私のマラソン人生論。人生にもゴールが必要だ

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自由こそが融通無碍への道

佚斎樗山という人の著した『猫の妙術』という剣道指南書がある。猫というのは例の肉球で音もなく獲物に近づいて仕留めるハンターである。剣道と猫ということで、どのような書物をみなさんは連想するだろうか? 私は完全に剣術の秘伝を猫から学ぶ書だと思った。ハンターである猫の静かな足の運びと、獲物をしとめるときのダッシュ力を剣術にいかせと説いた剣技の書かと思って読んでみたら、禅にも通じる人生指南書であった。

技術に頼るものは自分より技術のある者の前では無力である。力に頼るものは自分より力のあるものに対して無力である。相手次第で無力になってしまうような心の持ち方では駄目だ。そうではなくて心を天地にひらいて自然体にして自由になれ、自由こそが融通無碍への道、心が平静であれば臨機応変に状況に応じて体が動く(意訳)ということが書いてある。剣術書というよりは「人生の悟りの書」であった。

文章で譬えて言うならば、難解で何度も読書が止まるようなごつごつとした文章は決して名文ではない。さらさらと引っかかるところなく腑に落ちる文章こそ名文だという意味であろう。

抽象的に書かれているから、いくらでも応用が利くのである。剣術にも、文章にも、人生にも。

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アスリート血尿といえば、マラソンランナーか剣道者

私は市民ランナーのグランドスラム達成者である(サブスリー、100kmサブテン、富士登山競争登頂の達成者)。生涯走行距離は地球一周を超えている。「走るために生きている」という時代が確かにあった。ここまでくると人からアスリートと呼ばれることに抵抗がなくなる。まあアスリートなんだろうね、と思うだけである。

走るために生きているという時代、血の小便が出たことがある。最初に血尿が出たときには焦ったものだった。走りすぎてとうとう体が壊れたのかと思った。医者に行く前にたくさんのサイトを調べた。血尿とは何か、どうして血の小便が出るのか、アスリートと血尿の関係を調べていくと、やたらと剣道のサイトと出会った。

気合いの一撃を踏み込んだ時、足底で赤血球が踏み壊されて、剣道者は血尿が出るのだという。壊れた赤血球のヘモグロビンが尿に出るため、このタイプの血尿をヘモグロビン尿というのだ。

それに対してマラソンランナーの血尿は、腎臓が数時間にわたってシェイクされまくることによって腎臓内の毛細血管が切れて、それが尿として出るのが原因らしい。走るときは腹筋で内臓の揺れを抑えているのだが、数時間にわたるマラソン競技では腹筋も疲れ果てていつしか内臓が揺れてしまう。小さな振動も数時間も続くと『水滴、石を穿つ』効果でいつしか毛細血管が破れてしまうことがあるのだという。

アスリート血尿といえば剣道者かマラソンランナーだと言ってもいいだろう。その頃から同じ血尿仲間として私は剣道には親しみを持っていたのだ。

それが今回『猫の妙術』を読もうと思ったきっかけである。

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原爆の時代に剣の奥義を説かれても空しい。そこに精神性があってはじめて修行の意味が生きてくる

江戸時代に書かれた剣術書『猫の妙術』が今でも読まれているのは、それが精神面を説いた人生の書となっているからである。人生訓にまでなっているから今でも読む人がいるのだ。講談社学術文庫に所蔵されているのも同じ理由によるものだ。これが剣技の技術解説だけでは現代ではもう無用の長物として顧みられなかったかもしれない。原爆やマシンガンの時代に剣の奥義を説かれても空しい。そこに精神性があってはじめて修行の意味が生きてくる。

これはマラソンの世界でも同じことかもしれない。ロードバイク自動車が行きかうこの世界で、時速20km(キロ3分)の世界を極めることにどれほどの意味があるのか。私ハルトの『サブスリー養成講座』にどれほどの意味があるのか。そこに精神性がなく、ただ走る技術だけ解説したものだったとするならば。

人間が剣を捨てることがあっても、歩くこと走ることを捨てることはないであろう。森林や山がある限り走る技術は消え去らないかもしれない。そんな動物としてのベースの動きに精神性なんてあるのか?

もちろんある。たとえば私のいうランニングの奥義『あなたの一番速く走れる方法はあなたの肉体が一番知っている』というのは走る技術というよりは走るスピリットを説いたものだ。

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私のマラソン人生論。人生にもゴールが必要だ

マラソンをうまく走り切るためには「全力で走らない技術」が必要となってくる。全力で走るのは簡単なことだ。子供でもできる。問題は自制しながら走れるかどうか、ということだ。ゴールを見据えて力をセーブしながら走ること、これは簡単ではない。

マラソンレースの最中で具体的にいうならば、自分よりも力の劣る集団が自分を追い抜いていくのをそのまま見逃がすことができるか、ということに尽きる。追いかければ抜くこともできる集団に対して、ゴールを見据えて、自分にとってオーバーペースだと見極めて、自制することができるのか。

これはなかなか難しい。ガキにはできないことだ。

持久力勝負でも、スピード勝負でも、勝てる相手に対して、どうして抜き去らないのか。どうして自制して先に行かせるのか?

それはゴール地点で勝つためである。そのために過程で負けていることをよしとしなければならない。その自制は想像するよりも難しいことだ。

速く走るためには大きなストライドが必要である。しかしマラソンでは多少ストライドを犠牲にしてでも重心直下に着地して、後ろにパワーを押し流すようにして走る。この走法を私はサブスリー・フォーム『動的バランス走法』と呼んでいる。歩幅が狭まりスピードは落ちるが、ばてにくくなる。マラソンだったら私はウサイン・ボルトよりも速く走る事ができる。ボルトの走りは大地に杭を打ち込むように膝を高く上げて足を振り下ろすため、速いが膝の上の着地筋を酷使するため、42.195kmのマラソンを走りとおすことはできないからだ。

スピード勝負で抜きされる相手を、逃して先に行かせることは、先を見通す能力が必要になる。

負けて、負けて、何度も負けて、一瞬のスピード勝負を制しても、結局はゴールまでスピードを維持できず、最後には自分最高のパフォーマンスを発揮できないのだと心底悟るまでは、自分より力の劣るものを先に行かせようという気にはなれない。自分の実力に自信があるからアスリートになったのだ。はじめから負けるようなレースは考えられないものなのである。

しかし失敗して、失敗して、何度も失敗して、現実を思い知れば考えが変わる。その人に勝っても、他の人に負けるようなレースでは意味がない。自己ベストのパフォーマンスをするためには、力の劣るものにさえ付いていかないという自制が必要だ。

そのためにはゴールを決めることが必要だ。ゴールがないと、レースの過程で先に行かせた意味がない。最後は勝っているのでなければ、だらだら手を抜いているだけってことになる。ゴール地点では勝っている前提があるからこそ、力の劣るものをさえ先に行かせるという自制心に意味があるのだ。

幸いにしてマラソンにはゴールがある。42.195km先にゴールがあることがはじめから決まっている。

では人生はどうだろうか。人生でもゴールを決めることが重要だ。ゴールがなければ走れない。イーブンペースの魔法は、ゴールがあってこそ発揮できるものだ。あなたはウサイン・ボルトよりもはやく走ることができますか? ゴールがなければ戦略の立てようがない。あなたの人生にゴールは決まっていますか? 人生にはゴールが必要なのである。

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血尿は悟りの道しるべ。地球一周VS必殺の一撃

ゴールを見据えて力を温存する。そのことがどれほど大切か、100kmウルトラマラソンに出場すればもっとよくわかる。フルマラソンのベストタイムが2時間30分ぐらいの怪物くんに、どうしてウルトラマラソンで走り勝つことができるのか。それは怪物くんが若さと勢いで目いっぱい走ったのに対して、私が力を抜いてふんわりと走ったからである。怪物くんは自滅して走れなくなった。それが勝因なのだ。偶然ではない。こちらに自制心があったためなのだ。

『猫の妙術』のようなマラソン指南書を私も書いてみようかな。ゴールを見据えた戦略以外にも、他にもいくらだって書くことができる。これまで地球一周以上走ってきた中で考えたことが、ランニングの技術だけであるはずがないではないか。佚斎樗山よりも長文を書く自信はある。長期戦は得意中の得意だ。それが血尿マラソンランナーなのである。それが血尿剣道の必殺の一撃のように読者の心に刺さるものかどうかはわからないけれど。

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プロフィール


温人ハルト。雑誌『ランナーズ』等に執筆歴のある物書き。サブスリーランナー。グランドスラム達成者(100kmサブテン。富士登山競争登頂)。スイス・ブライトホルン。台湾・玉山。南アルプス全山縦走など登山歴も豊富。キャンプ・車中泊マニア。西天取経の旅人

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はたして放浪のバックパッカーは社会復帰できるのか!? 自由と社会との折り合いを模索するブログです。

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