていのことは許せるはずだ。
最上級の形容を軽々しく使わないでほしいと思うのだ。
そうでないと、本当の悲惨がおとずれたときに、言うべき言葉がなくなる。
心配するな。生きていけるさ。まだ最悪じゃない。
※アウトドアをやってみよう。