昔の恋人のことを思い出すこと、ありますか?

大塚美術館一の美男子
別れた恋人に会ってみたいですか? それとも会いたくないですか?
昔の恋人のことを思い出すこと、ありますか?
ああ。あの人、今、どこで何をしているんだろう。しあわせだろうか。会いたい。もう一度。
ふと、そんな風に思うことはありませんか?
ここではそのようなシチュエーションを描いた文豪サマセット・モームの『赤毛』を紹介して、どうなったかを見ていきます。
あなたと同じ切なさを、文豪も同じように感じているでしょうか?
昔、命を賭けた恋愛をしたかつての恋人に今再会したら、何が起こるのでしょうか。
【書評】モーム『赤毛』別れた恋人と再会した時の反応は?
偶然、別れた恋人に出会ってしまった時、どんなことが起こるか、同じようなシチュエーションがモーム『赤毛』に出てきます。
それは衝撃的な結末でした。あなただけにこっそりお教えします。
主要登場人物3人。非常に読みやすい
①帆船の船長。肥満した男。この男にも駆け回る少年時代があったのだろうか、若い頃はどんな男だったのだろうと思わせるほどの禿げた肥満。
②白人男ニールソン。25年も珊瑚礁のバンガローに住んでいるスウェーデン人。肺病で余命一年と言われ、珊瑚礁ラグーンで本や音楽に生きている。
同じ白人ということもあり、船長とニールソンはウイスキーを飲んで、話しをします。
「どうしてこんなひと気のない場所に住んでいるのですか」と当然のことを船長に問われてニールソンはこたえる。
この場所がこの世ならぬ美しさをたたえているのは、かつてこの場所に愛が足をとめたことがあったからだ、と。
③原住民の娘サリー16歳。「レッド」20歳と恋に落ちる。
火のような赤い髪の毛のギリシア神像のように美しい白人男レッドがこの場所に棲みつく。サリーは一目で恋に落ちる。
この世界を奇跡となし、人生に深い深い意味をあたえるあの愛……
ここには愛がその足をとめたことがあったのだ。
この世のものとは思えない珊瑚の海。椰子が水に映る自分の影を楽しむ入江。
南海というやつは時々人を奇怪な魅力のとりこにしてしまう。
彼らは一日中何もしなかった。
つつましい食事。焼石の上でバナナを焼く。魚、海老、オレンジ、バナナ、椰子、マンゴーの生活。
月明かりの夜の珊瑚礁ラグーン。時間が止まった世界。
そこに文明の捕鯨船がやってきた。
レッドはタバコがほしくなった。精製された文明の香りのするタバコが。
タバコを手に入れようと捕鯨船に向かう。
そこでしこたまウイスキーを飲んで寝ているうちに船は出港してしまった。
騙されたのだ。人手不足の捕鯨船の契約書にサインさせられた。
レッドを失い、サリーは泣き暮らした。鬱で不感な人間になってしまった。
しかし3年後にいまひとりの白人と結婚した。
ほかならぬ肺病を病んで失意にうちひしがれたニールソンその人だった。
ニールソンはサリーの悲しみの瞳に、霊魂の苦悩、神秘の輝きを見た。
サリーに恋をした。
レッドを、すべてを忘れさせて、女を酔わせてみたい。
悲しみの瞳の奥に見た仄かな魂が欲しい。
しかし望みがかなって結婚しても、サリーは泣いてばかりだ。
レッドが忘れられないのだ。
悲しみの魂なんて幻影にすぎなかった。
恋は牢獄に変わってしまった。地獄の呵責だった。
そしてニールソンは希望も何もない不感症に陥ってしまった。
情火はついに燃え尽きた。
もう何十年かをただ習慣と便宜の絆に繋がれて、ふたりは一緒に暮らしてきたのだ。
「残酷な運命をレッドとサリーはむしろ感謝すべきではないか」
ニールソンはいう。
一日会わずにいても耐えらえないほど愛した人に対して、もうこれっきり会わなくても平気だというような心の変化ほど恐ろしい悲劇はないのだから。
愛の悲劇は無関心だから。
ところがその時、ニールソンは目の前の酒ぶくれの船長の中に、影のように美しい若者の影像をチラと見たのだ。
まさか。まさか、そんなことがあるものか……
「であんたのお名前は?」
「人からはレッドと呼ばれている」
その時、部屋にサリーが入ってきた。
慄然。再会のその時が来た。
しかしふたりは互いに気づかず、ひと目チラと見ただけで言葉も交わさない。
その時は来て、そのまま去ってしまったのだ。
食事の誘いも断って船長は帰ってしまった。
あれほど恋焦がれていたはずなのに、お互いに気づきさえしなかった。
おれの幸福を妨げた男があれだろうか。
残酷な神々の戯れだった。そして残されたのは老いさらばえた彼自身の姿だ。
ニールソンはさっきの酒ぶくれの船長が、恋心をそのまま胸に抱いているお前のレッドだとサリーに言ってやろうかと思った。
恋が報われず自分が傷つけられたように、相手も傷つけてやりたかった昔なら、言ったと思う。
憎しみもまた愛に他ならなかったからだ。
だが今はそれもしたくなかった。
サリーは年をとって太った原住民の女になってしまっている。
おれの魂の一切の宝を、この女の足元に投げ出したのだ。だがそれには一顧すらも与えてもらえなかった。
今サリーに感じるのは侮蔑ばかりだった。
ニールソンはもう我慢も何もできなくなった。
時の流れは残酷。気持ちは去って、二度と戻らない
いかがでしたか?
文豪サマセット・モームの描く、恋する人との再会は悲劇的なものでした。
老いて醜く肥えてしまった二人が、互いに気づきもしない、という結末を迎えてしまったようです。
時の流れは残酷なものです。
人を変え、恋心のかたちを変えてしまいます。
気持ちは去って、二度と戻らないものなのです。
ガッカリするぐらいなら、うつくしいカタチのままで。別れた恋人にもう一度会いたいと思っても、会わないことかもしれません。
モームの『赤毛』は、そんなことを教えてくれました。
過去の幻想をはやく捨てて、未来に向けて生きていけということなのかもしれません。
会わない間に思いつめた恋は、おのれの中で熟成された身勝手な思いこみかもしれない
恋が引き裂かれても、それでも人間は生きていきます。
そうした人たちの中で、ふとした拍子に再会してしまう人たちがいます。
会わない間に思いつめた恋は、おのれの中で熟成された身勝手な思いこみかもしれません。
ひとりよがりの幻想に、人生を賭けない方が身のためです。
南洋の珊瑚礁の恋の伝説を無残に打ち砕いて、サマセット・モームはそのことを私たちに教えてくれます。
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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
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主人公ツバサは小劇団の役者です。
「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」
恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。
「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」
アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。
「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」
ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。
「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」
惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。
「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」
劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。
「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」
ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」
尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。
「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」
そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。
「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」
そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。
「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」
そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。
「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
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※※他のサマセット・モーム作品についての書評も書いています。よかったらこちらもご覧ください。








