退屈の解消法

MY FAVORITE
スポンサーリンク
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

~~このサイトについて~~

当ページはリンクフリーです。

youtube 始めました。(grandma-cuisine

note にて書籍『市民ランナーという走り方(グランドスラム養成講座)』を発売しています。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

退屈について考えてみたい。

ずっと家に巣ごもり、籠城、自宅待機していたりすると、退屈したり、イライラしてしまう。

はて、1日や2日なら楽しんでやれる自宅籠城が、どうして2週間も続くと退屈してしまうのだろうか。

そのことについて考えたい。

スポンサーリンク

諸外国の夜が退屈しないわけ

放浪のバックパッカーとして世界旅行してきた私の目から見ると、日本人は夜の楽しみ方を知らないと思う。

とくに暑い国は昼間は午睡して、日が沈んでから街に繰り出すという文化を持っているが、日本人は暗くなると家に帰って寝てしまう。

屋台街のような外食文化があれば、それだけで退屈しないのだが、日本だとせいぜいコンビニぐらいしかない。

タイのようにいたるところに屋台街があると屋台を猟歩するだけで楽しい。

日本の夜は、真っ暗で何もやっていないから人がでてこないのだ。あるいは人が出てこないから明るい場所がないともいえる。

屋台や路上で知らない人と知り合いになれば、それだけで退屈なんて吹っ飛んでしまうのだが、生活習慣や道徳がそういう土壌にないので、この日本でそのような刺激を日常的に得ることは難しい。

路上で寝っ転がったり座り込んでタバコを吸ったりする文化があれば、路上に自分も一緒に座り込んでみよう。それだけで退屈しない。放浪者の連帯感のようなものがそこにはある。

ホーチミンデタム通りや、バンコクカオサン通りを歩いていて、退屈したことなんてないし、退屈している人を見たこともない。

路上に座り込んでビールを飲むような文化が日本にもあればいいのに、と思う。

遊びを知らない、高齢者ばかりの国なので、安全な反面、刺激がないのだ、日本は。

これは東京都内でも同じことである。地方だけではない。

私は渋谷新宿で夜明かししたことが何度もあるが、お金をかけない限り、基本的に退屈な場所だと思っている。

遊べるところが店の内など有料スペースに限られてしまうので、路上でぶらぶら楽しむ、というところではない。

日本の夜は面白くない。

本当に退屈してしまう。

スポンサーリンク

退屈するのは、刺激がないから

退屈するのは、刺激がないからだ。

人間、何か新しいことがないと、飽きてしまうのだ。

外界から同じ信号ばかり受け取っていては、その刺激に慣れて興奮しなくなってしまう。

眠たくなってしまうのだ。

何か新しい信号が必要なのである。

さて、外界から刺激をもらってくるのは、なかなかこの日本で暮らしていると難しいということがわかった。

刺激的な場所はすべて「お金を払って入場する有料スペース」だからである。

お金のない人は楽しめない場所なのだ。

日常を無理やり刺激あるものにするためには、スポーツや登山などが有効だ。

千変万化のボールの動きを追ったり、登山のように雨風に打たれ星を眺めるのは、日常にない刺激になる。

アウトドアも非日常の刺激が得られる有効な手段だ。

安心、安全から離れると、人間の脳は生存本能が刺激を受けるのだ。

私が庭アウトドアベランダ・アウトドア)をおすすめするのは、ハードシェルの安全な家がない場所で、火をおこすような行為は、非日常で刺激になるからである。

エジソン以前は電灯なんて世界になかった
2019年9月。台風15号が千葉県を襲った。被害を受けた方、お気の毒です。しかし「もう限界だ」とか「生きるか死ぬかの状況だ」とか軽々しく言うのは待ってもらいたいと思う。そんな最上級の形容詞を使ってしまったら、もっと大きな本当の危機がおとずれ...

昼間はまだなんとか退屈しないで生きていける。

問題は夜である。一人の夜をどう退屈しないで過ごそうか。

刺激が必要なのはわかった。

しかしそもそも刺激とは何なのだろうか。

スポンサーリンク

肉体は有限、魂は無限、というのは嘘だ

しょせん、人間のおこなうことはすべて肉体が行うことではなかろうか。

私はそう思っている。

祈りとか思索とか瞑想は肉体を使うことではないように思われがちだが、そうではないと私は思う。

考えることも感じることも、肉体をつかうことの一部だ。肉体をつかって感じている。

イマジネーションは無限のようにいう人がいるが、そうではないと私は思う。

筋肉が疲労するように、思惟・思索も疲労する。

たとえばコラムの執筆は脳内の思想、思索のようだが、現実的には指を動かして文字を打ち込んでいるわけで、考えている脳や指先はやがて疲れてくる。やはりイマジネーションも肉体をつかうわざだ。

肉体は有限、思想(魂)は無限、なんていうが、あれは嘘だ。思想も、魂も有限なのである。

スポンサーリンク

退屈を感じているのは肉体だから、肉体に刺激をあたえる

すべての刺激は肉体を通して感じることだから、退屈とは肉体の刺激が足りないことを意味する。

だから肉体に刺激をあたえればいいのだが、いつも同じ刺激ではだめだ。

肉体の同一部位だけの刺激では、どんなにスリリングなものでも、やがえその刺激に慣れてしまう。

神経の刺激に、肉体のその部位が疲弊してしまう。

この状態も「退屈」である。神経系が興奮しないと退屈を感じるのだ。

その場合、からだに別の刺激をあたえればいい。

パソコンを打つのは指と上腕の運動だから、そこはリラックスさせて、下半身を動かすためにジョギングしてみるとか。

その走るのに飽きたら上半身の運動をしてみるとか。

それにも飽きたら、マッサージ器を買って、背中や足裏など普段刺激のないところに当ててみるとか。

とにかく肉体に刺激を与えてみる。退屈を感じているのは肉体だ。同じ刺激は退屈だ。

肉体を使った退屈しのぎをしているうちに、やがて退屈を忘れるはずだ。

どんなに好きなことでも飽きる。毎日すこしづつやるのがお得だ。

スポンサーリンク

快楽のジャンキーだけが、脳内モルヒネの禁断症状を訴える

楽しいことをしていると脳内モルヒネが出るという。

このモルヒネはおそろしく強力のようだ。人間を虜にしてしまう。

退屈とは、この脳内モルヒネを渇望している状態に他ならない。

人間はみんな脳内モルヒネ中毒者である。

脳ミソが脳内モルヒネの禁断症状を訴えているから退屈を感じるのである。

夜でもそんなときは体を動かして、何かするといい。

脳内モルヒネは体を動かしているときにドバっと出てくるものだ。

私だったら走りに行く。

【世界が美しく見える魔法】走るために生まれた
このブログが一編の小説だとすれば、このページは最終章、ラストに配置すべき、結論について書いています。退屈なケの日常を、わずかな時間で、パーティーに、お祭りに、クリスマスに変える魔法。それは走ること。走ることには魔法のような効果がある。走るために生まれたから

退屈とは、肉体の刺激が足りないこと。ちがうからだを使えば、まぎらすことができる。

退屈を感じるのはあなたが快楽のジャンキーだからである。脳内モルヒネ中毒者だからである。

脳内モルヒネとともに生きれば、退屈なんてしない。

著者
お探しのものはありませんか?
ツイートしています。見てね!
精一杯でいいから走ろう
仮想世界一周ランニング旅に挑戦中。応援おねがいします
MY FAVORITE
スポンサーリンク
sandalsmanをフォローする
ドラクエ的な人生
タイトルとURLをコピーしました