名作小説の漫画化がおもしろい場合、原作と脚色とどちらの功績が上か?
名作小説を漫画化した時に、とてつもなく面白くなっている時がある。この面白さは原作の力なのか、それとも漫画ならではの演出、再構成、脚色によるものか?
ここではイースト・プレス社のまんが読破シリーズ。ゲーテの「ファウスト」について述べています。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
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的中するかごっこ。執筆動機は、面白さの核が小説にあるのか、漫画にあるのか探るため
白鯨につづく第二段である。
この漫画もとてつもなく名作だと思った。すごく面白かったのだ。
執筆動機も前回と同じ。
この面白さが、原作そのものによるものか、それとも漫画ならではの演出、再構成、脚色によるものか、ということを明らかにするため、である。
実際の原作はまだ読んでいない。(2021年9月追記。ゲーテの原作戯曲を読みました!)
物語は、演出法は、進化する。思想は深まっているし、作劇術は進化している
しかし漫画版だけ読んで「これは原作にない、漫画ならではの脚色だろう」と予想することが、本稿の趣旨である。
ファウストは読んでいなくても、他の小説や漫画をたくさん読んできた結果、どちらの演出か、当てることができると思っている。その的中率に自信がある。
的中するかゴッコ、をブログでやってしまおうというわけだ。
作劇術は進化しているはずだ。
作品冒頭をショッキングなシーンや謎で演出して、読者のハートを鷲掴みにするような手法は、古い小説群には見られないものだ。
省略することで良作になることもある。名画の何も書かれていない空白が、書かれている部分と同じぐらい必要であるように。
作品のパーツを並び替えることで、名作になることもある。
それを想像して書くのが本稿だ。
いつか原作を読んで、答え合わせをしたいと思っている。
人生を賭けて挑戦した宇宙の真理、生命の神秘。しかし失敗した
博士(ドクトル)の称号を得た置いたファウストだが、浮かない顔をしている。
いかに大知識人のように称賛されても、ファウストは「自分が本当に知りたかったことは何一つ知りえていない」と絶望しているのだ。
本当に知りたかったこととは、宇宙の真理、生命の神秘。
挑戦しなかったわけではない。人生を賭けて挑戦していた。
地下の秘密研究所には人工生命ホムンクルスが培養されていた。彼は錬金術に手を染めていたのだ。
しかし失敗した。
すべてを学究に費やし、愛する女性も親友も仲間もいない。そして老齢になってしまった。
人を愛する喜びも、楽しさも知らず、その哀しみや怒りを語れる友もいない。
得たものは感情も肉体もない生命と呼ぶにはほど遠いホムンクルスだけだった。
自分の人生は失敗だった。この先の人生に希望はない。
ファウストは絶望し、毒を仰いで死のうとする。そこに「すべてを否定する霊メフィスト(メフィストフェレス)」が現れるのだった。
メフィスト「人生、やり直したくないか?」「博士が死んだ時でいい…魂が欲しい」
博士は同意し、契約が成立した。
おそらく原作小説もこのような展開をとっているのだろうと予想している。
細部を省くことで面白さの核心に一直線に進んで読者の興味を失わせない漫画ならではの演出が一部あるかもしれない。
(2021年9月追記。ゲーテの原作戯曲も同様の展開です)
ジェットコースター的展開。これは漫画ならではの演出だろう
若返ったファウストは、さっそくマルガレーテと出会い、恋をする。
現実だと独り身のうじうじとした時間が長く続きそうだが、物語っていうのはタイミングがつくるものなのだ。若返ったその日のうちに恋する。それでいい。
翌日にはマルガレーテをデートに誘い、寝てしまう。
展開、はやいね。しかし冗漫なのは退屈で読者が離れていっちゃうから、これでいいんだと私は思う。
しかし原作文学がへたに「人間を描こう」的野心にあふれた大河作品だったりすると、若返ったって人間の本性はそう簡単に変わらないのが真実だから、真実に忠実なあまり「成長過程」をそろりそろりと描いたりして読者を飽きさせてしまったりするのである。
こういうところが文学の欠点で、漫画の長所だったりする。だから漫画は世界に広まったのだ。
さらに急展開なことに、マルガレーテがファウストとイチャイチャしている時に、彼女の母が死ぬ(笑)。
(2021年9月追記。ゲーテの原作戯曲によると、母親にデートの邪魔をされないように睡眠薬を飲ませる。ところがこれが毒薬で母親が死んでしまうのだ)
物語っていうのはタイミングがつくるものなのだ(汗)。
母の看病を忘れて男と会っていたと聞いたマルガレーテの兄は怒りのあまりメフィストに切りかかるが、メフィストの悪魔の力で返り討ちにあってしまう。
マルガレーテはファウストと知り合った後、立て続けに母と兄を失ってしまったのだ。
悪魔の力を借りた自分と知り合いさえしなければ、彼女は不幸にならなかったのではないか。
ワルプルギスの夜、絶望したファウストを、メフィストはブロッケンの山に連れ出す。
ホムンクルスが命の祖となり、ファウストがファーザーとなるのは漫画の演出だろう
ブロッケンの山でメフィストが狙う魂が、どうしてファウストなのかが明かされる。
宇宙の真理、生命の神秘、それは神の領域である。
ホムンクルスをつくることで神の領域にまで踏み入った魂、ファウストがしたことは悪魔のなしえなかったことでもあるのだ。その偉大な魂が欲しいとメフィストは言う。他の人じゃダメなんだ。
「悪魔も昔は神だったのだ。神話も神も人が創造したものなのだ」とは悪魔の言葉である。キリスト教的な世界観から見ればまさしく悪魔の言葉である。
だが現代を生きる我々には、それほど大それた言葉には聞こえない。
魔法の鏡に映ったマルガレーテは牢獄に繋がれていた。母親殺しの罪、そして嬰児殺しの罪で。
悪魔の力で牢獄へ飛ぶが、彼女は狂っていた。
「あなたを愛しています。それが裁きを受けることになるのなら…それでもいい…」
過去の命では知らなかった愛する人との別れだ。ファウストは絶望のあまり、毒を仰ぐ。
(2021年9月追記。ゲーテの原作戯曲によると、ファウストが絶望して毒を仰ぐシーンはありません。むしろゲーテの戯曲は、近代物語の感情ラインを逸脱して、世界一の美女ヘレナや、スフィンクスが登場します。漫画版では一切省略されています。当然の選択だと思います。ゲーテがどうしてケンタウロスのケイロンや、セレイネス(セイレーン)を登場させて延々と会話させたのか、意図がわかりません。しいていえばファウストの愛読書は「ホメロス」という設定になっています)
生と死のはざまでファウストは夢を見る。彼が作った人工生命ホムンクルスの夢をみるのである。
「僕は…感謝しています。この世に生まれたことを。僕を産んでくれてありがとう。父よ」
ホムンクルスにとってはファウストは父なる神のような存在であった。
ホムンクルスは原始の地球の海の中に飛び込む。そこで完全な生命体となる夢を叶えようとするのだ。
おそらく…
これは漫画の脚色だろうと確信している。
原作にはないシーンであろう。
原始の海で有機物のスープから命が誕生したなんていう科学は、ゲーテの時代にはなかった。
『鋼の錬金術師』錬金術とは何か子供にもわかるように解説してみた
宇宙の海はおれの海。我が青春のアルカディア
死を体験した中でよみがえったファウストは生命の神秘にたどり着いた。ホムンクルスが生命となる場所は、すべてを破壊せんばかりの荒々しいエネルギーで満ち溢れていた。
生命とはこの宇宙を動かすエネルギーの集約した姿だったのだ。
死んだマルガレーテの分も、生きようとファウストは決意する。
天地創造が神々の専売特許でないことを示すため、まちづくりを手掛ける。
だんだんアンチクリスト、ルネッサンス的ゲーテが物語に出てくる。
メフィストは石油を掘り当てて、その代償にファウストは領地をもらう。
街の名はアルカディア。楽園をつくろうとしたのだった。
政治家ゲーテの姿も物語に出てくる。
ところが恩人の皇帝が逃げ込んできたことが切っ掛けでアルカディアは戦争に巻き込まれてしまう。
軍隊はメフィストの死者の軍団に壊滅させられる。
「ひれ伏す必要はない…。愚かな人間どもよ…。ただ哭け!」
おそらく…
原作も、こんな展開なのでしょう(笑)。ただメフィストの悪魔らしいセリフやおぞましい死者の軍団は漫画の脚色だと思います。カッコよすぎるもの。
(2021年9月追記。ゲーテの原作戯曲には、現実の戦争と、ファウストが皇帝から土地をもらって街づくりをするというシーンが本当にありました。しかしやっぱり悪魔のカッコよさ、死者の軍団なんていうマンガ的な要素は皆無です)
小説家の書いた原作って、たいていこういう迫力あるビジュアルシーンってないんだよなあ、残念ながら。
ビジュアルシーンの必要性をひしと感じるのは作画家の方であり、原作者のほうではない。
漫画版の結論。世界は闇。星は光。人は光。
悪魔の力を借りた代償としてファウストは盲目となってしまった。闇の中、ファウストは思う。
結局、人はみな孤独なのだ。あてのない闇の中で、孤独の苦しさに耐えられず、自分の存在を確かめたくて、誰かとのつながりを求める。
宇宙は孤独なのだ。無限の闇に怯えているのだ。不安をかき消す光を求め、星を産み、生命を育んだ。
形あるものは必ず滅びて朽ちるが…それはただ「在り方」が変わるだけだ。決してその存在が「無」となるわけじゃない。そう考えれば目に見えない意識や想い、精神、そういうものもやはり消えないんじゃないか。
この宇宙に神のための聖域などない。平伏している場合ではない。もはや祈る時も終わった。闇の中を力強く歩こう。
光を求めて生命は産み落とされた。我らは希望を生み出す可能性を持って生まれた。
宇宙観まで到達しないと、真理を描いたことにはならない(ドラクエ的な結論)
世界は闇。星は光。人は光。光は消えない。ただ在り方が変わるだけ。すばらしい結論です。感動しました。この結論がものすごくよく出来ているから、本稿を書こうと思ったわけです。
宇宙観まで到達しないと、真理を描いたことにはならないと私ハルトは思っています。
しかしおそらく…
原作は、こういう結論じゃないと思うなあ。
(2021年9月追記。ゲーテの原作戯曲を読みました。やっぱりそういう結論ではありませんでした。ホムンクルスが登場するのですが、マンガ版ほど重要な役割をもって登場するわけではありません。漫画版の圧倒的な飛躍、解釈に頭がさがる思いです。文豪ゲーテの原作を超えた作品だと思います。それなのにプロンプター(脚本家)の表示もないなんて……なんて奥ゆかしいというか、サラリーマンってかわいそうだなあと思います)
エッセンスとしては存在しているだろうが、こういう結論を「もっと光を!」と言って1832年に死んだゲーテにはおそらく書けない。
現代の私たちが普通に目にする「青い地球」(宇宙から地球を眺めた写真)は「地球は青かった」1961年のガガーリン以前には絵を含めて存在していないのである。
大地や海や空は描けても、宇宙の暗闇や孤独まで書くことはゲーテには無理じゃないかな、と思うため、原作はもっと違うものだろうと予想するのです。
「宇宙の闇、孤独、不安をかき消す光として、星と、そのエネルギーを集約した生命がうまれた」
ここまで明快な結論は原作小説には書いていないだろうと私は確信しています。
漫画ではファウストの魂はメフィストに取られていないが、これも漫画的なハッピーエンドではないかと想像します。
原作では魂を悪魔にとられて、アンハッピーエンドな気がする。
(2021年9月追記。ゲーテの原作戯曲を読みました。ファウストの魂は、悪魔が奪う前に、天使によって救い出されるといういちおうのハッピーエンドでした)
錬金術は等価交換が原則です。いい目をあったぶんだけ、悪い目にもあうのではないか。
キリスト教的道徳が支配した時代にサヨナラして、人間性の解放に向かうようなエンディングになっているのは原作のエッセンスだと思う。
宇宙の真理、生命の神秘、とたった二言で語るほど、原作は明快ではないだろう。
漫画では「宇宙観」で作品を締めているが、原作はそうではあるまい。
たぶんダラダラともっと続いていくだろうと想像している。
やはり漫画の演出があってこそ面白く読めたのだと思う。
さて、予想はできた。
原作を読むのが本当に楽しみだ。きっと漫画とは違ったかたちで面白いだろうし、予想と答え合わせをするのが楽しみである。
それはいつか別の稿で書くつもりです。
(2021年9月追記。ゲーテの原作戯曲を読みました。ゲーテのファウストは自由な街での暮らし、生活の瞬間に「(時間よ)とまれ、お前はいかにも美しい」と契約の言葉を言って死んでいきます。恋に生きたウェルテルのようにではなく、老人として政治家として死にます。
それに対してメフィストフェレスは「過ぎ去ったのと、何もないのとは、同じことではないか。いったい永遠の創造に何の意味がある。過ぎ去った? もとからなかったのと同じことじゃないか。永遠の虚無の方がけっこうだ」
と有名なセリフを吐くのですが……
やはり圧倒的にマンガ版の脚本の方がよくできていると思います。
このイースト・プレス社のまんが読破シリーズ。ゲーテの「ファウスト」ですが、原作戯曲を読むための導入のための簡略版ではなく、まったくあたらしい設定だけ借りた別の作品として読むことができます。
そして有名なゲーテの原作はすばらしく、マンガは浅いと思っている人に、両方を耽読してもらいたいと思います。マンガ版の方が奥が深いので。
やはり……物語というのは、哲学というのは、進歩するものなのです。ナポレオンの同時代人のゲーテの物語力は現代の物語には及びません。生きる哲学も、やはり古めかしく、今のものには及ばないのです。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちらをご覧ください。
私は反あらすじ派です。作品のあらすじ、主題はあんがい単純なものです。要約すればたった数行で作者の言いたかった趣旨は尽きてしまいます。世の中にはたくさんの物語がありますが、主役のキャラクター、ストーリーは違っても、要約した趣旨は同じようなものだったりします。
たいていの物語は、主人公が何かを追いかけるか、何かから逃げる話しですよね? 生まれ、よろこび、苦しみ、死んでいく話のはずです。あらすじは短くすればするほど、どの物語も同じものになってしまいます。だったら何のためにたくさんの物語があるのでしょうか。
あらすじや要約した主題からは何も生まれません。観念的な言葉で語らず、血の通った物語にしたことで、作品は生命を得て、主題以上のものになるのです。
作品のあらすじを知って、それで読んだ気にならないでください。作品の命はそこにはないのです。
人間描写のおもしろさ、つまり小説力があれば、どんなあらすじだって面白く書けるし、それがなければ、どんなあらすじだってつまらない作品にしかなりません。
しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することを私はオススメしています。
作品のあらすじや主題の紹介は、そのように活用してください。