市民ランナーに引退はないって本当か
市民ランナーに引退はないというが本当だろうか。
僕はそんなことはないと思う。
『マラソンは何歳から始めても10年は(その人なりに)記録が伸びる』という説がある。
50歳からはじめても、60歳までは記録が伸びつづけるという意味だ。
走友がたくさんいるランナーなら、実感として正しいとわかるだろう。
が、逆に言えばそれは「始めて10年経ったらもう記録は伸びていかない」という意味でもある。
膝には寿命がある。そして肉体にも。スピリットにも。
そう、魂にも老いや衰えがあると僕は思っている。
もちろん自己ベストを更新することだけが走る目的ではない。
しかし自分との競争、ライバルとの競争、その結果としての自己ベスト更新が強いモチベーションになっていたことは確かだ。
引退がないのは追い込まなかったランナーだけであり、限界を追求した者には、方向転換する時が必ず来る。
血尿がでるまで練習した市民ランナーには「引退」があるのだ。
市民レベルは「老衰」を「練習量」で誤魔化せてしまう
引退というと競技を完全にやめてしまうと捉えがちだがそうではない。
卓球の福原愛さんは引退したが「もう二度と卓球はやりません」と言っているのではない。「競技者としてやっていくことはもうやめる」と言っているだけである。
むしろママさんコーチとして、これまで同様に卓球をやるのではないか。
自分のお母さんがそうであったように、娘でも生まれたら卓球を教えるのではないか。
引退とは「自分を限界まで追いつめて、他者と競争して優劣を争う世界からは身を引く」という意味なのだ。
ここでの「引退」というのも同じ意味で使っている。
もう一度問おう。
「市民ランナーに引退はないって本当か?」
やっぱり僕は引退はあると思っている。
特に市民レベルのマラソンでは、もともと練習量が足りないから「老衰」を「練習量」で誤魔化せてしまうのだ。だから本当は肉体は老衰しているはずなのに、タイムがどんどんよくなっていくという現象が起こる。
だらしなかった体が締まってくるから「若返った」かのような錯覚を覚える。
これが「10年はタイムが伸びる」ことの正体だ。
しかし本当はそうではない。
「若返る」なんてことは夢なのだ。
タイムがよくなっていくのは、最初が遅すぎたからだ。
走り始める前の肉体がだらしなかったから、若返ったように錯覚するのである。
決して若返ったのではない。
オリンピッククラスのアスリートだと「劣化」を「練習量」で誤魔化すことはできない。
すでに限界まで練習しているし、競争相手も限界まで練習を積んでいる。
人間のギリギリ。
ピーク同士の頂点での勝負では、老衰は敗北、引退を意味する。
「これまでできたことができなくなった」「練習をどれだけやってもタイムが落ちていく」という現実を突きつけられて、アスリートは老衰を悟り、引退を決意する。
トップアスリートが引退を決意した平均年齢が、本当の意味での肉体のピーク年齢だと言っていいだろう。
肉体のピーク年齢は競技によってすこしづつ違う。
体が軽く柔軟性が大事な体操などはピーク年齢はとても低い。まだ子供のような年齢がピークである。伝説のナディア・コマネチは14歳だった。
体操などにくらべて、マラソンのピーク年齢は高い。14歳の子供がマラソンで金メダリストになるのは無理だろう。筋力のピークだけでなく、心肺機能のピーク、そして魂のピークが相まってマラソンランナーのピークは形成される。それでもピークは30~33歳ぐらいだろうか。
わたしたち市民にとってトップアスリートの存在意義はいろいろあるが、引退もその一つだろう。その競技の肉体の本当のピーク年齢を、トップの選手は引退によって教えてくれるのだ。
さて、読者のみなさん。あなたはいったい何歳ですか? ピーク年齢から、どれぐらい遠いところにいるのだろう?
一瞬、だけど、閃光のように、まぶしく燃えて生き抜いてやる
もうすぐそこに引退の時は来ているはずだ。人生は短い。
別に走ることを止めてしまうという意味ではない。
いつか限界が来るから、そのことを忘れずに今シーズンを燃焼しろ、という意味である。
「死があるからこそ生が輝く」という生き方、知恵がある。
映画『銀河鉄道999』ではこの哲学が作品のメインテーマになっている。
「永遠に生きられる機械の体になると人間らしい心を失ってしまう。永遠に生きることだけが幸せじゃない。限りある命だから、人は精一杯がんばるし、 思いやりや優しさがそこに生まれるんだ」と主人公・星野鉄郎は短い命を肯定する。
漫画『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』でも、このテーマが繰り返される。
臆病で弱っちいただの人間が、神の如きラスボスに啖呵を切った。
「あんたらみてえな雲の上の連中に比べたら、おれたち人間の一生なんてどのみち一瞬だろう。だからこそ結果が見えてたってもがきぬいてやる。一生懸命に生き抜いてやる。残りの人生が50年だって5分だって同じ事だ。一瞬、だけど、閃光のように、まぶしく燃えて生き抜いてやる。それがおれたち人間の生き方だ。よっく目に刻んどけよ」
心が折れた勇者を、再び立ち上がらせたのだ。
「あれだけの練習はもう二度と出来ない」と胸を張って言えるほど練習した市民ランナーには「引退」の時が来る。
限界を追求した。限界とは己の頂上のことだ。頂上に登れるのは一生のうちに一度か、二度しかない。そうでなくてはそれは「おのれの頂上」とはいえない。
だからいいのだ。楽しかった。さわやかだ。
レースに出ないという走り方だってある。
ミラノの早い朝、僕はゴシック大聖堂まで走った。
ニューヨークの早い朝、セントラルパークを地元ランナーと笑顔でグッドモーニングしながら走った。
バルセロナの輝く朝のビーチでスペイン人ランナーと競争になり、トラベルサンダルで必死に走った。
ラスベガスの早朝、眠らないカジノホテルを走った。
アトランティスが沈んだとされるサントリーニ島の急斜面をトレランのように走った。
ルクソールの古都を、僕は走った。
最高だった。
これからも僕は走り続けるだろう。このブログの最終章はもう書き終えている。
巨人の星を俺の新しい人生において、今度はどんな夢の星にするかな?