イースト・プレス社「まんがで読破」シリーズのメルヴィル『白鯨』
ここではメルヴィル『白鯨』について述べています。
イースト・プレス社に「まんがで読破」シリーズがある。ふと手にして読んでみたのだが、これがものすごくおもしろかったので紹介する。
× × × × × ×
このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
× × × × × ×
かつて活字で読破を挫折した『白鯨』を漫画で読む
翻訳でいいから、ちゃんと活字で原作読めって?
すいません。実は大昔、一度挫折している。二段組の活字の古本で読んだのだが、うんちくが多くて、最後まで読み切れなかった作品だ。それもあって今回、漫画で読んでみることにしたのだ。
かつて「つまらなくて」挫折した活字版と、今回「おもしろくて」紹介する漫画版のどこが違うのか、それこそが本稿の執筆動機である。
おそらく漫画は原作よりも数段、面白くなっているだろう、と私は考えている。
それは漫画特有の「見せ方」によって。原作のニュアンスの範囲内で、セリフを変えているに違いないと確信している。
物語は、演出法は、進化する。思想は深まっているし、作劇術は進化している
作品冒頭から海の魔物リヴァイアサンが暴れまわってエイハブの脚を噛みちぎる展開
脚色により漫画が原作より面白くなっているんだろう、と予想している。作曲でいうところの「編曲」によって曲のイメージはいかようにも変わる。漫画化することは編曲者が編曲を加えるようなものだ。
漫画版では冒頭から海の魔物リヴァイアサンという名で白鯨が登場する。そのモンスターに若きエイハブ船長が銛を突き立てるが、効果はない。逆襲され、左足を噛み切られたところが漫画版の冒頭である。
活字版が手元にないが、おそらくこんな冒頭ではなかったはずだ。読者を引きつける、こんなセンセーショナルな導入なら最後まで読み通したはずだからである。
これが日本が誇る漫画文化のレベルの高さである。究極のエンターテイメントである漫画は映画や小説、ありとあらゆるエンターテイメントの成功例をその身に取り込んで超発展してきた。
冒頭から読者を掴まないとダメなんだよ、というセオリーは、激しい競争にさらされてきた漫画ならではの再構成であろう。原作小説はだらだらと冗漫な展開だったはずだ。
「この物語はエイハブの復讐物語なんだな。どうやって怪物に復讐するかな」という読者の興味が尽きない限り、ページをめくってもらえるというわけである。
未熟な若者が主人公になるのがセオリー。読者と謎や恐怖を共有できるから
数年後、1840年に若き主人公イシュメルが捕鯨船ピークォド号に乗るところから、物語がスタートする。
こういう場合、未経験の若者が主人公になるのがセオリーである。
エイハブの心の闇の謎で物語をひっぱっていくわけだから、エイハブを語り手にしてはならない。
左足が義足のエイハブ船長にイシュメルはビビってしまう。どうして義足なのか? 読者は知っているがイシュメルは知らない。ちょっとした優越感を味わえるわけだ。
普通のマッコウクジラを木造の銛打ち舟で仕留める普通の捕鯨が描かれる。その過程で、舟は壊され、溺死やサメの恐怖に主人公はおびえるが、これは伏線。黒いマッコウクジラは殺せたわけだから、捕鯨船の腕が悪いから殺せないのではなく、白鯨が凄すぎるから殺せないのだということがわかるのだ。
その言い訳のためにも、どうしても必要な伏線だったのだ。
そしてもう一つの伏線がある。
「恐怖を知らぬものはただの愚か者だ。恐怖を知るから克服できるのだ。恐怖から目をそらすな」
このセリフがラストの重要な伏線になっている。
難題を持ち掛けられて、それをクリアする物語が成立するというわけである。
エイハブは黒いマッコウクジラが獲れてもすこしもよろこんでいない。彼の目的は鯨油ですらない。左足を食い千切った白鯨モビーディックを殺すことでしかない。
預言者が出てきて「一人残らず海の藻屑となる」と不吉な予言をされる。こういう予言はほぼほぼ当たるのが物語の常道である。「ああ、そうなっちゃうんだろうな」と先を予想しつつ、不安にドキドキしながら物語を読み進めていくわけだ。
こういうスリルが漫画の醍醐味である。原作小説にはそういうスピーディーな展開がなかったから、途中で読むのを挫折しちゃったんだよな。
エイハブは白鯨の情報を聞き出すと、仲間の遭難も見捨てて、鯨油を捨て舟を軽くしてまで、かたきのモビーディックを追う。そのことで船員ともめるが、その時、雷が落ち、マストが光る。
セントエルモの火により、エイハブは船員の心をひとつにまとめるのだった。
こんなシーン、原作にあるのかな。あったら見直す。漫画ならではの表現だと思う。
白鯨と出会うとエイハブは自ら小舟に乗り込む。そして白鯨と直接対決するのだった。
他の小舟が沈められる中、エイハブは白鯨の背に銛を打ち込みつつ飛び乗った。
その時縄がエイハブの首をしめて、彼はモビーディックの背中で立ったまま死ぬ。
銛を突き立てて立ったまま死ぬのである。
再び私の予想であるが、原作にエイハブが白鯨の背中で立ったまま死ぬようなシーンはないのではないか?
たぶん海に沈んで再び上がってこなかったぐらいが、古い小説の脚色の限界だという気がする。
立ったまま死ぬというのはいかにも漫画風な脚色な気がするのだ。悪来典韋とか武蔵坊弁慶の死にざまを知っているからこそ、こういう脚色ができるのである。
モビーディックにピークォド号本船までも沈められて、人類はモビーディックに完敗する。
海の漂流者となった主人公イシュメルはモビーディックと目が合うのだった。
恐怖で凍り付く心。でも、伏線のあの言葉が心によみがえる。
恐怖を受け入れろ。恐怖を知らぬものは愚か者だ。
「でもなあ…お前なんか恐くねえぞバカヤロォーー!!」
しかし海に逃げ場はない。立ち向かえ!! イシュメルは啖呵を切った。
おそらく…再び再び私の予想であるが、原作にはこんなシーン、こんなセリフはないであろう。
本ブログのタイトルにもなった『ドラゴンクエスト。ダイの大冒険』の大魔導士ポップのような啖呵であった。
いやあ。面白いね。この漫画。
モビーディックはイシュメルの覚悟を見定めると、何もせずに人のいない場所へと去っていく。
イシュメルは遭難の末、救助される。
主人公の命だけは助かるという「いちおうハッピーエンド」で物語は終わる。
おそらく…再々再度私の予想であるが、
原作はこんな終わり方ではないであろう。
この漫画版「白鯨」は、その漫画的演出ゆえに面白かったと言えるのではないだろうか。
後日、原作を読んで、予想が正しかったか、検証してレポートしようと思う。
お楽しみに。
× × × × × ×
このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
× × × × × ×
物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちらをご覧ください。
私は反あらすじ派です。作品のあらすじ、主題はあんがい単純なものです。要約すればたった数行で作者の言いたかった趣旨は尽きてしまいます。世の中にはたくさんの物語がありますが、主役のキャラクター、ストーリーは違っても、要約した趣旨は同じようなものだったりします。
たいていの物語は、主人公が何かを追いかけるか、何かから逃げる話しですよね? 生まれ、よろこび、苦しみ、死んでいく話のはずです。あらすじは短くすればするほど、どの物語も同じものになってしまいます。だったら何のためにたくさんの物語があるのでしょうか。
あらすじや要約した主題からは何も生まれません。観念的な言葉で語らず、血の通った物語にしたことで、作品は生命を得て、主題以上のものになるのです。
作品のあらすじを知って、それで読んだ気にならないでください。作品の命はそこにはないのです。
人間描写のおもしろさ、つまり小説力があれば、どんなあらすじだって面白く書けるし、それがなければ、どんなあらすじだってつまらない作品にしかなりません。
しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することを私はオススメしています。
作品のあらすじや主題の紹介は、そのように活用してください。