市民ランナーに引退はないって本当か?

マラソン・ランニング
天才も老い、すべては未完成
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【トウガラシ実存主義】【遊民ユーミン主義】の提唱者アリクラハルトの人生を旅しながら走り抜けるためのオピニオン系ブログ。

『車泊でGO!!』YouTube動画 始めました。(grandma-cuisine

市民ランナーに引退はないというが本当でしょうか。わたしはそんなことはないと思います。

膝には寿命があります。そして肉体にも。スピリッツにも寿命があるのではないでしょうか。

そう。魂にも老いや衰えがあるとわたしは思っています。

自分の限界を追求した。ベストバージョンの自分になれるように努力した。

そういう市民ランナーにはきっと引退の時が来ます。

人は老い、やがては消えていきます。それなのにこの一瞬の輝きにすべてを賭けられるのは、悠久の宇宙にくらべたら人間の命なんて瞬間の瞬きにすぎないことをわたしたちが知っているからです。

この瞬間に賭けられない人は、一生、何かに賭けることはできないでしょう。なぜならこの瞬間が人生のすべてだからです。

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市民ランナーに引退はないって本当か

市民ランナーに引退はないというが本当でしょうか。わたしはそんなことはないと思います。

マラソンは何歳から始めても10年は(その人なりに)記録が伸びる』という説があります。50歳からはじめても、60歳までは記録が伸びつづけるという意味です。走友会に属するなどしてランナーの友達がたくさんいる人なら実感として正しいことがわかるだろうと思います。

しかし逆にいえばそれは「始めて10年以上経ったらなかなかもう記録は伸びていかない」という意味でもあります。膝には寿命があります。そして肉体にも。スピリッツにも寿命があるのではないでしょうか。

そう。魂にも老いや衰えがあるとわたしは思っています。

もちろん自己ベストを更新することだけが走る目的ではありません。

しかし一年前の自分との競争、ライバルとの競争、その結果としての自己ベスト更新が強いモチベーションになっていたことは確かです。

引退がないのは自分を追い込まなかったランナーだけであり、限界を追求した者には、方向転換する時が必ず来ます。血尿がでるまで練習した市民ランナーには「引退」があるのです。

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市民レベルは「老衰」を「練習量」で誤魔化せてしまう

引退というと競技を完全にやめてしまうと捉えがちですがそうではありません。これはアスリートだって同じことです。

元オリンピックのマラソン選手が引退しても「もう二度と走ることはありません」と言っているのではありません。「競技者としてやっていくことはもうやめる」と言っているだけのことです。

最近では元オリンピックや世界陸上、箱根駅伝の出場選手が市民マラソン大会に出場して優勝をかっさらっていくことも珍しい光景ではなくなりました。

競技者として引退しても、むしろこれまで以上に生きる歓びや楽しさにフォーカスして走り続ける人だっていると思います。

ここでの引退とは「自分を限界まで追いつめて、他者と競争して優劣を争う世界からは身を引く」という意味です。わたしもここでの「引退」という言葉を同じ意味で使っています。

もう一度問います。「市民ランナーに引退はないって本当でしょうか?」

やっぱりわたしは引退はあると思っています。

市民レベルのマラソンでは、もともと練習量が足りないから「老衰」を「練習量」で誤魔化せてしまいます。だから本当は肉体は老衰しているはずなのに、タイムがどんどんよくなっていくという現象が起こるのです。

だらしなかった体が引き締まってくるから「若返った」かのような錯覚を覚えます。これが「10年はタイムが伸びる」ことの正体です。

しかし本当はそうではありません。「若返る」なんてことは夢なのです。タイムがよくなっていくのは、最初が遅すぎたからです。走り始める前の肉体がだらしなかったから、若返ったように錯覚するだけなのです。

決して若返ったのではありません。神の摂理を無視することなど誰にもできません。

オリンピッククラスのアスリートだと「老衰」を「練習量」で誤魔化すことができません。すでに限界まで練習しているし、競争相手も限界まで練習を積んでいるのです。人間のギリギリ、ピーク同士の頂点での勝負では、老衰は敗北、引退を意味します。

「これまでできたことができなくなった」「練習をどれだけやってもタイムが落ちていく」という現実を突きつけられて、アスリートは老衰を悟り、引退を決意するのです。

トップアスリートが引退を決意した平均年齢が、その競技での本当の意味でのピーク年齢だといっていいだろうと思います。

肉体のピーク年齢は競技によってすこしづつ違います。

体が軽く柔軟性が大事な体操などはピーク年齢はとても低いです。まだ子供のような年齢が体操競技のピーク年齢です。伝説のナディア・コマネチは14歳でした。

体操などにくらべて、マラソンのピーク年齢は高いです。14歳の子供がマラソンで金メダリストになるのは無理でしょう。

筋力のピークだけでなく、心肺機能のピーク、そして気力のピークが相まってマラソンランナーのピークは形成されます。マラソン競技のピーク年齢は30~33歳ぐらいではないでしょうか

わたしたち市民にとってトップアスリートの存在意義はいろいろありますが、引退もその一つだろうと思います。その競技の肉体の本当のピーク年齢を、トップ選手は引退によって教えてくれるのです。

限界までつきつめた者にしかわからないことがあります。引退はそのひとつだといえるでしょう。

さて、読者のみなさん。あなたはいったい何歳ですか? ピーク年齢から、どれぐらい遠いところにいるのでしょうか?

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この瞬間に賭けられない人は、一生、何かに賭けることはできない

もうすぐそこに引退の時は来ているはずです。人生は短い。

別に走ることをやめてしまうという意味ではありません。

いつか限界が来るから、そのことを忘れずに今シーズンを燃焼しろ、という意味です。

メメント・モリ「死があるからこそ生が輝く」という生き方、知恵があります。

限りある今だから人は精一杯がんばるし、人間らしさ優しさはそこから生まれるという考え方です。

もし永遠に若くいられるなら、去年と今年、そして来年の違いは何もなくなってしまいます。今も未来も違いがないのなら、何もこの瞬間を燃焼して生きることはありません。無為の一年を送っても来年頑張ればいいではありませんか。

どうして今なのでしょう。なぜ来年ではいけないのでしょうか?

人は老い、やがては消えていきます。それなのにこの一瞬の輝きにすべてを賭けられるのは、悠久の宇宙にくらべたら人間の命なんて瞬間の瞬きにすぎないことをわたしたちが知っているからです。

この瞬間に賭けられない人は、一生、何かに賭けることはできないでしょう。なぜならこの瞬間が人生のすべてだからです。

「あれだけの練習はもう二度と出来ない」と胸を張って言えるほど練習した市民ランナーには「引退」の時が来ます。

人との比較ではなく、自分の限界を追求した。ベストバージョンの自分になれるように努力した。

自信をもって自分にそう言えますか?

己の頂上に登れるのは一生のうちに一度か、二度しかありません。そうでなくてはそれは「おのれの頂上」とはいえません。ピークとは遥かなる地点です。この世界で、自分の人生で、そう滅多に到達できる場所ではありません。それがピークです。だからいいのです。

「ベストバージョンの自分」でいられなくなって、人は引退していきます。そういう意味では、人間は誰でも最後は敗者だといえるでしょう。他人に負け、最後には「ベストバージョンの自分」にも負けていくのです。

でもだからといって下を向くことはありません。自分の限界を追い求めた時間を、楽しかった、さわやかだ、と自分に言えますか?

人間はいつでも未完成です。未完成で勝負して、未完成で引退して、未完成のまま死んでいくのです。でも「ベストバージョンの自分」を追い求めた旅路そのものが、あなたの人生です。

レースに出ないという走り方だってあります。

ミラノの早い朝、わたしはゴシック大聖堂まで走りました。

ニューヨークの早い朝、セントラルパークを地元ランナーと笑顔でグッドモーニングしながら走りました。

バルセロナの輝く朝のビーチでスペイン人ランナーと競争になり、わたしはサンダルで必死に走りました。

ラスベガスの早朝、眠らないカジノホテルの中を走りました。

アトランティスが沈んだとされるサントリーニ島の急斜面をトレランのように走りました。

ルクソールの古都を、バリ島の森林地帯を、ハワイの公園を、わたしは走りました。

タイムを競うのではなく、自分のピークに挑むのではなく、ただ楽しむためだけに、わたしは走りました。

最高でした。

これからもわたしは走り続けるでしょう。レースとは別の場所で。

このブログの最終章はもう書き終えています。

最終章『走るために生まれた』

たどり着かなくても、未完成でも、それが人生です。

それでも走り続ける。ひとりのランナーとして、そういう生き方をしたいとわたしは今、思っています。

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